第三話 尊と依月
翌朝の神域は、まだ昨日の戦いの余韻を引きずっていた。
白蛇は小さくなって岩の上から、じっと森を警戒している。蒼竜もいつもより口数が少なかった。
湖のほとりに座って、考えていた。
――月の匂い。
茨木童子のあの言葉が、頭から離れなかった。人でもない、神でもない、けれど月がいる。あれはいったい何を意味していたのだろう。
もとはただの親王だった。二百年前、諏訪様に拾われて、神域のなかで幽霊としてさまよい、つい先日この体を得た。月などというものに心当たりはない。
それなのに、あの鬼ははっきりと言い当てたように笑った。まるで、わたし自身も知らないものを見透かすように。
水面に映る自分の顔を、ぼんやりと眺めた。
朝餉の席で、思いきって切り出した。
「蒼竜。依月様とは、どのような方だったのですか」
空気が、変わった。
蒼竜の箸が止まる。是雄も何か察したのか、口をつぐんだ。諏訪様は、わたしを止めなかった。
蒼竜は、すぐには答えなかった。しばらく黙ってから、低く語り始めた。
「……私の主だった」
「優しい方だった。それでいて、強かった。民に慕われ、誰からも好かれていた」
言葉は短かったが、その一つ一つに長い年月の重みがあった。蒼竜が依月のことを語るのを、聞くのは初めてだった。いつも名前だけがふとした拍子にこぼれるだけで、その人がどんな人だったのかを、蒼竜は話さなかった。
「飢えた年には、自らの蔵を開けて民に分けた。戦になれば、真っ先に前へ立った。臆病なところなど、どこにもない人だった」
静かに聞き、そして、問うた。
「大切だったのですね」
蒼竜は、否定しなかった。
「種族は違った。私は竜で、姫様は人だ。それでも、互いに想い合っていた。だが、許されなかった」
最後の一言は、ひどく重かった。
「では」
胸の奥がざわつくのを感じながら、続けた。
「わたしは、依月様なのですか」
「違う」
蒼竜は即答した。
「違う」
諏訪様も、同じように迷わず答えた。
二人とも、ためらいはなかった。あまりに迷いがないので、かえって、その奥に何かが隠されているように思えてしまう。
「ですが、蒼竜は、よく依月様の話をします。わたしを見るとき、ときどき、別の誰かを見ているような目をします」
諏訪様が盃を置いて、説明を始めた。
「依月は死んだ。とうに、この世のものではない」
「何故かは、朕にも分からぬ」
「だが、その魂の根幹だけは消えずに残った」
「その根幹が、吾子へ流れ込んだ」
わたしは、息を詰めて聞いた。
「ゆえに、吾子は依月ではない。だが、依月と無関係でもない」
何か言おうとしたが、口から言葉が出てこない。
風の音がいっそう大きく聞こえた。
しばらくして、蒼竜が口を開いた。少し、迷うように。
「其方は尊だ。だが、魂の根幹を宿しているのも事実だ」
残滓ではない。欠片でもない。根幹を宿している。蒼竜はそう言った。
その違いが、まだうまく飲み込めなかった。残滓ならいつか薄れて消える。欠片ならただの一部にすぎない。
けれど、根幹を宿している、というのはどういうことなのだろう。
その言葉の意味を、しばらく考えた。そして、おそるおそる問うた。
「ならば、蒼竜は、わたしを依月様として見ているのですか」
蒼竜は、答えなかった。
長い沈黙が、落ちた。
箸を置く音も、衣擦れの音もしない。ただ外で白蛇の鱗をこする音だけが聞こえた。
やがて、蒼竜が、絞り出すように言った。
「違う」
一度、言葉を切る。
「違うが――離れられぬ」
それが、蒼竜の本音だった。
その短い言葉に、二人の過ごした歳月が、詰まっているように思えた。主を失い、その魂の宿った娘の前にいる。離れたくとも、離れられない。
蒼竜は、ずっとその矛盾を抱えて、わたしのそばにいたのだ。
何も言えなかった。空気が、重く沈んだ。
わたしは依月ではない。蒼竜もそう言う。それでも、蒼竜の目はときどき、わたしの向こうに誰かを探している。そのことが、今はっきりとわかってしまった。
その重さを破ったのは、是雄だった。
団子を食いながら――味はしないはずなのに、癖で食べているらしい――是雄が、のんびりと言った。
「難しい話だな。尊さまは、尊さまだろ」
「そういう話では、ないのです」
わたしの言葉に、是雄はあっさり返した。
「そういう話だ」
そして、串の先で、わたしを軽く指した。
「おいらは、依月様なんて知らねえ。会ったこともねえ」
「おいらが知ってるのは、尊さまだ。飯食って、特訓して、鬼に震えながらも逃げなかった、お人だ。そして、おいらの主だ」
「だから、尊さまは、尊さまだよ」
是雄は、それ以上何も説明しなかった。当たり前のことを当たり前に言っただけ、という顔をしている。
けれど、その単純さがこんがらがったわたしの胸を、まっすぐにほどいてくれた。
諏訪様がため息をつき、蒼竜は苦笑した。
けれど、ほんの少しだけ、救われた気がした。
依月の魂を宿していようが、いまいが。是雄にとって「尊さま」なのだ。それが、たまらなくありがたかった。
◇
同じ頃、山の中。
茨木童子は、従者とともにいた。従者が、報告する。
「竜は、確認できました」
茨木童子は頷いた。本来の目的は、果たした。翼ある竜の在処を確かめること。それだけのはずだった。
だが、茨木童子は、すぐには立ち去らなかった。
「娘がいた」
「神域の娘ですか」
茨木童子は、笑った。
「ええ。妙な娘でした。人でもない。神でもない。けれど」
その目が、遠く、神域のある方角へ向けられる。
「銀の髪……ねぇ」
従者には、その意味がわからなかった。怪訝そうに、主の横顔を見る。
「銀でございますか」
「あの娘の奥に、確かに何か気配があった。眠っているようにも見えましたがね」
茨木童子は、唇の端を上げた。
「御館様は、翼ある竜を欲しておられる。けれど、あの娘の方がよほど良い土産になるかもしれませんね」
従者は、なおも、要領を得ない顔をしていた。茨木童子は、それには構わず、笑っていた。
「面白い」
◇
神域の夕方。
また湖を見ていた。水面に、自分の顔が映る。
男だった頃の面影は、もうどこにもない。二百年前に死んだ小さな親王の顔は。命を絶たれたときのまま、二百年を幽霊として過ごし、そして、今は娘の体をしている。
依月そっくりだと言われるこの顔と体だけだ。
考えてみれば、自分が何者なのか、もうよくわからなくなっている。
けれど、わたしは依月ではない。
是雄がそう言ってくれた。蒼竜も、諏訪様も、違うと言った。
「わたしは、尊だ」
小さく、声に出してみる。
名前だけが、確かなものに思えた。親王の名でも依月の名でもない、尊という名。諏訪様がつけ、是雄が呼び、蒼竜が苦しみながらも、その名で呼ぼうとする。
そう呟くと、ほんの少し胸が軽くなった。
けれど、それでも。
胸の奥には、まだ、わたし自身も知らない何かが、確かに横たわっている気がした。月の匂い。依月の魂。
そのどちらも、まだ、手が届かない。眠っているうちはいい。
けれど、もしそれが目を覚ましたら――わたしは、まだ尊のままでいられるのだろうか。
風が吹いて、湖面が、わずかに揺れた。
水鏡の顔がゆらりと崩れて、誰のものともつかなくなった。




