第二章 危機:打ち消された歌と無音の絶望
キィィィィン―――……
夜の森に響き渡る高周波は、耳を塞ぎたくなるほど不快で凶悪だった。四天王アルファベトの全身を包む黒い法衣が、風もないのに不気味に揺らめく。彼の周囲を旋回する無数の「黒い文字」は、ひとつひとつが幾何学的に整列した完璧な配列を保っていた。「四天王……!こんな街道沿いに、なぜ幹部自らが……!」リリアが柄を握りしめ、前傾姿勢をとる。その背中で、重戦士が巨大な大斧を構え、全身の筋肉を硬直させていた。「おいおい、冗談じゃねえぞ……!気配が違いすぎる。今まで相手にしてきた雑魚の魔物なんぞとは格が段違いだ!」重戦士の額から一筋の冷や汗が流れ、地面へ落ちた。しかし、アルファベトの冷徹な眼光は、リリアにも重戦士にも向けられていなかった。その視線はただ一点、リリアの影に隠れた十二歳の少年アルファだけに注がれていた。「報告を受けた時は耳を疑った」アルファベトが無機質な声で吐き捨てるように言った。その声自体に「字形魔法」の波動が乗っており、発声されるたびに空気が微振動を起こして文字の形に光る。「失われた最古の異端『音声魔法』。個人の感性だの、世界の色彩だのという曖昧な代物に依存する欠陥魔法。それが我が飛行部隊を一瞬で消滅させたとな。……ゆえに、私は自ら確かめに来た。未確定な異物を、我が論理で解剖し、消し去るために」アルファベトの手が、すっと持ち上がる。サッ。彼の周囲に浮かんでいた黒い文字群が、まるで巨大な群れをなす黒い蜂のように空中を蠢き、立体的な「多面体の文字魔法陣」を形成した。それは効率と論理のみを極限まで追求した、現代字形魔法の最高到達点。冷たく、均一で、慈悲のない「文字の城壁」だった。「アルファちゃん、下がっていて!」リリアが大剣を構え直す。「いいえ、リリア様」アルファが静かに歩み出た。リリアの横を抜け、四天王の前へと進み出る。その表情には、子供とは思えぬほどの誇りと怒りが満ちていた。「僕の『歌』を……僕の『音声魔法』を欠陥品って言ったね。……取り消しなよ。文字という死体をこねくり回してるだけの君に、この世界がどれだけ美しい音で溢れてるか、教えてあげる!」アルファが深く息を吸い込んだ。(一撃で仕留める……! 僕の最高の旋律で、あの不快な黒い文字ごと吹き飛ばしてやる!)
アルファの胸の内で、情熱が爆発する。彼は自身の知覚する世界の音。風のそよぎ、夜虫の羽音、大地の脈動。そのすべてを自律的に拾い上げ、一編の完璧な音響構文へと変換した。小さな口が開かれる。「風のソプラノ、大地の低音、空の残響!」ピキィィィィン!!アルファの声に応じるように、彼の頭上へ眩い「金色の光」が弾けた。昨日の夜、百頭の魔物を一瞬で塵へと変えたあの幾何学模様。繊細で美しく、芸術作品のように澄み切った《奏曲:アリア・ゼロ》の音響魔法陣が、夜空いっぱいに広がり始める!「おお……! 出たぞ、坊主の金色の魔法だ!」重戦士が声を上げる。「いけ、アルファちゃん……!」リリアが祈るように拳を握りしめた。アルファは背伸びをするように右手を高く掲げ、圧倒的な威風とともに、金色の魔法陣を収束させた。「見せてあげる!僕の『生きた歌』の威力を!《奏曲:アリア・ゼロ》発動!!」
