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第五話 百鬼夜行

 朝、湖のほとりで、是雄の特訓を受けていた。


 神域の流れを、感じる練習だ。手のひらを、そっと宙にかざす。


 昨日よりは、少し早く感じ取れた。桜の根元から流れてくる、あの細い筋。けれど、つかんだと思った瞬間、するりと逃げてしまう。まだ、安定しなかった。

 何度やっても、同じだった。指の先まで届きそうになると、ふっと消える。わたしは、唇を噛んだ。


「まあ、昨日よりはましだな」


 是雄が、軽く言った。少しだけ嬉しくなった。


 蒼竜は、離れた場所から、こちらを見ていた。諏訪様は、姿を見せなかった。わたしも、あえて探さなかった。


「神様は?」


 是雄が、ふと聞いた。わたしは、少し黙った。何と答えていいのか、わからなかった。


「拗ねてんじゃねえか」


 是雄が、冗談めかして笑う。


「神様が、拗ねるのですか」


 蒼竜が、呆れたように言った。


「神だから、拗ねるんだろ」


 是雄が、そう返す。

 笑えなかった。婆さまの葬りの日から、諏訪様の沈黙が、ずっと胸に引っかかっていた。怒っているのか、悔いているのか。

 あの方の心は、わたしにはまるで読めなかった。何かが近づいている、その気配だけが、確かにあった。


 昼前、村から使いが来た。

 山の様子が、おかしいという。妖が、増えている。猟師も木こりも、山に入れない。昨夜から、家畜が怯え、犬が吠えつづけている。


「もう、夜を待つのが、怖いんです」


 使いの男は、青い顔でそう言った。手が、小刻みに震えていた。一晩中、眠れなかったのだろう。目の下に、濃い隈ができていた。


 是雄は、すぐに村へ向かうと決めた。蒼竜も、ついていく。わたしも、行く。

 今回は、誰も止めなかった。わたし自身も、何かできるかもしれない、と思っていた。


 村に着くと、昼なのに、空気が重かった。


 子供たちは、家の中に隠されていた。犬は、小屋の奥で震えている。鳥の声が、一つもしなかった。

 あんなに賑やかだった井戸端にも、人影がない。戸という戸が、固く閉ざされていた。村全体が、息をひそめて、何かが過ぎ去るのを待っているようだった。


 山の方から、じっとりとした、いやな気配が流れてくる。

 わたしは、初めて、それを少しだけ感じた。


 昨日の特訓で感じた、神域の流れとは違った。あれは温かかった。これは、冷たくて、ざらついていた。肌の上を、見えない虫が這うようだった。胃の底が、きゅっと縮こまる。


「感じたか」


 是雄が、わたしの顔を見て聞いた。

 わたしは、小さくうなずいた。感じたくなど、なかった。けれど、たしかに、そこにあった。


 森の方から、下級の妖が現れた。

 六本足の犬。地を這う百足。小鬼の群れ。数が、多い。前のときの比ではなかった。


 村人たちは、避難を始めた。

 是雄が、前へ出る。蒼竜も、刀を抜いた。


「尊、お前は後ろだ」


 是雄が、振り返らずに言う。


「逃げ遅れた奴を、見つけて報せろ。戦うな。お前の目は、おいらたちより気配に近い」


 戦うな、と言われて、少しだけ悔しかった。けれど、それでも、ただ見ているだけではない。わたしにも、することがある。


 直接は、戦わない。けれど、役目をもらえたことで、わたしは、ほんの少しだけ、踏みとどまれた。


 戦いが、始まった。

 蒼竜が、斬る。是雄が、術で弾く。わたしは、必死に気配を探った。


 はっきりとは、見えない。けれど、背後の納屋に近づく、小さな気配を、一つ感じ取った。


「あそこ!」


 声が思ったより大きく出た。

 是雄が、すぐに反応した。手をかざし、納屋に忍び寄っていた小鬼を、吹き飛ばす。


 初めて、少しだけ役に立った。

