第五話 神
神域が、軋んでいた。
木々の葉や枝が狂ったように散りつづけ、湖は荒れ、岸を激しく打っている。地は、低く震えていた。そして、空。朕はそれを見上げた。
月が、わずかに、位置を変え始めていた。
長きにわたり、月読尊が支えてきたものが揺らいでいる。たった一人の小さき吾子の悲しみによって。
あの子は知らぬのだろう。己の悲しみが、天をどれほど軋ませているかを。神域に縛られた――もとは人の魂。されど、その器に宿る力は、朕が思っていたよりも、ずっと深く、ずっと危うい。
「……間に合わぬか」
低く、吐息のように呟いた。
尊は、是雄の亡骸にしがみつき、泣いていた。その身から、抑えのきかぬ力が、溢れ出している。蒼竜が、何度も近づこうとしては、その力に弾かれていた。
「姫様!」
蒼竜が、いくら呼んでも、尊の耳には届かぬ。あれは今、己の内側に、深く沈んでいる。
蒼竜が、血相を変えて詰め寄ってきた。胸ぐらをつかまんばかりの勢いだった。
「助けろ! お主は、神だろう! 何とかできるはずだ!」
「しておる」
「ならば、何故、止まらぬ!」
「吾子は、死を拒んでおる」
蒼竜には、解せぬようだった。
「拒む……だと? あれは、ただ泣いておるだけだ!」
「違う。泣いて、世の理そのものを拒んでおる。是雄が死ぬような世であるならば要らぬと。ゆえに、月がそれに応えておるのだ」
蒼竜は、冷静さを失っていた。無理もない。かつて姫を失い、今また、吾子を失おうとしている。守りたい者を、二度までも目の前から奪われる。あの恐怖が、この男の理性を焼き切っていた。
朕とて、吾子を惜しいと思わぬわけではない。されど嘆いていても、月は止まらぬ。神には、神のなすべきことがある。
朕は、踵を返した。湖へ向かう。
「どこへ行く!」
「迎えに行く」
「迎えに、だと……まさか、冥府へ……!」
蒼竜が、目を見開いた。
答えるまでもない。荒れる湖へ、静かに身を沈めた。波紋ひとつ、残さずに。
蒼竜の制止する声が、水面の向こうで、遠くなっていった。
黒い水の底へ、朕は下りていった。
光のない、冥府。
水の冷たさも、息苦しさも、意味をなさぬ。生者の理は、朕を縛らぬのだ。ただ、暗い水の中を、まっすぐに沈んでいく。
やがて、水が消え、足の下に固い地が現れた。薄墨を流したような、灰色の世界。生きとし生けるものの気配は、どこにもない。
迷わず進んだ。
久方ぶりの道であったが、足は覚えていた。かつて、一度だけこの道を歩いたことがある。あれは、いつのことであったか。神の時の流れの中では、つい昨日のようでもあり、はるか昔のようでもあった。
やがて、巨大な門へとたどり着く。
門番が、槍を向けてきた。
「止まれ」
朕は、止まらぬ。
「何者だ」
「知っておろう」
「しかし、通すわけには、いかぬ」
いささか面倒になって、眉をひそめた。
「急いでおる」
門番が、槍を構えた。その刹那、朕は手を払った。
門番は、吹き飛んでいた。槍が、遠くで、からんと鳴る。
「失礼する」
巨大な門が、ゆっくりと開いた。
その先は、なぜか、神殿であった。
冥府の王宮でも、地獄でもない。静かで清らかな神殿。
その奥に、一柱の神が、待っていた。
朕を見るなり、その者は、微かに笑った。
「久しいの建御名方神」
その名で呼ぶ者は、もう、ほとんど残ってはおらぬ。
「何用だ」
朕は、単刀直入に告げた。
「人の魂を、取り出したい」
冥府の神が、面白そうに目を細める。
「其方の思い人か?」
短い、沈黙が落ちた。冥府の神の目が、朕の表情を、探るように見つめている。
「…………違う」
その答えが出るまでに、わずかな間があったことを、自分でも知っていた。
