第一話 帰還
「よう」
その声が、わたしの中に、すっと入ってきた。
けれど、意味がわからなかった。
目の前に立つ是雄と、自分が握っている、冷たい亡骸とを、見比べた。是雄はそこにいる。けれど、是雄はここにもいる。
頭が追いつかなかった。さっきまで、この手の中の冷たいものに、必死にすがっていた。是雄が、死んだのだと。もう戻らないのだと。それなのに。
声が、出なかった。
是雄が、困ったように笑う。あのいつもの笑い方で。
「そんな顔すんなって」
わたしの中で、何かがはじけた。
亡骸から手を離して、駆け出していた。泣きながら是雄に、ぶつかるように抱きついた。
是雄の体は、確かにそこにあった。冷たくなかった。さっきまで握っていた手の冷たさとは、まるで違う。
是雄は、少しよろめいた。それからいつものように頭に手を乗せた。
大きくて温かいあの手だった。
「ただいま」
声も出せずに、ただその胸に顔を埋めて泣いた。暴れていた力が、少しずつ収まっていった。
狂ったように散っていた桜が、ぴたりと止まる。荒れていた湖が、鎮まる。傾きかけていた月の落下も、ひとまず、落ち着いたようだった。
けれど、諏訪様だけは、まだ空を見上げていた。その横顔は、安堵していなかった。何かが、まだ終わっていない。そう言っているように見えた。
蒼竜は、膝から崩れそうなほど、安堵していた。詰めていた息を、ようやく吐き出すように、肩が大きく上下している。
けれど、その目が、わたしと是雄を見て、ほんの一瞬だけ揺れた。
わたしを引き戻したのが、自分ではなく是雄だったこと。あれほど近づこうとして、届かなかった自分の手。それを是雄の「よう」の一言が、いとも簡単に、果たしてしまったこと。
その小さな影は、すぐに、消えた。蒼竜は、何も言わなかった。ただ静かに目を伏せて、乱れた呼吸を整えていた。
少し落ち着いてから、問うた。
「本当に……是雄、なのですか」
諏訪様が答えた。
「是雄は、生者ではない。霊でもない。冥府から取り戻し、神の式として、繋ぎ止めたものだ」
式。
その言葉の意味を、まだ半分も飲み込めていなかった。
「今は、朕の式だ」
わたしは、固まった。諏訪様のものに。是雄が。
けれど、諏訪様は、続けた。
「だが、朕の側に置くために、連れ戻したのではない」
諏訪様が、わたしに、手を差し出すよう促した。是雄にも、同じように。
わたしと是雄が、おずおずと手を出す。諏訪様が、その二つの手をそっと重ねた。
諏訪様の神気が、是雄からわたしへと、流れ込んでくるのがわかった。是雄の輪郭が、一瞬、ゆらりと揺らいだ。糸が繋ぎ替えられていく。
諏訪様という太い幹から、頼りない若木へと。
そして、胸の奥に、細い糸のような感覚が、生まれた。
是雄がそこにいる。手を離しても、目を閉じてもわかる。是雄が、確かにそこにいると、感じられる。温かいようなくすぐったいような、初めての感覚だった。
是雄も、不思議そうに、胸を押さえていた。
「お? なんだ、これ」
諏訪様が告げた。
「これより是雄は、吾子の式だ」
是雄は、軽く笑った。
「つまり、尊さま付きってことだな」
諏訪様は、無言で頷いた。
尊さま付き。是雄がこともなげに言ったその言葉が、ひどく不思議に響いた。是雄が、糸で繋がれている。
それが、嬉しいような、申し訳ないような、複雑な気持ちだった。
その晩、是雄も、普通に夕餉の席についた。
少しだけ安心した。是雄がいつもの場所に、いつものように座っている。それだけのことが、たまらなく嬉しかった。
是雄が、飯を食べ始めた。箸を取り、口へ運び咀嚼し、飲み込む。何も変わらない。
けれど、途中で、その手が止まった。
「ん?」
わたしも蒼竜も気づいた。
「味がしねえ」
空気が止まった。諏訪様が、淡々と言う。
「式だからな」
是雄は、軽い調子で、続けた。
「まあ、死んだからな」
けれど、その一言が、重かった。
戻ってきた。確かに戻ってきた。けれど、生き返ったわけではない。
それを、わたしは、初めてはっきりと突きつけられた。
