第四話 戻らない
翌朝、目を覚ましても、婆さまのことが頭から離れなかった。
今度は団子を作っとくからね。あの声が、何度も耳の奥でよみがえる。食べたこともない団子の味を、わたしはずっと考えていた。考えても、わかるはずがないのに。
朝餉にも、手がつかなかった。蒼竜が心配そうにこちらを見たけれど、わたしは、何でもないふりをした。
是雄が、村へ行くと言った。
「わたしも行きます」
わたしは、すぐに言った。是雄は、何も言い返さなかった。ただ、小さくうなずいた。
蒼竜も、ついてきた。諏訪様は、相変わらず何も言わなかった。
村では、葬りの支度が進んでいた。
戸板の上に、婆さまが寝かされている。村人が一人、また一人と、野の花を供えていく。白い花だった。山の斜面に咲く、名前も知らない小さな花だ。
顔には、布がかけられていなかった。眠っているように見えた。けれど、昨日触れた手の冷たさを、わたしは覚えていた。あれは、眠りではなかった。
孫が、その傍らに座っていた。けれど、昨日のようには泣いていなかった。ただ、目だけが、真っ赤だった。泣きすぎて、もう涙が出ないのかもしれなかった。
わたしは、葬りというものを、初めて見た。
人々が、婆さまのことを語り始める。
「ずいぶん世話になったなぁ」
「よう笑う人だった」
「団子が、それはうまかった」
誰も、「戻ってこい」とは言わなかった。みんな、過ぎたことのように、穏やかに語っていた。
わたしは、不思議でならなかった。どうして、みんなそんなに落ち着いていられるのだろう。まだ、昨日のことなのに。
棺を運ぶとき、孫がぽつりと言った。
「おばあちゃんは、帰ってこないから」
わたしは、言葉を失った。
昨日から、何度も聞いた言葉だった。死んでいる。戻らない。わかっていたはずだった。
それなのに、その子の口から出たその一言は、ほかのどんな言葉よりも、深くわたしの胸に刺さった。
葬りが終わると、村人たちは、泣きながらも動き始めた。
壊れた柵を直す者がいる。畑を見に行く者がいる。水を運ぶ者がいる。
わたしは、戸惑った。
昨日、人が死んだのに。どうして、もう働けるのだろう。
是雄が、わたしの隣に立った。
「生きてる奴は、生きるしかねえんだよ」
わたしは、納得できなかった。けれど、言い返す言葉も、見つからなかった。
「忘れたわけじゃねえ。忘れられねえから、手を動かすんだ。じっとしてたら、もっと苦しくなるからな」
是雄の声は、いつもより低かった。わたしは、その言葉の意味を、まだ半分も飲み込めずにいた。
帰り道、わたしは諏訪様を見た。
まだ、怒っていた。まだ、失望していた。
けれど、諏訪様は、相変わらず黙ったままだった。言い訳ひとつ、しなかった。
その沈黙が、わたしには、よけいに苛立たしかった。何か言ってくれたら、いっそ言い返せるのに。
神域へ戻ったのは、夕方だった。
わたしは、ひとりで桜の下に座った。
花は、もうほとんど散っていた。残った数枚が、風に揺れている。膝の上に、一枚だけ、はらりと落ちてきた。
団子。婆さま。あの孫の、真っ赤な目。何度も、何度も、思い出した。
わたしは、何もできませんでした。それが、悔しかった。胸の奥が、石を飲み込んだように重かった。
そこへ、是雄が現れた。
「暇か」
わたしは、黙ってうなずいた。
是雄は、わたしを湖のほとりへ連れ出した。
水面が、夕日を映して、橙色に揺れていた。是雄は、しばらく黙って、その水を眺めていた。
「悔しいんだろ」
わたしは、初めて本音を口にした。
「……何も、できませんでした」
婆さまを、助けられなかった。村の人を、守れなかった。わたしはただ、泣いていただけだった。冷たくなった手に触れて、固まっていただけだった。
言葉にすると、悔しさが、もっとはっきりと形になった。わたしは、ぎゅっと両手を握りしめた。
「二百年も、何も出来ませんでした。ずっと、誰かに守られているだけです」
是雄は、笑った。
「じゃあ、出来るようになれ」
わたしは、意味がわからなくて、ぽかんとした。
「何かしたいんだろ。なら、覚えろ」
是雄は、そう続けた。
わたしは、黙った。
その言葉は、なぜだか、ずっと欲しかったもののような気がした。二百年、わたしはただ見ているだけだった。誰かを助けたいと思っても、手はすり抜けるばかりだった。けれど。
今のわたしには、体がある。冷たい手に触れられる、温かい手がある。
「教えて、ください」
声が、少し震えた。是雄は、にっと笑った。
「まず、見ることからだ」
是雄が、湖のほとりに腰を下ろす。
「刀を振るのは、ずっと後だ。妖を見る。気配を読む。結界を感じる。それが出来なきゃ、刀なんざ意味がねえ」
是雄が、片手をかざした。
すると、その指先に、淡い光がともった。空気が、わずかに震える。
「これが、神域の力の流れだ。感じてみろ」
わたしは、目を閉じた。
何も、感じなかった。
風の音。水の音。自分の鼓動。それだけだった。
「……わかりません」
「もう一回」
わたしは、もう一度試した。だめだった。三度目も、四度目も、何も感じられなかった。手のひらを、いくら宙にかざしても、ただの空気にしか思えない。
是雄が、くつくつと笑う。
「筋がねえなぁ」
わたしは、少し腹が立った。けれど、その腹立ちが、なぜだか心地よくもあった。久しぶりに、悲しみ以外の何かを感じた気がした。
何度目かの挑戦のときだった。
ふと、空気の流れが、違って感じられた。
桜の根元のあたりから、神域の奥へ向かって、細い筋のようなものが流れている。光ではない。けれど、たしかに、何かが流れていた。温かいような、冷たいような、不思議な感触だった。
それは、ほんの一瞬だった。瞬きをしたら、もう消えていた。
是雄が、目を見開いた。
「今のだ」
わたし自身は、よくわからなかった。けれど、初めて、何かが出来た。手のひらに、まだ、あのかすかな感触が残っている気がした。
「最初にしては、上出来だ」
是雄が、わたしの頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。乱暴で、温かい手だった。婆さまの手とは、違う温かさだった。
その夜。
わたしは、久しぶりに、ほんの少しだけ、前を向けた。
婆さまは、戻らない。それは、変わらない。
けれど、わたしは、まだ生きている。
なら、何か出来るようになりたい。次は、ただ泣くだけで終わりたくない。誰かが冷たくなっていくのを、ただ見ているだけは、もういやだ。そう思った。
手のひらを、そっと開いてみる。あの細い筋の感触を、思い出そうとした。まだ、つかめなかった。けれど、いつか、と思った。
◇
同じころ。
神域の、外。
森の奥で、下級の妖たちが、同じ方向へ集まっていた。
六本の足を持つ犬。地を這う百足。小鬼の群れ。
まるで、何かに呼ばれているかのように、一匹、また一匹と、奥へ奥へと進んでいく。争いもしない。普段なら食い合うはずの妖たちが、ただ同じ方向だけを目指していた。
森の、さらに奥。
巨大な何かが、ゆっくりと動いた。
ただ、木々が、不自然に揺れていた。風もないのに。