黄金の光線が放たれ、空間そのものを揺るがす音波の奔流が四天王アルファベトを飲み込もうとした。その、直前。「解析、終了」アルファベトが冷徹に呟いた。カチリ。世界から、音が消えた。「え?」アルファの指先が凍りついた。弾けるはずだった黄金の衝撃波が、放たれる直前に「ぴたり」と静止したのだ。空間に描かれていた美しく繊細な金色の幾何学魔法陣。その表面へ、アルファベトの展開した「黒い文字の鎖」が、まるで寄生虫のように這い寄り、絡みついていく。ビキビキビキッ……!「な、なに……これ……!?魔法陣が……動かない……!?」アルファが青ざめた顔で声を張り上げようとした。だが、自分の口から「音」が出ない。空気をいくら振わせようとしても、歌声が空中で掻き消されていく。「愚かな」アルファベトが、黒い法衣を翻しながら静かに一歩を踏み出した。その両手からは、無数の複雑な数式と文字列が、滝のように溢れ出していた。「貴様の『音声魔法』とやらは、要するに自然界の音波(波形)を魔法媒体として利用しているに過ぎん。波形である以上――『逆相』が存在する」「ぎ……逆相……!?」「理解できんか?貴様がどれほど複雑で美しい歌を歌おうとも、その周波数、振幅、波形を即座に解析し、正反対の位相を持つ『無音化の文字陣』を重ねてしまえばどうなるか」アルファベトが細い指先を優雅に鳴らした。パチン。ドォン!!アルファが誇る金色の魔法陣が、黒い文字の鎖に締め上げられ、音もなく粉々に砕け散った。「くあぁっ……!?」魔法の強制解除による激しい反動がアルファを襲う。アルファは胸を強く打たれたように血の気を引き、その場に膝をついた。「魔法陣が……消された……? 僕の歌が……消された……!?」衝撃と恐怖で、アルファの全身が震え始めた。生まれてからずっと、自分の耳と声を信じて生きてきた。世界に満ちる音を拾い集め、誰にも負けない最強の「音声魔法」を作り上げたという自負があった。それが目の前の男の手によって、一瞬で「ただの波形データ」として分解され、無価値なものとして打ち消されたのだ。「自然の模倣など、計算の域を出ん」アルファベトの冷たい声が、容赦なくアルファの心をえぐる。「構造が解明された以上、貴様の歌は二度と奏でられることはない。貴様の魔法は今、この瞬間をもって『完全に無音化』された」「う……嘘だ……!僕の歌が……僕の魔法が……!」アルファは必死で喉を鳴らし、次の旋律を紡ごうとした。だが、声を張り上げれば上げるほど、空中に展開しようとする金色の光は、出現した瞬間に黒い文字の波に飲み込まれ、かき消されていく。声が出ない。歌が届かない。世界の色彩が、ひとつ、またひとつと失われ、灰色と黒の無機質な記号に塗りつぶされていく。「これが『文字』による完璧な支配だ。死ね、異端の遺物」アルファベトが掲げた手から、巨大な黒い文字で形作られた「槍」が生成された。その鋭利な尖端が、地面にへたり込む少年へと一直線に狙いを定める。
「アルファちゃん――っ!!」
「させるかぁぁぁぁぁっ!!」
炸裂する破砕音とともに、巨体がアルファの前へと割り込んだ。重戦士だ。 彼は背中の大斧を両手で固く握り締め、身を挺してアルファを覆い隠すように立ちはだかった。ズガァァァァンっ!!黒い文字の槍が、重戦士の大斧と正面から激突する。衝撃波が森の木々を薙ぎ倒し、爆風がアルファの前髪を激しく吹き散らした。「ガハッ……! つっ……あぁぁぁっ!!」重戦士の口から、鮮血が噴き出した。文字の槍は単なる物理攻撃ではない。触れた物質の強度や概念そのものを分解する文字の波だ。重戦士の自慢の分厚い鉄の鎧が、槍に触れた部分からメキメキと音を立てて砕け、黒い文字の浸食を受けていく。「重戦士さんっ!?」アルファが悲鳴を上げた。「へっ……へへっ……格好つけやがって、坊主……!」重戦士は膝をガクガクと震わせ、大量の血を流しながらも、決して後ろへ倒れようとはしなかった。血に濡れた顔で、背後のアルファへニッと笑いかける。「言ったろ……!大人の言うことを……聞いておけってよ……!十二歳のガキが……背負い込むんじゃねえ……!」