第一話 竜
蒼竜の背後で、巨大な影が、ふくれ上がっていた。
大百足が、その動きを止めた。
無数の脚が、ざわりと波打つ。人の顔めいた頭部が、ゆっくりと蒼竜の方を向いた。何かを警戒している。本能で、危険だと悟っている。けれど、それが何なのか、わかっていない。
蒼竜の体が、ぐにゃりと歪んだ。
光が、はじける。
眩しさに思わず目を細めた。
次に目を開けたとき。
そこには、巨大な生き物がいた。
空を覆う翼が、ゆっくりと広がる。それが、ばさりと、一度だけ羽ばたいた。青銀の鱗が、夕日を弾いて光る。長い首。鋭い角。
龍ではなかった。あの、水を司る蛇のような龍とは、何もかもが違った。これは、もっと荒々しく、もっと天に近いものだった。
村人たちが、騒然となった。
「妖か?」
「化け物だ!」
それは、当然だった。
この国にいるのは、水を司る龍だけだ。翼のある竜など、いるはずがない。誰も、見たことがないのだ。
わたしも、後ずさった。
怖かった。
あれは、知っている蒼竜ではなかった。いつも隣にいた男が、そこにはいなかった。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
けれど、戦いは、終わらなかった。
大百足は、逃げなかった。むしろ、暴れ始めた。勝てない、と悟ったのだろう。だから、せめて、すべてを道連れにしようとしているのだ。
毒液を、撒き散らす。家屋を、薙ぎ倒す。そして、逃げ遅れた村人へ、その巨体を向けた。
蒼竜が、それに食らいついた。鋭い爪が、大百足の胴をつかむ。竜と百足が、もつれ合いながら、地を転がる。地響きが、足元を揺らした。
わたしは、まだ近づけなかった。あの戦いの中へ、踏み込む勇気が、なかった。
そのとき、是雄が動いた。
蒼竜が、大百足を抑えている。ならば、自分は別のことをする。是雄の判断は、早かった。
崩れかけた家へ、迷わず飛び込んでいく。
「だれかいるか!」
すぐに、子供を抱えて、飛び出してきた。土埃にまみれた幼い子が、是雄の腕の中で泣いている。
是雄は、その子を村人に預けると、また走った。今度は、腰の抜けた老人を、軽々と背負う。
毒液が、すぐ近くに飛んできた。地面が、黒く焼ける。それでも、是雄は足を止めなかった。
着物の裾が焦げても、頬に泥がはねても、是雄は何度も、崩れた家と避難先を往復した。一人。また一人。取り残された者を、片端から運び出していく。その背中は、汗で濡れていた。
蒼竜が、戦う。
是雄が、守る。
役割が、はっきりと分かれていた。蒼竜は、目の前の脅威を、その牙と爪で叩き潰す力。是雄は、その後ろで、こぼれ落ちそうな命を、一つずつ拾い上げる手だった。
そして、決着の時が来た。
蒼竜が、大きく口を開けた。喉の奥に、青白い光が、集まっていく。
光が、放たれた。
それは、大百足の頭部を、まともに撃ち抜いた。硬かったはずの殻が、内側から砕ける。あれほど刃を弾いた殻が、まるで、薄氷のように。巨体が、びくりと跳ね、そして、どさりと崩れ落ちた。
倒した。
ほっと息をついた、その瞬間だった。
死に際の大百足の体から、大量の毒液が、噴き出した。
雨のように、地面へ降り注ぐ。
草木が、みるみる枯れていく。緑が、茶色に変わり、やがて黒くなる。土が、毒に侵されて、ぶくぶくと泡立った。死が、波のように、村へ向かって広がっていく。
村人たちが、絶望の声を上げた。
「畑が……」
「田んぼが、やられる……!」
倒したのに。勝ったはずなのに。それでも、災いは止まらない。
そこへ、諏訪様が現れた。
諏訪様は、広がっていく黒い土を見て、めずらしく、額に手を当てた。
「全く……」
呆れたように、そう呟く。けれど、その声には、どこか諦めに似た優しさも混じっていた。
それから、静かに指を組んだ。
唇が低く、祝詞を紡ぎ始める。意味のわからない古い言葉だった。
けれど、その声が響くたびに、空気が、しんと澄んでいく。
諏訪様の足元から、淡い光が、輪のように広がった。その光が触れたところで、泡立っていた土が、静かになっていく。
腐っていく土地が、ぴたりと、鎮まった。
黒く染まった土は、元には戻らない。枯れた草も、生き返りはしない。けれど、死の広がりだけは、そこで、止まった。
二人は、まるで違っていた。けれど、どちらが欠けても、この村は残らなかった。
戦いが、終わった。
けれど、村に、安堵はなかった。
村人たちは、蒼竜を、恐れていた。翼のある巨大な生物。
誰も、見たことのなく、聞いたことのないもの。さっきまで自分たちを守っていたはずなのに、その姿があまりに大きく、あまりに異質で、人々は、ただ立ちすくんでいた。
空気が、重かった。
誰も、口をきかない。蒼竜の方を、まともに見ようともしない。
そんな中で、ただ一人、是雄だけが、いつも通りに歩み寄った。
竜の姿のままの蒼竜を、まっすぐに見上げる。怯えも、警戒も、その顔にはなかった。鱗に毒液が散り、爪が大百足の血で汚れていても、是雄はためらわずに、その足元まで近づいた。
「で? 大丈夫か? 怪我はないか?」
それだけだった。
なぜ正体を隠していた、とは聞かない。何者だ、とも問い詰めない。
是雄はまず、結果を見ていた。
竜が、ゆっくりと首を下げた。その大きな目が、是雄を見つめ返していた。どこか、不安げに。村人に恐れられ、わたしにも後ずさられた、その目が。
是雄は、その鼻先に、ぽんと手を置いた。子供の頭でも撫でるように。
「傷は? 痛むとこ、あるか」
竜が、わずかに、目を細めた。
「説明は聞く。でも、今じゃねえ」
その一言に、蒼竜が、少し驚いたようだった。竜の喉から、低い、震えるような音が漏れた。それは、ほっとしたときの、ため息に似ていた。
ただ呆然と見ていた。是雄は、本当に変わらなかった。
神域へ戻る道。
あの巨大な姿に、まだ心が追いついていなかった。
怖さも、まだ、残っていた。
けれど――
蒼竜は、蒼竜だ。
まだ、完全には思えない。それでも、そう考え始めている自分が、いた。あの竜は、わたしをかばうために、姿を変えたのだから。是雄に鼻先を撫でられて、ほっとしたように目を細めた、あの竜は。
ちらりと、隣を歩く蒼竜を見た。人の姿に戻った蒼竜は、いつものように、少しうつむいて歩いていた。わたしの視線に気づくと、こちらを見る。その目は、たしかに、いつもの蒼竜の目だった。
何も言えなかった。けれど、目をそらしもしなかった。それが、今のわたしに出来る、精一杯だった。
神域に着くと、諏訪様が、ぽつりと言った。
「面倒なことになったな」
その横顔は、いつもの冷たさの中に、ほんの少しだけ、疲れの色を滲ませていた。