あの婆さまの団子。是雄と一緒に食べたあの甘い団子。是雄はあの味を、感じられない。
是雄は、わざと軽く続けた。
「酒も、駄目か?」
「おそらくな」
諏訪様が、答える。
「それは、困る」
蒼竜が、呆れたように、息を吐いた。諏訪様も、ため息をつく。
わたしだけが、笑えなかった。
夜中に、目が覚めた。
隣に、是雄の気配がない。胸の奥の糸をたどってみる。是雄は外にいた。
起き出して、縁側へ向かった。是雄が、そこに座っていた。月を、見上げている。
「寝ないのですか」
「寝られねえ」
是雄は、月を見たまま、答えた。
「眠気がこねえんだ。疲れもしねえ。妙なもんだな」
わたしは、その隣に腰を下ろした。
「辛くないのですか」
是雄は、少し考えた。
「よくわからん」
それが、本音のようだった。
「味はしねえし、眠くもならねえ。腹も減らねえ。まあ、変な感じだな」
わたしは、俯いた。
泣いてしまったから、是雄はこんなふうになってしまった。味も、眠りも、空腹も。生きている者の当たり前のものを、
すべてなくしてしまった。そう思うと、胸が苦しかった。
「……ごめんなさい」
小さく、そう呟いた。
「わたしのせいで、是雄は……」
是雄が、笑った。
「謝ることじゃねえよ。おいらが、勝手についてきただけだ。諏訪様に、式になるかって聞かれてな。即決した」
「即決……」
「ああ。だって、尊さまがいるからな」
是雄は、そう言って、また月を見上げた。
「味がしねえのも、眠れねえのも、まあ、慣れる。それより、お前が泣いてる方がおいらは困る」
また、泣きそうになった。是雄が、困ったように、言う。
「おい、また泣くなよ」
鼻をすすって、少しだけ、落ち着いた。二人で、しばらく、黙って月を見ていた。冷たい夜気の中で、是雄の隣だけが、不思議と、温かい気がした。
翌朝、神域。
是雄は、いつものように、働こうとした。
薪を、持ち上げる。
その瞬間、是雄が、おかしな顔をした。力加減がおかしいのだ。両手で抱えるはずの薪の束を、片手で、ひょいと、軽々と持ち上げてしまった。
「お、おう……?」
是雄自身が、驚いている。蒼竜が、それを見ていた。
「慣れていないな」
「死ぬの初めてだからな」
是雄が、けろりと笑う。
蒼竜は、返答に、困っていた。死ぬのが初めてなどと言われて、何と返せばいいのかわからないのだろう。
けれど、その目にはどこかほっとしたような色もあった。是雄が変わらず是雄のままで、軽口を叩いている。それが、蒼竜にも嬉しいのだ。
けれど、同時に、また感じてしまった。是雄は、もう人ではない。あんなに重い薪を片手で持てるほどの、人ならざるものに、なってしまったのだ。
戻ってきた。それは、嬉しい。
けれど、戻ってきたのは、生きている是雄ではなかった。
その事実が、朝の光の中で、静かに、わたしの胸に降りてきた。
◇
その頃。
遠い、山の上。
高貴な装束をまとった美しい女が立っていた。傍らには従者らしき女が、控えている。
二人は、はるか下の神域を見下ろしていた。
高貴な女の視線が、まず一人の男に向く。
「見つけました」
従者が問う。
「間違い、ありませんか?」
「ええ」
女は、微かに笑った。
「あれが、翼ある竜」
その視線の先には、薪を運ぶ蒼竜の姿があった。
「御館様への、よい土産になります」
女が、そう呟いた、その時だった。
女の視線が、わずかに、ずれた。
蒼竜の近く。そこに小さな娘が立っている。女の表情が、ほんの少し、変わった。
「……あれは?」
従者も、その娘へ、目を向ける。
「人、でしょうか」
女は、答えなかった。ただ、じっと、その娘を見つめている。
その娘の周りに、ほかの者とは違う奇妙な気配が漂っていた。人のようでいて人ではない。何かひどく古く、ひどく大きなものの匂いが、その小さな体から立ち上っている。
そして、低く呟いた。
「月の匂いがする」
従者が、怪訝そうに、主の横顔を見た。
女は、もう、翼ある竜のことなど、忘れたように、その娘だけを、見つめていた。