「ダメだ、逃げて! 僕なんかのために――」「バカ野郎が……!『僕なんか』なんて……言うんじゃねえ……! お前の歌は……かっこよかったぜ……!」バリィィィンッ!ついに重戦士の大斧が耐え切れずに破砕した。文字の槍の残波が重戦士の胸を深く切り裂き、彼の巨体が激しい血飛沫とともに地面へ倒れ伏した。「重戦士さん!!」「無駄な悪あがきだ」アルファベトは一歩も動かず、淡々と次の文字陣を生成していく。「肉体言語しか持たぬ野蛮人め。論理の前には一滴の価値もない」「よくも……よくも仲間に……重戦士さんにそんな酷いことを……!」叫んだのは、リリアだった。彼女の瞳から、普段の優しさや穏やかさが完全に消えていた。代わりに宿っていたのは、大切な仲間を傷つけられたことに対する、狂おしいほどの怒りと凛とした覚悟。リリアは大剣を上段に構え、自らの身を削るようにして全身の魔力を「字形魔法」へと変換し始めた。「文字描画《極光斬:ルミナス・スラッシュ》!!」リリアの身体から、眩いばかりの純白の光線が飛び出した。剣を振り下ろし、一直線にアルファベトへと突撃する。その速さは目にも留まらない。彼女は自分の命を省みず、間合いを詰めて一撃のもとに四天王を討ち取ろうとしたのだ。だが。「遅い」アルファベトが軽く左手を払う。空中へ展開された無数の黒い文字が、瞬時に立体的な「無数の壁」となってリリアの光線を受け止めた。ガガガガガガギィィィンッ!!「くっ……あぁぁぁっ!!」白銀の光と黒い文字の壁が衝突し、凄まじいスパークが飛び散る。リリアは歯を食いしばり、必死に剣を押し込もうとするが、文字の壁は一枚破られるたびに倍の勢いで再生し、彼女の攻撃を完全に死殺していく。「貴様の剣技も、魔力パターンも、すでに我が文字陣のデータベース内に存在する」アルファベトの冷徹な声。「パターン328。出力不足。破砕」チュドォォォォンッ!黒い文字の壁が一斉に反転し、逆位相の衝撃波となってリリアを襲った。「キャぁぁぁぁぁぁっ!?」リリアの体が宙を舞った。 甲冑が弾け飛び、華奢な体が重音とともに冷たい地面へと叩きつけられる。大剣が手から滑り落ち、遠くの瓦礫へと転がっていった。「リリア様――っ!!」「はぁ……っ、はぁ……っ……」リリアは血の混ざった息を吐きながら、必死で立ち上がろうとした。だが、全身の関節が悲鳴を上げ、膝が笑って力が入らない。白銀の美しい甲冑はボロボロに砕け、腕や脚から紅蓮の血が滲み出ていた。それでも。彼女は倒れたままの重戦士をかばい、そして何より恐怖に震えるアルファの前に、ふらつく足取りで再び立ち塞がった。両手に武器はない。魔力も底を突いている。それでもリリアは、背後にいるアルファを守るように、両腕を大きく広げた。「行かせ……ない……」掠れた声。だが、そこには折れない強い意志があった。「アルファちゃんには……指一本……触れさせない……!」「リリア様……やめて……!もうやめてよ!!」アルファは叫んだ。涙が目から溢れ出し、灰と血に汚れた頬を濡らす。(僕のせいだ……。僕が自分の力を過信して、僕が調子に乗っていたから……!重戦士さんが倒れて、リリア様まで……!)悔しさと、情けなさと、無力感。 胸が押し潰されそうだった。 自分がどれほど背伸びをしても、結局は十二歳の子供に過ぎなかったのか。誇っていた「音声魔法」も、大人の理屈と論理の前には何の役にも立たない、ただの「未熟な歌」だったのか。「理解不能だな、女勇者」アルファベトが、倒れかけたリリアを見下ろす。「勝機はゼロだ。その子供の魔法は完全に封じられた。防具も、武器も失った貴様が立ちはだかる合理的な理由が存在しない」「理由なんて……最初から……ひとつしかないわ……」リリアは血を拭い、かすかに微笑んだ。