第三話 中級個体
大百足を討ってから、しばらく経った。
それでも、村は、落ち着かなかった。
山へ入った猟師が、予定より遅れて戻る。仕掛けた罠が、壊されている。家畜が、いつのまにか消えている。夜になると、犬が、長く吠えつづける。
牛が一頭、柵の中から消えたという話も聞いた。柵は壊されていなかった。まるで、空から持ち去られたように。
下級の妖も、また増えていた。
村人たちは、少しずつ、不安を募らせていった。やっと事件が終わったと思ったのに。やっと夜に眠れると思ったのに。
わたしも、異変を感じていた。日に日に、それは強くなっていた。
気配が、増えている。しかも、下級のものとは、違う。重い。あの、大百足に近い、嫌な気配だった。
夜、ひとりで気配を探っていると、肌が、ざわつくことがあった。遠い山の奥から、ぬめるような、冷たいものが、流れてくる。一つではない。あちこちに、点々と。それを感じるたびに、眠れなくなった。
諏訪様も、何かを感じているらしかった。めずらしく、腕を組んで考え込む姿が、増えていた。
蒼竜も、警戒を、強めていた。
ある日、山へ入った若者が、戻らなくなった。
是雄と蒼竜の三人で、捜しに向かった。
山の奥へ進むにつれ、空気が、変わっていく。
そして、見つけた。
木々が、巨大な糸に、覆われていた。
太く、白い糸が、幹から幹へと、何重にも張り渡されている。その間に、白い繭が、いくつも、ぶら下がっていた。陽の光が、糸に遮られて、その一帯だけが、昼なのに薄暗い。
地面には、獣の骨が散らばっている。鹿のものらしい角や、犬ほどの大きさの頭骨。その中に、人の持ち物らしきものも落ちていた。草鞋の片方や錆びた山刀。すべてが、荒らされた巣のようだった。
甘ったるい、腐ったような臭いが、鼻をついた。わたしは、思わず袖で口を覆った。
下級の妖の仕業では、ない。是雄も、顔をしかめた。
「こりゃ、まずいな」
その時だった。
森の上から、巨大な影が、落ちてきた。
土蜘蛛だった。
家ほどもある、巨大な蜘蛛。硬い外殻に覆われ、太い脚が、八本。その脚の先が、地を打つたびに、ずしりと響いた。胴体の上には、いくつもの目が、ぬらりと光っている。
口元から、糸を吐き出しながら、土蜘蛛が、襲いかかってくる。
是雄が、術で応戦した。蒼竜も、刀を抜いて斬り込む。
大百足ほどではない。けれど、強かった。
何より、糸が、厄介だった。
吐き出された糸が、木々を絡め取る。視界を塞ぎ、動きを止める。是雄の足元に糸が絡みつき、蒼竜の刀が、一瞬搦め捕られた。
戦いの最中、見つけた。行方不明だった若者だ。
繭に、すっぽりと包まれている。けれど、繭が、かすかに動いていた。
生きている。
思わず、そちらへ走った。助けなければ。今度こそ、自分の手で。
その瞬間だった。
別の方向から、糸が、飛んできた。
第二の、土蜘蛛。
もう一体、いたのだ。それに、気づかなかった。糸が、まっすぐ、わたしへ向かってくる。
「尊さま!」
是雄が、叫んだ。次の瞬間、わたしの体が、横へ突き飛ばされた。
是雄だった。
わたしの代わりに、是雄が、糸を受けた。鋭い糸が、肩を、脇腹を、切り裂く。
血が、にじんだ。是雄の着物に、赤い染みがじわりと広がっていく。
地面に倒れたまま、それを、見ていることしかできなかった。是雄の背中が、わたしを、完全にかばっていた。
大怪我では、なかった。是雄は、すぐに体勢を立て直した。けれど、確かに、傷を負った。わたしをかばって。
わたしは、固まった。また、守られた。また、何もできなかった。
婆さまのとき。大百足のとき。そして、今。