なぜ、即座に否と言わなかったのか。その問いを捨てた。
冥府の神は、少し笑った。その間を、面白がるように。
「そうか」
そして、続けた。
「借りを、作るが?」
「構わぬ」
朕は、即答した。一瞬の迷いも、なかった。
神に借りを作るということが、どれほどのことか。それは承知している。それでも、惜しくはなかった。
冥府の神は、肩をすくめた。朕の即答に、かえって興を削がれたようだった。
「ならばよい」
そして、奥を指差した。
「その者なら、河原におる」
神殿を出て、河原へ向かう。
石ばかりの静かな河原だった。流れる水の音だけが、低く響いている。賽の河原と、人の呼ぶ場所であった。
そこに、是雄がいた。
大きな石に、腰掛けている。生前と何も変わらぬ顔で、退屈そうに、足元の小石を、ひとつ、川へ放っていた。
朕を見て、是雄は、きょとんとした。
「あれ?」
少し、考える。それから、己の手のひらを、ぼんやりと眺めた。
「死んだか、おいら」
「死んだ」
「そうか」
まるで、明日の天気でも確かめるような口ぶりだった。
妙に、あっさりと受け入れる。怖がりもせず、悔やみもせぬ。雨に降られた、というくらいの軽さだった。
そして、次に出た言葉は、こうだった。
「尊さまは?」
「泣いておる」
是雄が、頭を掻いた。
「あー……」
困ったように、笑う。
「そりゃ、困ったな」
その顔には、己が死んだことなど、どうでもよいと書いてあった。
まったく、つくづくそういう男だ。
己の死を、ああも軽々と受け流す者を、久しく見ていなかった。神の前でも臆せず、死の淵でも変わらぬ。この軽やかさが、吾子を、どれほど支えてきたか。それが、よくわかった。
帰り道。
是雄が、尋ねてきた。
「で、おいら、生き返るのか?」
「違う。生者には、戻れぬ」
「じゃあ?」
「朕の式となれ」
是雄は、少しだけ考えた。
「式、ねえ。しもべってやつか」
「そう解してもよい。生者ではなく、霊でもない。朕に縛られ、朕と共に在る。それが、式だ。二度と、人には戻れぬ」
是雄は、川の流れを、しばらく眺めた。
「尊さまのためか」
「そうだ」
「なら、いいや」
あまりにも、軽い返事だった。朕は、呆れて息を吐いた。
「即決か。己が何になるか、わかっておるのか」
「だって、尊さまだしな」
是雄は当たり前のように、そう言った。理屈も損得もない。生きていた時も、死んだ後も、この男の芯は何ひとつ変わらぬ。ただ、吾子のため。それで、十分なのだ。
もう何も言わなかった。
ただ、口元が、わずかにゆるむのを、抑えられなかった。
是雄が、石から立ち上がる。
「じゃ、行くか。あんまり泣かせとくのも、可哀想だしな」
踵を返した。来た道を、まっすぐに。是雄が、その後ろをついてくる。
湖を、抜けた。
夜明け前の神域は、まだ、軋みつづけていた。桜は、散りやまぬ。尊は、是雄の手を握ったまま、うずくまっている。涙も声も、もう枯れかけているようだった。
その身から漏れる力は、もはや、本人にも止められぬ域に達していた。あのままでは、月が落ちる。それは、この国の終わりを意味する。
されど、確信があった。吾子を引き戻せるものが、ひとつだけある。
蒼竜が、朕に気づいて、はっと振り返った。疲れ果てた顔をしている。朕の後ろにある人影に気づくと、その目が、大きく見開かれた。
何も言わず、ただ傍らへ目をやった。
是雄が湖から、ゆっくりと岸へ上がってくる。水に濡れた髪を、無造作に掻き上げて。
そして、吾子を見て、片手を、軽く上げた。
いつもの、何でもないことのように。まるで、ちょっとそこまで出かけて、帰ってきただけのように。
「よう」




