表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/18

第五話 神

 神域が、軋んでいた。


 木々の葉や枝が狂ったように散りつづけ、湖は荒れ、岸を激しく打っている。地は、低く震えていた。そして、空。朕はそれを見上げた。


 月が、わずかに、位置を変え始めていた。

 長きにわたり、月読尊が支えてきたものが揺らいでいる。たった一人の小さき吾子の悲しみによって。


 あの子は知らぬのだろう。己の悲しみが、天をどれほど軋ませているかを。神域に縛られた――もとは人の魂。されど、その器に宿る力は、朕が思っていたよりも、ずっと深く、ずっと危うい。


「……間に合わぬか」


 低く、吐息のように呟いた。

 尊は、是雄の亡骸にしがみつき、泣いていた。その身から、抑えのきかぬ力が、溢れ出している。蒼竜が、何度も近づこうとしては、その力に弾かれていた。


「姫様!」


 蒼竜が、いくら呼んでも、尊の耳には届かぬ。あれは今、己の内側に、深く沈んでいる。

 蒼竜が、血相を変えて詰め寄ってきた。胸ぐらをつかまんばかりの勢いだった。


「助けろ! お主は、神だろう! 何とかできるはずだ!」

「しておる」

「ならば、何故、止まらぬ!」

「吾子は、死を拒んでおる」


 蒼竜には、解せぬようだった。


「拒む……だと? あれは、ただ泣いておるだけだ!」

「違う。泣いて、世の理そのものを拒んでおる。是雄が死ぬような世であるならば要らぬと。ゆえに、月がそれに応えておるのだ」


 蒼竜は、冷静さを失っていた。無理もない。かつて姫を失い、今また、吾子を失おうとしている。守りたい者を、二度までも目の前から奪われる。あの恐怖が、この男の理性を焼き切っていた。


 朕とて、吾子を惜しいと思わぬわけではない。されど嘆いていても、月は止まらぬ。神には、神のなすべきことがある。

 朕は、踵を返した。湖へ向かう。


「どこへ行く!」

「迎えに行く」

「迎えに、だと……まさか、冥府へ……!」


 蒼竜が、目を見開いた。

 答えるまでもない。荒れる湖へ、静かに身を沈めた。波紋ひとつ、残さずに。

 蒼竜の制止する声が、水面の向こうで、遠くなっていった。


 黒い水の底へ、朕は下りていった。

 光のない、冥府。

 水の冷たさも、息苦しさも、意味をなさぬ。生者の理は、朕を縛らぬのだ。ただ、暗い水の中を、まっすぐに沈んでいく。


 やがて、水が消え、足の下に固い地が現れた。薄墨を流したような、灰色の世界。生きとし生けるものの気配は、どこにもない。


 迷わず進んだ。

 久方ぶりの道であったが、足は覚えていた。かつて、一度だけこの道を歩いたことがある。あれは、いつのことであったか。神の時の流れの中では、つい昨日のようでもあり、はるか昔のようでもあった。


 やがて、巨大な門へとたどり着く。

 門番が、槍を向けてきた。


「止まれ」


 朕は、止まらぬ。


「何者だ」

「知っておろう」

「しかし、通すわけには、いかぬ」


 いささか面倒になって、眉をひそめた。


「急いでおる」


 門番が、槍を構えた。その刹那、朕は手を払った。

 門番は、吹き飛んでいた。槍が、遠くで、からんと鳴る。


「失礼する」


 巨大な門が、ゆっくりと開いた。

 その先は、なぜか、神殿であった。

 冥府の王宮でも、地獄でもない。静かで清らかな神殿。


 その奥に、一柱の神が、待っていた。

 朕を見るなり、その者は、微かに笑った。


「久しいの建御名方神(たけみなかたのかみ)


