第二話 鬼来たる
第二話 鬼来たる
神域の朝は、前日の戦いが嘘のように静かだった。
桜はもう散りやみ、湖は、鏡のように凪いでいた。
少しずつ、元気を取り戻していた。是雄がそこにいる。胸の奥の糸を、たどればいつでもわかる。それだけで、世界がまるで違って見えた。
是雄もいつも通りだった。蒼竜もそばにいる。けれど、諏訪様だけが、いつも以上に険しい表情をしていた。
白蛇が、何度も森の方を見ている。ちろりと舌を出しては、鱗を鳴らす。普段は岩の上で、丸くなって日を浴びているばかりなのに。今朝は、一度もとぐろを解こうとしなかった。
「どうしたのですか」
白蛇は答えなかった。ただ森を睨んでいた。
その視線の先には、何も見えなかった。朝靄が木々の間に薄く流れているだけだった。
けれど、白蛇にはわたしに見えない何かが、見えているらしかった。
昼ごろ、神域へ客が来た。
雅な女と、その従者らしき女だった。旅の者だと名乗った。
わたしは、すぐに違和感を覚えた。理由はわからない。ただ何かがおかしかった。
胸の奥がざわついた。特訓で気配を読めるようになってから、こういう感覚がたまにある。目には見えないのに、肌が何かを嫌がっている。そんな感覚だった。
女はとても上品だった。礼儀正しく物腰も柔らかい。どこかの公家の娘だと言われれば、信じてしまいそうな穏やかな佇まいだった。
黒い髪は艶やかで笑うと、目尻が優しく下がる。
けれど、白蛇だけが、露骨に警戒していた。蒼竜もその女から視線を外さない。
是雄だけがのんきに言った。
「知り合いか?」
首を横に振った。女の視線が向く。じっと、覗き込むように。
「お名前は?」
「……尊です」
「よい名ですね」
そんな、何でもない会話だった。けれど、その目の奥に何か探るような色があるのを感じた。
白蛇の警戒がいっそう強まる。
その時、従者の女が是雄を見て、ふと言った。
「変な匂い」
くん、と鼻を鳴らすような仕草で、首をかしげる。
「生きてるのに、死んでる。……あら、不思議」
是雄も気づいたようだった。その顔からのんきさが消える。やわらかかった目つきがすっと鋭くなった。
「……お前ら、人じゃねえな」
空気が変わった。白蛇がするすると、前へ出た。
「失せよ」
白蛇の体から鬼気とは違う、神の威が漏れ出す。女たちは、隠す意味がなくなったとばかりに、笑った。
その瞬間、女の額に角が現れた。従者にも。
なめらかだった額の肌を割って、ぬらりと、二本の角が、せり上がってくる。優しげだった目の奥が、爛々と赤く光った。
二人の体から、ねっとりとした妖の力があふれ出す。神域の清らかな空気が、ずしりと重くなった。息がしづらく、肌が粟立つ。
鬼。
戦いが、始まった。
白蛇が、見上げるほどの巨大な蛇へと姿を変える。鱗が朝日を弾いて、白く光った。蒼竜が刀を抜いた。是雄も、拳を鳴らして前へ出る。
わたしは後方にいた。けれど、逃げなかった。
奇妙なことに美しい女の方は――茨木童子――戦おうとしなかった。
ただ、見ていた。戦うのは従者の鬼だけだった。
茨木童子はすべてを観察していた。蒼竜の強さを。是雄の人ならざる異質さを。そして、わたしの反応を。
戦う気はないようだった。腕を組みまるで、芝居でも眺めるように、口元に笑みを浮かべて、立っている。攻めてくる気配はまるでない。
けれど、その余裕こそが、何より恐ろしかった。
戦いの最中だった。
従者の鬼が、ふいにわたしの方へ、向かってきた。
狙いは、試すことなのだろう。わたしにどれほどの力があるのか。それを見るために。
鬼が、迫る。
