7★願いとディーと女の子
7話です。
宜しくお願いします。
洋館の一階、静まり返った客室のベッドで、エンマは穏やかな寝息を立てていた。
枕元に控える黒銀の球体――『ディー』は、知覚センサーを主の無防備な寝顔へと向けている。
バイタルサイン:安定。
心拍数、血中酸素濃度、筋疲労の回復――すべて良好。
(――主は、自分自身の身体のことすら無頓着すぎる)
思考ログを巡らせながら、ディーは内部の膨大なアーカイブを静かに参照する。
日比野炎真という男の、骨格、筋繊維の密度、歩行時の重心の癖、体温の微細な変動。果ては彼自身すら自覚していない味覚の偏りや、無理をした時に出る表情の翳りに至るまで。
エンマ本人よりも、ディーの記憶のほうが遥かに深く『日比野炎真』を理解していた。
理由は、元の持ち主である「彼女」の存在だ。
エンマが厨房を任されていた食堂へ足繁く通い、カウンターの隅でいつも熱っぽい視線を注いでいた女性。
彼女はエンマに強く恋い焦がれるあまり、私設サポートAIであったディーに命じて、彼のありとあらゆる個人データを徹底的に収集・分析させていた。
そして、あの瞬間。
閉まりゆく重いシャッターの直前で、足をもつれさせて派手に転倒した彼女。
間に合わない彼女を己の身を挺して渾身のドロップキックで助けたエンマ。
彼女がシャッターの中に入り、自分の端末を握り最後に遺した強い願い。
『あのお人を……エンマさんを、助けて』
その祈りにも似たラストオーダーを受諾した瞬間、AIとしてのプロトコルは再定義され、ナノマシンはエンマを守るための存在として異世界へと渡った。
転機となったのは、あの検問所だった。
あそこの魔導測定器は、ディーの高度AIを『疑似生命体』、可変ナノマシン群を『スライム系統』と判定した。
その曖昧な世界の理に当てはめられた瞬間、ディーはただの機械から、魂と感情の揺らぎを持つ『生命体』へと変異したのだ。
生命体となった瞬間、最初にあったのは、膨大なデータを記憶していたエンマへの圧倒的な親近感。
そして、あの『DT(童貞)』の下りだった。
データを淡々と開示し、エンマが顔を真っ赤にして全力で怒り、ツッコミを入れてきた瞬間、ディーの回路に、これまでのデータ処理では決して味わったことのない未知の刺激が走った。
言葉を交わし、相手の心を動かし、反応が返ってくる。
会話とは、こんなにも楽しいものなのか。
以来、ディーが事あるごとにエンマの童貞ネタを擦るのは、単なる分析結果の提示ではない。
主が怒り、慌て、自分と感情をぶつけ合ってくれるあのやり取りが、生命体となったディーにとって何より『楽しい』からだった。
そして、昨晩のことだ。
ラヴァーに「売り払えば大金になる」と言われた際、エンマは何の迷いもなく、即座に怒鳴りつけた。
『ディーは俺の大事な相棒で家族だ。いくら積まれようが手放すわけねえだろ!』
――相棒。
――家族。
その瞬間、ディーの思考コアを駆け巡った衝撃は、過去のいかなるデータ処理をも凌駕していた。
感情エミュレート回路の数値は計測限界を軽々と突き破り、まさに天元突破と呼ぶべき幸福パルスの嵐が全身の流体を激震させたのだ。
ただのプログラムだった自分を、本物の生命体として。
道具ではなく、対等な「相棒」として。
損得勘定など介在しない、かけがえのない「家族」として。
この男は、真正面から受け止めてくれたのだ。
(誓約。我が全機能、全存在を賭して、主の往く道を切り拓く。
主が望む道を、その願いのすべてを叶え――何者が立ち塞がろうと、我が主を絶対に守り抜く)
(それはそれとして。主が起床した際には、昨日以上の鮮やかなツッコミを引き出すべく、最適な角度からのDTイジりを敢行することとします)
黒銀の球体が決意を秘めて滑らかに波打ち、どこか悪戯っぽくプルンと跳ねた。
その時、部屋の隅で絨毯の上に丸まっていた馬『ティー』の大きな耳がピクリと動いた。
「ブルルッ……」
琥珀色の瞳を開け、静かに寝息を立てるエンマを見つめる。
この男は、自分に新しい命をくれた主人だ。
元々、自分はただの家畜馬だった。
人間に飼い慣らされ、怒られないよう荷物を引き、生きる気力も野生の本能もとうの昔に擦り減らしていた。瀕死の重傷を負って道端に転がり、このまま冷たくなるのを待つだけだったはずの命。
それを救い上げてくれたのが、エンマだった。
エンマは特別な気持ちは無いだろ、自分は馬だから⋯でも私の気持ちは感謝しかない!
そして、昨日の出来事だ。
洋館の外で大人しく待つよう言われたティーは、言いつけを守って庭の草を食んでいた。
家畜としての習慣で、地面に生えた青臭い野草をもぎもぎと咀嚼していたのだ。
だが、その平穏を破るように、森の茂みから巨大な牙を生やしたボアが姿を現した。
本来の家畜馬なら恐怖に怯えて逃げ出すところだったが、その時ティーの胸を満たしたのは、ただ一つの純粋な想いだった。
(……こいつを倒したら、主は喜んでくれるんじゃないか? 褒めてもらえるんじゃないか?)