 その名で呼ぶ者は、もう、ほとんど残ってはおらぬ。


「何用だ」


 朕は、単刀直入に告げた。


「人の魂を、取り出したい」


 冥府の神が、面白そうに目を細める。


「其方の思い人か?」


 短い、沈黙が落ちた。冥府の神の目が、朕の表情を、探るように見つめている。


「…………違う」


 その答えが出るまでに、わずかな間があったことを、自分でも知っていた。

 なぜ、即座に否と言わなかったのか。その問いを捨てた。

 冥府の神は、少し笑った。その間を、面白がるように。


「そうか」


 そして、続けた。


「借りを、作るが?」

「構わぬ」


 朕は、即答した。一瞬の迷いも、なかった。


 神に借りを作るということが、どれほどのことか。それは承知している。それでも、惜しくはなかった。

 冥府の神は、肩をすくめた。朕の即答に、かえって興を削がれたようだった。


「ならばよい」


 そして、奥を指差した。


「その者なら、河原におる」


 神殿を出て、河原へ向かう。

 石ばかりの静かな河原だった。流れる水の音だけが、低く響いている。賽の河原と、人の呼ぶ場所であった。


 そこに、是雄がいた。

 大きな石に、腰掛けている。生前と何も変わらぬ顔で、退屈そうに、足元の小石を、ひとつ、川へ放っていた。

 朕を見て、是雄は、きょとんとした。


「あれ?」


 少し、考える。それから、己の手のひらを、ぼんやりと眺めた。


「死んだか、おいら」

「死んだ」

「そうか」


 まるで、明日の天気でも確かめるような口ぶりだった。

 妙に、あっさりと受け入れる。怖がりもせず、悔やみもせぬ。雨に降られた、というくらいの軽さだった。

 そして、次に出た言葉は、こうだった。


「尊さまは?」

「泣いておる」


 是雄が、頭を掻いた。


「あー……」


 困ったように、笑う。


「そりゃ、困ったな」


 その顔には、己が死んだことなど、どうでもよいと書いてあった。

 まったく、つくづくそういう男だ。


 己の死を、ああも軽々と受け流す者を、久しく見ていなかった。神の前でも臆せず、死の淵でも変わらぬ。この軽やかさが、吾子を、どれほど支えてきたか。それが、よくわかった。


 帰り道。

 是雄が、尋ねてきた。


「で、おいら、生き返るのか?」

「違う。生者には、戻れぬ」

「じゃあ?」

「朕の式となれ」


 是雄は、少しだけ考えた。


「式、ねえ。しもべってやつか」

「そう解してもよい。生者ではなく、霊でもない。朕に縛られ、朕と共に在る。それが、式だ。二度と、人には戻れぬ」


 是雄は、川の流れを、しばらく眺めた。


「尊さまのためか」

「そうだ」

「なら、いいや」


 あまりにも、軽い返事だった。朕は、呆れて息を吐いた。


「即決か。己が何になるか、わかっておるのか」

「だって、尊さまだしな」


 是雄は当たり前のように、そう言った。理屈も損得もない。生きていた時も、死んだ後も、この男の芯は何ひとつ変わらぬ。ただ、吾子のため。それで、十分なのだ。


 もう何も言わなかった。

 ただ、口元が、わずかにゆるむのを、抑えられなかった。

 是雄が、石から立ち上がる。


「じゃ、行くか。あんまり泣かせとくのも、可哀想だしな」


 踵を返した。来た道を、まっすぐに。是雄が、その後ろをついてくる。


 湖を、抜けた。

 夜明け前の神域は、まだ、軋みつづけていた。桜は、散りやまぬ。尊は、是雄の手を握ったまま、うずくまっている。涙も声も、もう枯れかけているようだった。


 その身から漏れる力は、もはや、本人にも止められぬ域に達していた。あのままでは、月が落ちる。それは、この国の終わりを意味する。


 されど、確信があった。吾子を引き戻せるものが、ひとつだけある。


 蒼竜が、朕に気づいて、はっと振り返った。疲れ果てた顔をしている。朕の後ろにある人影に気づくと、その目が、大きく見開かれた。

 何も言わず、ただ傍らへ目をやった。


 是雄が湖から、ゆっくりと岸へ上がってくる。水に濡れた髪を、無造作に掻き上げて。


 そして、吾子を見て、片手を、軽く上げた。


 いつもの、何でもないことのように。まるで、ちょっとそこまで出かけて、帰ってきただけのように。


「よう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