その青い瞳は、どこまでも澄み渡っていた。「私は……この子の『お姉さん』なんだから……。大切な人を守るのに……理屈なんて……要らない……!」「……不合理だ」アルファベトの目が冷たく細められた。「感情というノイズは、論理の構築において最も排除すべき欠陥だ。消え去れ」四天王の手から、先ほどとは比べものにならない巨大な「黒い文字の嵐」が巻き起こった。森全体を飲み込むほどの質量を持った文字の渦が、リリアの華奢な体を砕き散らそうと迫る。
「リリア様ぁぁぁぁぁぁっ!!」
アルファは叫び、リリアの背中へ飛びついた。そして。アルファの視界の中で、世界が止まった。(守りたい)アルファの胸の奥で、何かが音を立てて弾けた。(リリア様を守りたい。僕の命なんてどうなったっていい。この人を……僕に『世界で一番美しい』って言ってくれたこの人を……絶対にしなせたくない……!!)今までアルファが紡いできた「音声魔法」は、すべて「自然の模倣」だった。風の音、大地の音、雷の音。自然界に存在する綺麗な音を拾い集め、それを規則正しく並べ替えただけの「綺麗な幾何学」。だから、解析された。 だから、計算された。 自然の法則に従っているだけの音なら、論理という計算式でいくらでも「逆相」を作り出せる。だが今、アルファの胸の奥で渦巻いているこの感情は何か?怒り。恐怖。後悔。そして溢れんばかりの一途な恋心と、命をかけた愛おしさ。(これは……自然の音じゃない……!)アルファの知覚する世界に、見たこともない「新しい色彩」が爆発的に広がり始めた。それは風の緑でもない、大地の茶色でもない。燃えるような、狂おしいほどの、圧倒的な「真紅」と「黄金」の混ざり合った、人の情動の音。法則なんてない。計算なんてできない。 今この瞬間にしか存在しない、アルファが「一人の男」として大好きな人を守りたいと願う、狂おしいまでの心の叫び!
カチリ。
アルファの胸の奥で、何かが噛み合わさった。「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」アルファは叫んだ。それは、これまで歌ってきたどの旋律よりも荒々しく、不揃いで、けれど息をのむほど苛烈な「歌」だった。ドカァァァァンッ!!アルファの身体から、圧倒的な「光の濁流」が噴き出した。「なに……!?」アルファベトの無感情な顔が、初めて驚愕に歪んだ。リリアへと迫っていた黒い文字の嵐が、アルファの放った光の波と衝突し、押し戻されたのだ。「バカな……! 貴様の波形はすでに解析済みのはず……! なぜ打ち消せん……!?」アルファベトが必死で手元の文字魔法陣を操作し、新たな「逆相波形」を重ねようとする。だが、アルファの口から溢れ出る音波は、一秒ごとに、いやコンマ一秒ごとに形を変え、計算の速度を遥かに置き去りにして変化し続けていた。解析が追いつかない。 計算が間に合わない。論理という堅牢な城壁が、一人の少年の「爆発する感情」によって、内側から粉々に破壊されていく!アルファはリリアを後ろへ押しやり、血を吐きながら前へ踏み出した。 その瞳には、黄金の炎がメラメラと燃え上がっていた。「僕の歌は……自然の真似事なんかじゃない……!」アルファの手の平から、溢れ出る光が旋律を奏でる。それは幾何学模様の綺麗な魔法陣ではなかった。音符と光の粒子が、情熱の赴くままに渦を巻く、荒々しくもどこまでも美しい「新しい音響魔法陣」!「僕の歌は……リリア様を好きな、僕の『心』の音だぁぁぁぁぁっ!!」覚醒の光が、夜の森を、そして絶望の闇を真っ白に染め上げた。