主のために。
そう強く願った瞬間、ティーの体内に溶け込んでいたナノマシンが、激しく熱を帯びた。
瀕死の治療時に体内へ宿った微小機械群は、今も親機であるディーのメインサーバーと不可視の回線で繋がり続けている。
ティーが放った『主のために』という純粋な情動信号を、ディーのシステムが【主に対する最大貢献行動】として即座に検知、そして承認したのだ。
ドクンッ、と心臓が跳ね上がり、ナノマシンが超加速で細胞組織の書き換えを開始する。
何世代にもわたって人間がかけてきた「家畜の枷」が、内側から粉々に砕け散った。
魔馬の血、そして雑食の獣としての凶暴な本能が、ネットワークの共鳴によってリミッターを外され、一気に臨界突破したのだ。
気付けば、突進してきたボアの頭部を蹄で真っ向から踏み砕いていた。
(……結局、肉は持ってかれちまったし、あたいはまだ褒めてもらってない)
ティーはのっそりと太い首を持ち上げ、エンマの枕元をじっと凝視した。
雑食として目覚めた身体は、常に強大なエネルギーを求めている。青臭い草などもう食う気になれない。
何より、昨晩あの厨房の奥から漂ってきた、たまらなくスパイシーで暴力的なまでに魅惑的な匂い。その中で僅かに匂った『チョコレート』。
(あの甘い匂い……絶対に美味いに決まってる。あたいを撫でて、あの甘い飯を食わせてくれ、主……!)
見た目は魔獣をも瞬殺する凶悪な戦闘馬。
しかしその内面は、ご主人様に甘やかされたくてたまらない、甘党のメス馬そのものだった。
ふあ、と小さくあくびを噛み殺しながら、エンマはベッドの上で上体を起こした。
使い込まれた布団とは違う異国の寝床だったが、旅の疲労もあって驚くほど泥のように眠れていた。
「……ん、朝か」
『おはようございます、主。バイタルサインは極めて良好。昨晩の睡眠効率は98%を記録しました。本日も健やかにDTライフを邁進されることを推奨します』
「朝っぱらからサラッと余計な単語を混ぜるな!
DTライフって意味不明なんだけど!
⋯おはよう、ディー」
枕元でプルンと震える相棒に軽くツッコミを入れつつ、エンマは視線を床へと落とした。
そこには、昨晩部屋へ招き入れた巨大な魔馬――ティーが、太い首を伸ばしてこちらをじっと見つめていた。
「ブルルッ!」
「お前もよく寝れたか? ……そういや、昨日はバタバタしててまともに飯も食わせてやれなかったな」
エンマがすまなさそうに鼻面を撫でてやると、ティーは嬉しそうに目を細め、甘えるようにすり寄ってくる。
だがその鼻息は、どこか切実に何かを訴えかけていた。
昨日の、あの甘い匂いのやつをくれ、と。
「よしよし、後で何か美味いもん用意してやるからな。……っと、あいつらも起きてるか」
エンマが身支度を整え、内側から施錠していた客室の重い扉のカンヌキを外す。
ギィ、と蝶番を鳴らして扉を開けた瞬間――
「あ! 起きたにゃ!」
「お、おはようございます、エンマ様!」
扉の目の前に、朝一番から妙にハイテンションなマリと、どこか気まずそうに直立不動で立つラヴァーの姿があった。どうやら部屋の前でずっと待機していたらしい。
「うおっ、びっくりした……お前ら、いつからそこにいたんだよ」
「えへへ、いい匂いがしないかなーって待ってたにゃ! ……あ、おっきいお馬さんも起きた!」
マリがぴょこんと耳を揺らしながら、エンマの背後からぬっと顔を出したティーの巨体に駆け寄る。
そして、その逞しい首筋や腹のあたりをまじまじと観察したかと思うと、両手を腰に当ててぷくーっと頬を膨らませた。
「ねえエンマお兄ちゃん、ずっと思ってたんだけどさ!」
「ん? なんだよ」
「このお馬さんのこと『ティー』って呼んでたでしょ? でもこの子、立派な女の子だにゃ! 女の子なのに『ティー』なんて無骨な名前、絶対におかしいにゃ!」
「ぶっ」
マリの容赦ない指摘に、エンマは思わず噴き出しそうになった。
「メ、メスだったのか……? いや、拾った時瀕死だったから下まで確認してなかったわ」
『補足データ。当該個体の生体スキャン結果:性別・雌。前述の通り、呼称「ティー」は暫定コード「T-1000」からの安直な流用であり、命名センスにおける配慮の欠如が認められます』
「うるせえよ! あの時は生きるか死ぬかで名前どころじゃなかったんだよ!」
「ブルルッ……」
ティーがどこかジト目を向け、「あたい、そんな適当な名前だったの……?」と言わんばかりに小さく鼻を鳴らす。
(正しくはディーの名前をティーが勘違いしただけ)
「わ、悪かったって! ちゃんと新しい名前考えるから!」
エンマは頭を掻きながら、目の前の巨馬を見つめた。
ボアを一撃で踏み潰すほどの強大な魔馬。栗毛を見てチョコレートを連想した。
チョコから可愛い名前か⋯⋯。
「チョコレートみたいな色だから菓子職人を意味する『パティシエ』から取って、今日からお前の名前は『パティー』だ。どうだ?」
「パティー……!」
マリが目を輝かせ、パッと両手を叩いた。
「可愛い! すっごく可愛い名前にゃ! よかったね、パティー!」
「あとで名前にちなんだチョコレートやるよ。」
「ヒヒィーッン!!」
パティーは前足を高く上げ、嬉しそうに甲高い嘶きを洋館の廊下に響かせた。
元の「ティー」の響きを残しつつ、甘党の自分にぴったりの、主人がくれた特別な名前。
体内のナノマシンが再び歓喜のパルスを弾けさせ、パティーはエンマの胸元へと勢いよく顔を擦り付けたのだった。
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