恐怖で、体が動けなくなった。
茨木童子の、あの探るような目。従者の鬼の剥き出しの殺意。それが、まっすぐ向けられている。
泣きそうだったし、逃げたかった。足が震えた。
また同じだ。体が言うことを聞かない。喉がからからに乾く。心の臓が、痛いほど鳴っている。今すぐ背を向けて、走り出したかった。
けれど――。
蒼竜が戦っている。是雄も戦っている。わたしのために、命をもう一度賭けている。是雄は一度死んでまで、わたしの前に立った。
ならば、ここで逃げたら、また守られるだけの自分に戻ってしまう。それだけはいやだった。
震える足に力を込めた。一歩も退かなかった。その場に踏みとどまり、逃げなかった。鬼の殺意をまっすぐ見返した。
涙がにじんだ。それでも、目をそらさなかった。
白蛇の尾が、横から従者の鬼を、弾き飛ばした。
向かっていた鬼が、その一撃で、横ざまに吹き飛ぶ。わたしが踏みとどまったことで、ほんの一瞬、鬼の動きが止まっていた。その隙を白蛇は逃さなかった。
すかさず蒼竜が、追撃する。鬼の体に刀を、深く突き立てた。そこへ、是雄が、駆け込む。
「おらっ!」
拳が、鬼の顔面を捉えた。式となった是雄の人ならざる膂力が、その一撃に乗っていた。
鬼は、大きく吹き飛んだ。地に叩きつけられ、もう起き上がらなかった。
従者の鬼は敗れた。
茨木童子は、満足そうにその光景を見ていた。
「なるほど」
くすりと笑う。
「面白い」
そして、ゆっくりと、歩き出した。
まっすぐ、わたしの方へ。
誰も、動けなかった。蒼竜も是雄も白蛇も。茨木童子の底知れない妖気に、押さえつけられていた。
茨木童子が、わたしの前まで来て、そっと顔を覗き込んだ。
美しい、けれど、ぞっとするほど冷たい目だった。その瞳の奥を覗き込まれると、心の底まで見透かされるようだった。わたしは、動けなかった。けれど、今度は恐怖でではない。茨木童子の妖気が、わたしの体を縫いつけていたのだ。
「貴女は、いったい何でしょうね」
その声は、囁くように、低かった。
「人のようで人ではない。神のようで、神でもない。けれど、貴女からは……ええ、間違いなく」
茨木童子は、すっと目を細めた。
「月の匂いがするのですよ」
何も答えられなかった。月の匂い。それが、何を意味するのかわからなかった。
茨木童子は、また笑った。
「また、参ります」
そう言い残すと、その姿は霧のように、消えた。倒れた従者の鬼も、いつのまにかいなくなっていた。
張りつめていた空気が、ふっと、緩む。
その時、諏訪様の影が現れた。
いつもの以上に不機嫌そうだった。
「何者だ、あれは」
蒼竜が問う。諏訪様は、消えた方角を、睨んだまま答えた。
「酒呑童子の片腕よ」
白蛇の尾が地面を打つ。
その名は、わたしも聞いたことがあった。鬼の王――数多の鬼を従え、人を喰らうという恐ろしい存在。茨木童子はその片腕。
「あれが、村を襲わせていたのか」
蒼竜が、低く問う。
「おそらくな。中級が群れたのも、あれらが山を追い立てていたからだ。すべては、この神域を探るため」
諏訪様が続ける。
「次は、遊びでは済まぬ」
まだ震えの止まらない手をぎゅっと握りしめた。手のひらに爪の跡が残るほど。
あの目が、まだ忘れられなかった。貴女は何かと問うあの冷たい声が。月の匂いがする、と。あれはいったいどういう意味だったのだろう。問い返す間もなかった。
けれど。
今日、わたしは逃げなかった。
鬼を倒したのは、白蛇と蒼竜と是雄だ。わたしはただその場に立っていただけ。
それでも、わたしにとっては、初めての一歩だった。