胸の奥に、嫌な感情が、積み重なっていく。重く、苦い、塊のようなものが。いつまで、守られるだけなのだろう。
特訓をしている。気配も読めるようになった。それなのにいざというとき、足はまた動かなかった。誰かが傷つくのを、またただ見ているだけだった。
悔しさが、喉の奥で、焼けるようだった。
蒼竜が、焦っていた。
是雄の血を見て、その顔が、こわばる。怒りでは、なかった。焦燥だった。
一体なら、対処できる。けれど、二体。中級の個体が、複数いる。大百足だけでは、なかったのだ。
その事実が、何を意味するのか。蒼竜は、わかっているようだった。だからこそ、焦っていた。手負いの是雄を抱えて、二体を相手取る。それは、容易なことでは、なかった。
蒼竜が、是雄の前へ回り込む。青銀の光が、その手に集まった。
「是雄、下がれ。ここは私が」
「無茶すんな。お前、まだ村の連中に見られたくねえだろ」
是雄が、傷を押さえながら、笑う。脇腹から、血がしたたっているのに、その笑い方は、いつもと変わらなかった。
「こんなの、かすり傷だ。それより、二体だぞ。手ぇ抜くなよ」
「人型のまま、やるぞ」
二人の連携は、見事だった。
是雄が術で土蜘蛛の動きを止め、その隙に、蒼竜が斬り込む。一体の脚を断ち、もう一体の外殻を割る。
二人とも、何度もこうして戦ってきたのだろう。言葉を交わさずとも、互いの動きが、噛み合っていた。是雄が下がれば、蒼竜が前へ出る。蒼竜が間合いを詰めれば、是雄が背後を守る。
糸が飛んでくれば、是雄が弾き、蒼竜が懐へ潜り込む。
わたしは、必死に、気配を探った。次の攻撃が、どこから来るのか。それを、二人に伝える。それだけは、できた。
「右です!」
わたしの声で、是雄が、術を放つ。
やがて、一体目が崩れ落ち、二体目も、蒼竜の一撃で、動かなくなった。八本の脚が、力なく地に伏す。あたりに、糸の残骸だけが、白く漂っていた。
繭を破ると、中から、ぐったりした若者が、転がり出た。気を失っているが、息はある。蒼竜が、その体を、そっと背負った。
わたしたちは、勝った。若者も、救い出した。
一見すると、それは、勝利だった。
けれど、神域に戻ってから、諏訪様がぽつりと言った。
「妙だな」
「何がだ?」
是雄が、聞き返す。諏訪様は、山を、見ていた。
「中級が、群れるものではない」
それだけ、だった。けれど、その横顔は、いつになく、張りつめていた。
わたしは、その言葉の意味を考えた。
中級の妖というのは、本来、縄張りを持つものなのだという。一つの山に、一体。それが、自然の理。互いに食らい合うから、群れることなど、ありえない。
大百足が、一体。土蜘蛛が、二体。短い間に、これだけの中級が、現れている。
まるで、何かに、引き寄せられるように。あるいは、何かに、追い立てられるように。
わたしは、山を見上げた。
気配が、あった。
一つでは、ない。二つでも、ない。もっと、いる。
暗い森の、奥。木々の向こうに、いくつもの重い気配が、ひそんでいた。
蒼竜も、異変を察したようだった。その横顔が、硬い。諏訪様の表情も、険しかった。
村へ、戻ったはずなのに。若者も、助け出したのに。それなのに、誰も、安心していなかった。
山の奥。暗い森の、向こう。
複数の気配が、確かに、そこにあった。
わたしだけが、それを、はっきりと感じていた。
大百足は、終わりではなかった。土蜘蛛も、終わりではない。あれは、ほんの始まりに過ぎないのだと、肌が、教えていた。
山の奥にいるものたちは、まだ、こちらへ来ようとしている。
わたしは、小さく、呟いた。
「……まだ、来る」
その声は、風に消えて、誰の耳にも、届かなかった。




