第二話 変わらぬもの
大百足の事件から、数日が経った。
村は、復興の最中。崩れた家を建て直し、壊れた柵を組み、毒に焼けた畑の縁を、新しい土で覆っていく。
わたしも手伝った。荷物を運び、柵を直し、薪を割る。
けれど、すぐに息が上がった。腕が、だるくなる。腹が、ぐうと鳴った。
人になってから、疲れるようになった。腹も減る。喉も渇く。幽霊だった二百年の間は、こんなことは、一度もなかったのに。
手のひらには、薪を割るたびに、赤い跡がついた。明日には、豆になるだろう。それすらも、生きている証のようで、不思議だった。
痛いのに、どこか嬉しい。
薪の山に座り込んだわたしを見て、是雄が笑った。
「ようやく、人間らしくなったな」
「好きで疲れているわけでは、ありません」
是雄は、ますます笑った。
村人たちは、蒼竜を見ると、少しだけ、体を硬くした。
あからさまに、嫌うわけではない。石を投げる者も、罵る者もいない。
けれど、前とは、違っていた。
挨拶が、ぎこちない。会話が、短い。蒼竜が荷物を運べば、礼は言う。
けれど、その目には、どこかおそるおそるという色があった。子供が近づこうとすると、母親が、そっと手を引いて遠ざける。そんな場面を何度か見た。
あの、空を覆う竜の姿を、みんな、忘れられないのだ。
蒼竜も、それに気づいていた。
けれど、何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ、村人と距離を取って、黙々と働いていた。
そんな中で、是雄だけは、まるで変わらなかった。
「蒼竜、そっち持て」
「蒼竜、丸太を取ってくれ」
「蒼竜、昼飯だ。来い」
竜だろうが、何だろうが、関係ない。是雄は、ただ普通に、仕事を振った。
蒼竜は、戸惑っているようだった。正体を知られて、距離を置かれると思っていたのだろう。それなのに、是雄は、何ひとつ変えなかった。
「……はい」
蒼竜が、ぎこちなく返事をして、木切れを運ぶ。その背中を見ながら、少しだけおかしくなった。
きっと是雄は、何も考えていない。竜だから気をつかうとか、正体を知ったからどうとか、そんなことを、はじめから考えていないのだ。
その何も変わらなさが、蒼竜を救っているように見えた。
ある日、少し離れた町へ買い出しに行った。
わたしと、是雄と、蒼竜の、三人だった。
是雄が、店先で団子を買った。串に刺さった、白い団子だ。婆さまが、作ると言ってくれた、あの団子。
わたしは、それを一つ、もらった。一口、かじる。
甘かった。
もちもちとした生地に、甘い蜜が絡んでいた。これが、団子なのか。あの婆さまが、作ってくれるはずだった、これが。胸の奥が、少しだけ、つんとした。
もうあの人の団子は、食べられない。けれど、こうして、団子の味を知ることはできた。それは、ほんの少しだけ、救いのようにも思えた。
蒼竜も、団子を食べていた。
是雄が、目を丸くする。
「竜って、団子食うのか」
蒼竜は、串を口から離して、まじめな顔で言った。
「私は、竜だから団子を食うのではない」
「では、何故です?」
聞くと、蒼竜は当たり前のように答えた。
「甘いからだ」
思わず吹き出した。是雄も、げらげらと笑った。
蒼竜だけが、なぜ笑われているのか、わからないという顔をしていた。
帰り道、少しだけ、蒼竜と二人になった。
是雄が知り合いの猟師につかまって、立ち話を始めたのだ。
夕暮れの道を、蒼竜と並んで歩く。
しばらく、どちらも黙っていた。先に口を開いたのは、蒼竜だった。
「……怖かったか」
すぐには否定しなかった。
嘘をつくのは、違う気がした。あのとき、たしかに後ずさったのだから。
「少し」
正直に、そう言った。蒼竜が、黙り込む。その横顔が、わずかに、こわばった。
「でも」
言葉を、探す。うまく言えるか、わからなかった。けれど、これだけは、伝えておきたかった。
「蒼竜は、蒼竜でしょう」
甘いものが好きで、木切れを運んで、わたしをかばった。
まだ、完全に怖くないとは、言えない。あの竜の姿は、今でも、ふと頭をよぎる。隣を歩く蒼竜に、あの巨体が重なって見える瞬間が、たしかにある。
それでも、隣を歩いているのは、わたしの知っている蒼竜だった。
蒼竜は、何も言わなかった。
けれど、その口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだのが、見えた。
それから、ぽつりと、こぼすように言った。
「……それで、よい」
その声が、いつもより、少しだけ、やわらかかった。
神域へ戻ると、諏訪様がいた。
まだ、少し、機嫌が悪そうだった。是雄が、さっそく絡みに行く。
「神様、まだ怒ってる?」
「怒ってはおらぬ」
諏訪様が、つんとして答える。
「怒ってる奴の台詞だな、それ」
是雄が、にやりと笑った。
諏訪様は、答えなかった。ただ、すっと顔を背けた。
わたしは、少しだけ、笑ってしまった。
翌日、村の子供たちが、神域へやって来た。
大百足のとき、是雄に助けられた、あの子たちだ。子供たちは、わたしに、わっと懐いた。
「おねえちゃん!」
手を引かれ、袖を引っぱられる。くすぐったかった。こんなふうに、子供に懐かれたことは、なかった。
そして、子供たちは、蒼竜にも、興味津々だった。遠巻きにしながらも、きらきらした目で、蒼竜を見ている。一人の子が、思いきって、言った。
「ねえ、竜になって!」
蒼竜が、固まった。
「な……」
「見たい! 竜! 竜!」
子供たちが、口々にせがむ。蒼竜は、すっかり困り果てて、助けを求めるように、こちらを見た。
是雄が、腹を抱えて笑った。
「ははっ、人気者だな、蒼竜!」
「笑いごとでは、ありません……」
蒼竜が、情けない声を出す。
結局、蒼竜は変身しなかった。代わりに、指先に小さな青銀の光を灯して見せた。子供たちは、それだけで、わあっと歓声を上げた。光を追って、手を伸ばし、きゃっきゃと笑い転げる。
わたしもこらえきれずに、笑った。
恐れられていた竜が、今は子供にせがまれて、おろおろしている。その姿が、おかしくて、そして、なんだか、嬉しかった。あの大きな影を、子供たちは、もう怖がっていなかった。
夕方になって、子供たちは、帰っていった。
村人たちの声も、遠ざかる。
神域に、静けさが戻った。
穏やかな夕暮れだった。桜の葉が、風にさらさらと鳴っている。是雄が、欠伸をする。蒼竜が、まだ団子の蜜のついた指を、所在なげに眺めている。
平和だった。
木々の葉がさらさらと鳴る中、わたしはふと思った。この穏やかな時間が、好きだ。失いたくない、と。
そのときだった。わたしだけが、気づいた。
山の奥に気配があった。
大百足とは違う。あれは、ざらついて冷たかった。けれど、これは――もっと重い。
ずしりと腹の底に沈むような、重さ。
誰も、気づいていない。是雄も、蒼竜も、諏訪様さえも。
わたしだけが、見た。山の向こうに。
夕日に染まる稜線の上に黒い影。
それは、こちらを、見ているような気がした。
ほんの、一瞬だった。瞬きをすると、影は、もう消えていた。気のせいだろうか。そう思ったのに、胸のざわつきだけが消えなかった。
けれど、稜線には、ただ夕日が沈んでいくだけだった。
背後では、是雄の欠伸と、蒼竜の小さな声が、まだ続いている。穏やかな、いつもの夕暮れだった。




