災いの行方・2
* * *
あかりが近づいてきた辺りから、正孝は訳がわからなくなっていた。
目の前の光景を映し取りながらも、どういう場面なのかが脳内で処理しきれない。
壱真と佐之助が入ってきた時だって意識は曖昧で、名前を呼ばれた途端にどっと恐怖だけが押し寄せてきて、自分ではどうしようもない震えに全身が支配された。
自分は大丈夫じゃないかもしれない。
そう自覚したのは、更に後、壱真に呼びかけられた時だ。
最初は何を言われているのか理解できなくて、呼ばれているのは感覚で伝わってくるのに、求められていることがわからなかった。
そこで初めておかしいと気づいて、わからないなりに壱真の後を追いかけた。
なかなか追いつけなくて、途中で立ち止まってくれたから、よたる足を励まして頑張った。
壱真が立ち止まったのはそこがエレベーターだったからで、正孝はギリギリ滑り込んで間に合った。
奇妙なほど振動のない密室の中、とにかく壱真を手伝わなきゃと目を凝らし、必死に抱えている赤い存在を視界に捉えて、自分が何をしたのか突きつけられて胸がつまった。
「あ……」
苦しくて、苦しくて、いくら酸素を吸い込んでも足りてない。
頭が真っ白で、真っ黒で、世界がマーブルに歪んでいく最中、何かがぶつかってきて足元から崩れ尻餅をついた。
「まー坊、我慢しろ! お前の話は後でいくらでも聞いてやる。でも、今はあかりが優先だ。わかったな」
遅れて、転げた原因が壱真に蹴飛ばされたからだと理解した。
それも、こんなに取り乱している正孝に我慢しろと命じてきたのだ。
いつもいつも我慢するな、無理はするな、嫌なことがあったら俺に言え! そんな風に味方でいてくれる壱真が言うのだから、少なくとも、今だけはそうするべきなのだろう。
その代わり、一段落ついたら、きっと力を貸してくれる。
だから、正孝はゆっくりゆっくり呼吸した。
壱真がいてくれる。
それだけで心強くて、小刻みに震える体は無視して、まだ何も考えなくていいのだと自分に言い聞かせておいた。
* * *
エレベーターで最上階に到着すると、何人もの大人が待ち構えていた。
壱真には重たかったあかりを軽々と、あっという間に運んでいってしまう。
連れていかれた扉の上には手術中のランプが灯り、お江戸にもこういう施設があるのだなと思う。
窓の景色がやけに高くて、ここがラプンツェルの住処と表現した五重塔なのだとぼんやり理解した。
血液のついたリストバンドを外して空っぽになった手を見るとあかりを奪い去られた気分になるけど、思い上がりもいいところだ。
もう、壱真にできることなんて一つもなかった。
精々が無事を祈るくらいのもので、それだって、全然あかりのためなんかじゃなくって、なんにもできない自分を慰めるだけの行為にすぎない。
だったら、次に向き合うべきなのは、何もしてやれないあかりや情けないばかりの自分ではなく、脆く揺れている正孝しかなかった。
「何があった」
聞いてみたって、あの状況では正孝が流星剣を持ち出して刺したのだとしか考えられない。
問いつめて、責め立てるのは簡単だ。
だけど、このまま正孝が壊れてしまうことだけは絶対に避けたかった。
「わからない」
正孝は、ぽつりと答えた。
一言こぼれ落ちたら、せき止められていた心の内がぼたぼたともれ出していく。
「気づいたら倒れてて……ううん、違う。僕が悪いんだ。だって、こっそりあかりちゃんを呼び出して、壱君の大事な刀だって勝手に持ち出したんだから。僕、なんであんなこと……ああそうだ。すごく怖くて。嫌な予感はしてたけど気のせいだって言い聞かせてたのに、壱君が僕だけ帰すって聞いちゃって。ずっとずっと一緒にいたのに、なんでかわかんなくて、壱君が心配で。だって、危ないから僕を帰らせるんだとしたら、何かの間違いで流星剣を使うことになるかもしれないわけでしょ? 僕、それだけは駄目だって思ったんだ。あんなに嫌ってた刀で誰かを傷つけるなんて、相手が極悪人でも壱君は苦しむに決まってる。なのに、僕だけが相馬家で安全にぬくぬくしてなきゃならないなんて気持ち悪くて、怖くて、すごくやだから、僕が流星剣とあかりちゃんをどうにかしなきゃって思って。だから、だから……」
正孝の告白を聞いた壱真は、横っ面をはたかれたような衝撃を受けた。
巻き込んだ事実をなかったことにしたくて、何も知らない正孝を家に帰せば許されると決め込んでいた罰が当たったのだ。
自分にだけ都合のいい道理なんて、誰にも通じるわけがない。
