第三話 間に合わない
夜中だった。
村の半鐘が鳴っていた。
かんかんかん……間を置かず、何度も。あんなふうに鳴る鐘を、わたしは聞いたことがなかった。
悲鳴が混じる。怒号が続く。犬が、遠くで長く長く吠えていた。
飛び起きた。心臓が、耳の奥で鳴っていた。外が、騒がしい。
是雄は、もう立っていた。蒼竜は刀を取っている。諏訪様までが、めずらしく最初から立ち上がっていた。
そこへ、村人が一人、神域へ転がり込んできた。
血まみれだった。膝が震えて、まともに立てていない。
「助けてくれ……!」
「妖だ! 村が……村が襲われてる!」
その声が終わるより早く、是雄は駆け出していた。蒼竜が後に続く。
わたしも立ち上がった。
「だめだ」
是雄が振り向きもせずに言う。
「行きます」
自分でも驚くほど、強い声が出た。こんなふうに言い返したのは、初めてだった。
是雄が、ほんの一瞬、足を止めて困った顔をした。蒼竜が眉をひそめる。
「危うございます」
諏訪様は、何も言わなかった。
ただまっすぐに是雄を見た。ここで引き下がったら、きっと、一生この村に顔を上げられなくなる。そんな気がした。
是雄は、短く息を吐いた。
「離れるな。おいらの背中だけ見てろ」
「はい」
それが、許しだった。
山道は、すでに血の臭いがしていた。
焦げ臭い。煙が、木々の間を這うように流れてくる。村のある方角の空が、赤く染まっていた。
胸が、苦しくなった。
なぜだろう。まだ何も見ていないのに、いやな予感ばかりが、せり上がってくる。
昨日、芋を盛ってくれたあの手が、団子を約束してくれたあの声が、頭の中をぐるぐると回った。
「足を止めるな」
是雄が、低く言った。村に着いて、わたしは言葉を失った。
地獄だった。
納屋が半分つぶれている。柵が、根こそぎ倒されている。家の壁に、大きな穴が空いていた。
地面には、割れた瓶や、踏みつぶされた野菜が散らばっていた。昼間、婆さまたちが笑っていた井戸端は、桶がひっくり返り、水が泥と混じって黒く広がっている。
あちこちに怪我人が転がり、子供が泣き叫んでいる。
まだ妖が残っている。六本足の犬が数体。肋骨が浮くほど痩せているのに、倒れた柵を踏み砕きながら駆け回っている。赤い目だけが、闇の中でぎらぎらと光っていた。
蒼竜が動いた。刀の光が一閃して、一体の首が飛んだ。返す刀でもう一体の胴を両断した。
是雄も、手をかざして何かを唱え、別の一体を吹き飛ばした。
諏訪様は手を伸ばし握る仕草をしただけで、犬は悲鳴をあげる間も無く潰された。
戦いは、すぐに終わった。
けれど、是雄の顔は晴れなかった。
「……こいつらで、こうなるか?」
是雄が、半壊した家を見上げてつぶやく。
太い柱が、壁が、まるで小枝のようにへし折れていた。上から強い力で押し潰したような。
蒼竜は、返事をしなかった。
ただ、その顔色だけが、すっと変わった。
遠く、山際。
黒い、巨大な影が、一瞬だけ見えた。
頭は、木々よりもずっと高い。それは四つ足のようにも、二本の足で立っているようにも見えた。けれど、輪郭がはっきりする前に、闇に溶けてしまった。
わたしは、気づかなかった。是雄と蒼竜だけが、その方角を見ていた。
「まずいですね」
「ああ」
「下位ではありません」
蒼竜の言葉に、是雄が短く応じた。
影は、すぐに山の向こうへ消えた。是雄も蒼竜も、それきり何も言わなかった。
わたしが顔を上げると、村人たちが一か所に集まっていた。
また、いやな予感がした。
わたしは、その人垣のほうへ歩いた。是雄が何か言ったけれど、耳に入らなかった。
人をかき分けて、前へ出る。
そこに、婆さまがいた。
地面に横たわって、白い布をかけられている。団子を作ると言った、あの背の低い婆さま。足が、動かなくなった。
話は、すぐに伝わってきた。
妖が家に押し入ったとき、婆さまは孫を抱えて、裏口から逃がしたのだという。自分は、戸口に残った。
孫は、助かった。
けれど、婆さまは死んだ。
その孫が、布の横で泣いていた。わたしより、少し小さな子だ。
「おばあちゃん」
「起きて」
「起きてよ……」
その子は、何度も同じ言葉を繰り返していた。声がかすれても、やめなかった。誰も、その子を引き離せずにいた。
わたしは、近づいた。信じられない。
昨日、会ったのだ。飴をくれて、頭を撫でてくれた。団子を作っておくと、笑ってくれた。
だから、わたしは、その肩に手を伸ばして、そっと揺すった。
返事は、なかった。
手に、触れた。冷たかった。
日なたの石のような、生きている人の温かさが、どこにもなかった。指の節も、手の甲のしわも、昨日のままだった。
昨日、わたしの頭を撫でてくれた、その手。なのに、ただ冷たかった。
いくら名前を呼んでも、いくら肩を揺すっても、この人はもう目を開けない。明日になっても、明後日になっても、ずっと。
わたしは、何も言えなくなった。喉の奥が、ふさがってしまったみたい。
村人たちは、葬りの支度を始めていた。
誰も、騒がなかった。怒鳴る者もいなければ、泣きわめく者もいない。みんな、静かに、ただ静かに涙を流していた。
ひとりの男が、戸板に婆さまを乗せた。ひとりの女が、その上に新しい布をかけ直した。ことさら丁寧に、しわを伸ばすように。
誰かが手を合わせ、それを見たべつの誰かも、黙って手を合わせた。
その静けさが、悲鳴よりもずっと、胸をえぐった。
わたしは、諏訪様を見る。
諏訪様は、少し離れた場所に立って、その光景を見下ろしていた。
わたしの目から、冷たいものがこぼれそうになる。怒りなのか、失望なのか、自分でもわからなかった。
神様なのに。
言葉にはしなかった。けれど、わたしの目が、勝手にそう言っていた。
どうして、守ってくれなかったのですか。あの婆さまは、ただ孫を逃がしただけなのに。
諏訪様は、わたしの視線に気づいた。
けれど、何も言わなかった。言い訳もしなかった。
ただ、その視線を、静かに受け止めていた。逃げも、そらしもしなかった。それが、かえって胸を締めつける。
帰り道、わたしは一言も話さなかった。
是雄も、黙っていた。
蒼竜も、黙っていた。
いつもなら、是雄が何か軽口を言って、わたしを笑わせてくれるのに。今日は、誰も口を開かなかった。足音だけが、暗い山道に続いていた。
神域に着くころには、空がうっすらと白み始めていた。
その夜。
わたしは、ひとりだった。団子の約束を、思い出していた。
今度は団子を作っとくからね。あの皺だらけの笑顔が、何度も浮かんだ。
涙が、ぽろぽろと落ちた。声は出なかった。ただ、こぼれるだけだった。
明け方。
是雄が、見回りの支度をしていた。
わたしは、思わず呼び止めた。
「気をつけてください」
自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。ただ、言わずにいられなかった。
是雄が、振り返って笑う。いつもの、大きくて温かい笑い方だった。
「大丈夫だ」
その一言で、わたしの胸が、ほんの少し軽くなった。是雄が言うなら、きっと大丈夫だ。わたしは、そう信じた。疑う理由なんて、どこにもなかった。
是雄は、朝の光の中へ歩いていった。その背中は、いつもと同じくらい、大きかった。