 胸が、熱くなった。ただ泣いて、固まっていただけの自分とは、ほんの少し違う気がした。

 けれど、喜んでいる暇はなかった。すぐに、次の妖が現れる。倒しても、倒しても、減らない。状況は、少しも良くならなかった。


 戦いが続くうち、妖たちの動きが、おかしくなった。

 村を襲っていたはずの妖たちが、急に、一斉に向きを変えたのだ。


 村へではない。何かから、逃げるように、散り始めた。

 六本足の犬が、尾を丸める。小鬼が、悲鳴を上げる。百足が、地面に潜ろうとする。

 さっきまで、村人に牙を剥いていたものたちが、今は、われ先にと、後ろも見ずに逃げていく。何かが、それほど恐ろしいのだ。


「こいつら……逃げてるのか?」


 是雄が、気づいた。蒼竜の顔色が、変わった。

 森が、割れた。

 太い木が、根元から、めきめきと倒れる。土が、内側から盛り上がる。


 黒光りする、巨大な胴が、現れた。

 大百足だった。


 人の胴ほどもある節が、いくつも連なっている。無数の脚が、地面を掻く。硬い殻は、夜のように黒く、節ごとに、赤い筋が走っていた。頭の部分には、人の顔のような、歪んだ何かがあり、口元から、粘った毒液が、だらりと垂れていた。

 脚の一本一本が、地を打つたびに、地面が揺れた。胴のうねりだけで、近くの低木がなぎ倒されていく。それは、生き物というより、動く山のようだった。


 下級の妖とは、格が違った。

 わたしは、息ができなくなった。喉の奥が、からからに乾いていた。


 大百足が、村へ向かう。長い胴をくねらせ、家々を見下ろしながら。


 是雄が術を放った。光が殻に当たる。弾かれた。

 蒼竜が斬り込む。刃は入る。けれど浅い。通じない。

 わたしの背筋が冷えた。


 その瞬間、大百足の尾が唸った。家屋の壁が砕け散る。悲鳴が起きる。

 そして、その向こうに――子供がいた。崩れた壁の陰で、立ち尽くしている。そちらへ、走ろうとする。


「下がれ!」


 是雄が、わたしを止めた。


「でも、あの子が……!」


 わたしは、反発した。けれど、足がすくんで、動けなかった。大百足の、あの赤い筋を見ているだけで、体が言うことを聞かなかった。

 頭では、走れと思っているのに。あの婆さまのときと、同じだ。また、わたしは何もできない。膝が、笑っていた。涙が、にじんだ。

 結局、動けなかった。


 大百足が、さらに暴れる。

 毒液が、地面に落ちた。草が、じゅっと音を立てて、黒く焼ける。


 是雄が、村人を庇って、吹き飛ばされた。

 地面を、二度、三度と転がる。土埃が舞った。

 大怪我では、なかった。すぐに、片膝をついて起き上がった。けれど、それを見たわたしの血の気が、一気に引いた。


「是雄!」


 蒼竜が、是雄をかばうように、前へ出た。

 このままでは、抑えきれない。それが、わたしにもわかった。


 蒼竜の目が揺れた。ほんの一瞬だけ、何かを思い出したように。

 蒼竜が、わたしを見た。一瞬だけ、迷うような目をした。けれど次の瞬間、その迷いは消えた。


 蒼竜の周りの空気が変わる。

 髪が、風もないのに、揺れた。

 地面が、震えた。空気が、ぐっと重くなる。それまで暴れていた下級の妖たちが、ぴたりと動きを止めた。


「おい……なんだ、それ」


 是雄が、驚いて、蒼竜を見た。わたしも、声を失った。


「蒼竜……?」


 蒼竜は、答えなかった。


 ただ、その横顔は、わたしの知っている蒼竜のものではなかった。いつもの、わたしを見つめ続ける笑みは、消えていた。代わりに、はるか昔から続く、深くて静かな何かが、その目に宿っていた。


 大百足が、迫る。

 蒼竜の背後に、巨大な影が広がっていた。


 夕日を背に、その影は、村のすべてを覆うほど、大きかった。


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