正孝にだって意思ってものがあって、自分のこと以上に壱真を大事に思ってくれていることくらい、誰よりも知っているはずだったのに。
「人って、あんなに呆気ないものなのかな。ずぶずぶ刺さっていくんだ。命って、本当はあんなに簡単なんだね」
その瞬間、伺い知れない手術室ばかりを見つめていた佐之助が正孝に殴りかかった。
殴りかかって、勢いよく胸蔵を掴んで、だけど、そこから動けなくなっていた。
「なんで、こんなっ……」
腹立たしげに、憎らしげに吐き出されたのはそれっきりで、続いて絞り出すようにつぶやいたあかりの名前はとても小さくて、掴まれている正孝にだけようやく聞き取れるものだった。
佐之助の世界はあかりを中心にして回っている。
己以上に大事な存在で、物心ついた頃からの自然な気持ちだったから、漆喰の壁が隔てる外がどれだけ不幸に見舞われようと、内にいるあかりが笑ってくれるなら構わないほど揺らぎのない感情だった。
そんな無二の太陽を傷つけられたのだ。
すぐにでも、同じことを返してやりたくて心身が戦慄く。
なのに、一方で、一時でも心を通わせ、ましてや目の前で怯えて混乱している年下をなじれるほど佐之助は衝動に身を任せられなかった。
「くそっ、くそっ!」
怒り狂うことのできない理性が不甲斐なくて仕方ない。
これでは、まるで、あかりを大切にしてきた真心が嘘っぱちだったみたいで、情けなくて悔しくて、この世の全てが信じられなくなってくる。
佐之助が歯を食いしばって乱暴に扱うと、正孝は体を折り曲げてうずくまった。
そう強く押したつもりがなかったので内心でうろたえ、尚のこと、自分がどうしようもなくなる。
「ふざけるな!」
中途半端な自分に嫌気が差しながら怒鳴りつけてきつく見下ろしていると、不意に、おかしな姿勢に気がついた。
正孝は乱暴に支配した胸元ではなく、下腹辺りを抱えて呻いている。
嫌な予感がして有無を言わさず服をめくれば、わき腹近くに小さな青あざが浮かんでいた。
楕円のそれを見て、佐之助は責めきれない本当の理由が腑に落ちた。
「正孝、すまない」
懺悔のように謝罪する佐之助は、胸倉を掴んだことを言っているのではなかった。
「全部俺のせいだ」
正孝を殴り飛ばせないのも当然だった。
「はは。馬鹿みたいだ。あかり様を追いつめていたのは、俺じゃないか」
「おい、どういう意味だ?」
ずるずるとしゃがみ込んだ佐之助に、話が見えていない壱真が説明を求める。
「単純なことだよ。あかり様は正孝に刺されたわけじゃない。自分から刺さりに行ったんだ」
「はっ、何いってんだよ」
「刀を持ち出したのは正孝なんだろう。でも、実際には何もしなかった。だから、これはあかり様の自殺だ」
そんなことわかるもんかと言い募ろうとした壱真を制して、佐之助はしゃべり続ける。
「正孝の腹に青あざがある。刀の柄の形をしていた。ちょうど、両手で握って構えるくらいの高さだ。最初から違和感はあったんだ。あの場で壁際に押しやられていたのは正孝の方だった。刀だってあっさり離れていただろう。だから、安心していい。正孝に責任はないし、そうさせたのは俺だ。何もかも俺が悪かったんだ」
佐之助は両手で顔を覆って打ちしひがれていた。
正面で見下ろす壱真には、佐之助の想像が的を得ているだろうことを知っていた。
昨日、あかりと二人きりで話した時、ひどく思いつめているのが嫌でもわかった。
その理由が佐之助だということも。
だからといって、壱真がそれらを認めるわけにはいかなかった。
「違う。違う、違う、違う、違う! 元はといえば、考えなしにお江戸まで乗り込んで、偉そうに正義のヒーローだとかほざいてた俺のせいだ。全部、全部、俺のせいなんだ!!」
壱真は強くがなった。
「はあ。こんな風に自分を責めていれば楽だよな」
快活な壱真に似合わない暗い声音に、佐之助は心臓が痛んだ。
壱真まで傷つけてしまったのだと絶望した気持ちで見上げると、怒っているはずなの壱真は、なぜか泣いているように見えた。
「わかってんだろ。こうやって考えてったら、最後には出会わなきゃよかったって後悔するしかなくなる。それは、俺らが一番やったら駄目なことだろうが」
「……駄目な、こと?」
「そうだ。楽しかった思い出を勝手に書き換えるなよ。あかりにとって、何よりの幸せだったんだぞ」
まさかと佐之助は否定しながらも、片隅では、やっぱりという感情がじわりと広がっていった。
そうして、どこでこんな風に捩れてしまったのだろうと哀しくなった。




