第四話 守れない
あの戦いから、数日が経った。
中級の妖による被害は、急に増えていった。村の周りだけではなく、近くの集落までもが襲われ始めた。
村には、避難してきた人々が流れ込んだ。家を焼かれた者、家族を失った者、怪我を負った者。広場に、筵が敷かれ、その上に呻く負傷者が並べられていく。
子を抱えた母親が、放心したように、座り込んでいた。隣の集落から来たという老人は、何も話さず、ただ膝を抱えていた。村の女たちが、握り飯を配り傷の手当てをする。
けれど、手が足りなかった。
村全体の空気が重かった。誰の顔にも疲れと怯えが、貼りついていた。
戦う決意をした。もう守られるだけはいやだった。気配を読めるし、神域の流れを感じられる。
それなら、それを使うべきだ。婆さまのとき是雄が傷を負ったとき、何もできなかった自分を、もう繰り返したくなかった。
今回から、本格的に加わった。
直接、刀は振れない。けれど、できることはあった。神域の流れを読み、妖の気配を探る。どこから来るのか、何体いるのか、是雄と蒼竜に伝える。逃げ遅れた村人を見つけ、避難の道を、誘導する。
「左から、二体。それと、屋根の上に、一体です!」
わたしの声で、是雄が動く。蒼竜が動く。無駄が減っていく。
是雄が戦いの合間に、にっと笑った。
「役に立ってるじゃねえか」
少しだけ嬉しかった。胸の奥のあの重い塊が、ほんの少し軽くなった気がした。
けれど、その夜だった。
今までとは違う気配が、村に近づいてきた。
重く、大きい。これまでのどの妖よりもずっと。
それは鵺だった。
猿の顔を持ち、虎の胴を持ち、尾は蛇。背には、何かの翼めいたものが、ぬらりと光っている。
鳴き声が、夜気を裂いた。人の悲鳴にも獣の咆哮にも聞こえる。ぞっとする声だった。
それが、ひと声鳴くたびに、避難民たちが耳をふさいで震えた。犬は、一匹残らず、姿を消していた。これまでの妖とは、格が違った。これは、一体で村ひとつを滅ぼせるものだった。
村が、戦場になった。
是雄が前へ出る。蒼竜が刀を抜く。わたしも動いた。
泣いている子供を、母親のもとへ走らせる。腰を抜かした老人を、若者に背負わせる。崩れる家の下敷きになりかけた村人に、声を上げて知らせる。
「そっちは危ない! こっちへ!」
初めて人を救っていた。自分の手で、自分の声で。
幼い子を抱き上げ、安全な納屋へ走らせる。倒れた老婆に肩を貸し、人垣の後ろへ導く。
気配を読み、妖の来ない道を選んで、村人を逃がしていく。走り、叫び、誘導した。一人。また一人と逃がしていく。
息が上がっても、足は止めなかった。もう、ただ泣いて固まっていた、あの頃と同じではない。
手のひらに、確かな手応えがあった。守れている。今、わたしは誰かを守れている。
戦いは、終わりに近づいていた。
是雄の術が鵺の動きを止め、蒼竜の刀がその胴を深く斬り裂く。鵺が、ぐらりと傾いだ。
村人も、ほとんどが、逃げ切っていた。
勝てる。
そう思った。きっと誰もが、そう思っていた。成長したのだと。今度こそ、誰も死なずに、終われるのだと。
倒れかけた鵺が最後の力で、尾を振った。
蛇の尾の先が、鋭い切っ先のように、まっすぐ向かってくる。気づくのが、遅れた。逃げられない。
その瞬間、体が横へ突き飛ばされた。
是雄だった。代わりに、是雄がそこに立っていた。
尾の先が、是雄の体を貫いた。
音はなかった。派手な閃光も、爆発も、なかった。ただ、是雄がゆっくりと膝をついた。
まるで、疲れて座り込むように。ふだん、薪割りの後にそうするように。そんな、何でもない動作にしか、見えなかった。
それだけだった。
「是雄?」
呼んだ。返事がなかった。
その後、蒼竜が、鵺を斬り伏せた。鵺は、長い鳴き声を残して、崩れ落ちた。
敵は、倒れた。
けれど、そんなことは、もうどうでもよかった。
是雄へ、駆け寄った。地面に、是雄が横たわっている。腹のあたりが赤く濡れていた。
手を握る。温かい。
是雄は、いつも大丈夫だと言っていたではないか。あの大きな手で、何度も頭を撫でてくれたではないか。
「是雄、しっかり……! 蒼竜! 諏訪様! 早く是雄を……!」
是雄が薄く、目を開けた。
そして、いつものように笑った。少しだけ苦しそうに。けれど、たしかに笑った。
「……泣くなよ」
自分が泣いていることに、その時初めて気づいた。頬が、もうぐしゃぐしゃに濡れていた。
「役に、立ったじゃねえか。お前……今日は、立派だった」
「いやです……!」
声が震えた。首を何度も振るが、是雄の手の力は、ゆっくりと抜けていく。
「いやです、そんなの。是雄が、いなくなるなんて……!」
婆さまが死んだ。是雄が傷を負った。
そして今。また、守られた。もう、いやだった。
「気をつけて、くださいって……わたし、言ったのに……!」
是雄の手が、頭に、そっと乗せられた。乱暴で温かい、いつもの手だった。
「……いい子だ」
それが、最後だった。是雄の手が、ぱたりと落ちた。目は開いたまま。けれど、もう何も映していなかった。
その手を、握りつづけた。揺すった。名を呼んだ。何度も、何度も。
返事はなかった。二度となかった。
握った手が、少しずつ冷たくなっていくのがわかった。あの婆さまのときと、同じ冷たさだった。生きている人の温もりが、指の間からこぼれていく。
沈黙が落ちた。わたしの中で、何かが音もなく崩れていった。守れなかった。
今度こそと思ったのに。
それでも、いちばん大事なものを、守れなかった。
その瞬間だった。
神域が、震えた。風がぴたりと、止まる。
木の葉が散り、湖が波立つ。
体から、何かが漏れ始めていた。熱いような、冷たいような抑えのきかない、巨大な何かが。
「……依月様!」
蒼竜が、叫んだ。
諏訪様がはっと顔を上げる。二人とも、異変を察していた。
泣いていた。是雄の手を握ったまま、ただ泣いていた。気づかないうち周りでは、もっとまずいことが起きていた。
空が、歪んでいた。
月が、いつもより大きく見えた。やけに近い。星々の並びが、ゆらゆらと水面に映ったように揺れている。
誰も気づかない。蒼竜も諏訪様も、わたしのことで、手いっぱいだった。
神域の桜が狂ったように、揺れていた。風もないのに。葉が嵐のように、舞い狂う。地面が低く唸るように震えた。
諏訪様の顔が、初めて、焦りに歪んだ。
「姫様止まれ! 自分を抑えろ!」
蒼竜が、わたしへ向かって駆けてくる。
けれど、近づけなかった。取り巻く力が、すべてをはね返していた。蒼竜の手が、わたしに届かない。
何も聞こえていなかった。ただ是雄の名を、呼びつづけていた。
夜空。月。
その輪郭が、ほんのわずかずれた。
空に貼りついていたはずのそれが、糸の切れたように、ほんの少し下へ落ち始めた。
村人も。
蒼竜も。
泣きつづけるわたしも。
誰も気づかなかった。
ただ一人、諏訪様だけが、空を見上げた。
その目が、月の異変を捉えていた。長く生きた神の目が、何が起きているのかを悟っていた。
そして、低く呟いた。
「……まずいな」




