第四話 鬼女
あれから、数日が過ぎた。
神域には、静けさが戻っていた。湖は穏やかに凪いでいる。
けれど、諏訪様だけは、機嫌が悪かった。白蛇も、岩の上で落ち着かず、しきりに舌を出しては、四方を窺っている。
空気は澄んでいるし、鳥の声も聞こえる。何がそんなに諏訪様を苛立たせているのか。
ただ特訓のおかげで、ひとつだけ感じることがあった。遠くの山の方から、ときおりざらりとした冷たいものが流れてくる。気のせいかと思うほどかすかに。けれど、それは確かに日に日に濃くなっていた。
是雄は、いつも通りだった。薪を割り、井戸の水を汲み、軽口を叩く。蒼竜だけが、是雄の隣で、ずっと周囲を警戒していた。
その日の夕方だった。
神域の近くに、強い鬼気が現れた。
諏訪様が、真っ先に気づいた。次いで、蒼竜も。空気がぴりりと張りつめる。
「姫……尊、今回は来るな」
蒼竜が、刀を取りながら言った。
「来てはならぬ」
念を押すように、もう一度言う。
いつもの蒼竜とは違う。有無を言わせぬ響きに、思わず言葉を飲んだ。桜の下に残された。是雄と蒼竜が、鬼気の方へ駆けていく。
胸の奥の糸を、ぎゅっと握るようにたどった。是雄がそこにいる。まだ、ちゃんといる。
じっとしているのは、苦しかった。鬼に立ち向かう二人を、ただ待つだけ。是雄が一度死んだあの夜のことが、嫌でも頭をよぎる。あのときも、何もできずにただ見ていた。
けれど、蒼竜は来るなと言った。確かに今行っても、足手まといになるだけだとわかっていた。だから、待つしかなかった。糸の感覚だけを頼りにして。
◇
森の奥。
現れたのは、前回と同じ茨木童子だ。今回は、従者を連れていない。最初から、本人が立っていた。
茨木童子は、笑った。
「今日は、遊びではありません」
「ただ、少し、見たくなっただけ」
言うが早いか、茨木童子の姿が、消えた。
次の瞬間、蒼竜の刀が受け止めて、甲高い音を立てた。茨木童子の細い腕が、刀身を素手で押さえている。常人の膂力ではない。蒼竜の腕がじりと押し込まれた。
細い指が、鋼の刀身をまるで小枝のように押し込んでくる。その美しい顔は笑みを浮かべたまま、少しも力んでいない。
蒼竜でも、容易には近づけない。是雄が、横から拳を打ち込む。茨木童子は、それを振り向きもせずに弾いた。手の甲で無造作に。
是雄の体が木々をなぎ倒しながら吹き飛ぶ。それでも茨木童子は、一歩も動いていなかった。
戦いが、続いた。
僅かな隙をついて、茨木童子の爪が是雄の肩を裂いた。返す手が腕を切る。さらに一撃が、是雄の体を大きく吹き飛ばした。
けれど、是雄は、平然と立ち上がった。
「下がれ!」
蒼竜が叫ぶと、是雄は不思議そうな顔をした。
「なんでだ? 動けるだろ」
是雄は肩を見た。血が流れている。
なのに、どれほどの傷なのか、自分でもわからなかった。
その声に痛みの色は、まるでなかった。肩から血を流しながら、是雄はけろりとしている。
蒼竜の顔が焦りに歪んだ。是雄本人は、本当に危険を理解していない。痛みを感じないということは、限界もわからないということだ。どれだけ傷を負っても立てるから、立ち続ける。
「是雄!」
蒼竜の叫びに、是雄は首を傾げるだけだった。
戦いは、なお続いた。
人間なら、とうに息が上がっているはずだった。あれだけ斬られ、吹き飛ばされれば、立っていることさえ難しい。
だが、是雄は疲れなかった。呼吸ひとつ乱れない。流れた血も、いつのまにか止まっている。裂かれた肩の傷が、見ているうちに塞がっていく。
蒼竜は、そこで、やっと確信したようだった。是雄はもう人ではないと。
是雄自身も、薄々、気づき始めていた。己の肩に手をやり、不思議そうに、傷の塞がった跡をなぞる。
「……あれ?」
「そういや、痛くねえな……前なら、こんなん食らったら、立てなかったか」
その口ぶりは、まるで他人の体の話をしているようだった。死んでから、まだ幾日も経っていない。痛みのない体にも、塞がる傷にも、是雄自身慣れていないのだ。
今まで気にも留めなかったことが、激しい戦いの中で、はっきりと形になって表れていた。
茨木童子が、その様子に興味を惹かれたようだった。
「なるほど」
くすり、と笑う。
「面白いものを、作ったものですね」
蒼竜の体の奥から、青銀の竜気が、膨れ上がる。地が震え空気が裂けた。あの、鵺を討ったときと同じ、人ならざる力。それを、今は茨木童子へと向けられている。蒼竜の斬撃が、茨木童子を大きく押し返す。
すかさず是雄が、連携する。蒼竜が斬り込み、是雄が退路を断つ。痛みを感じない是雄は傷を恐れず、ぎりぎりまで踏み込めた。皮肉なことに、人でなくなったことが、是雄をより戦える者にしていた。二人の呼吸は、合っていた。
茨木童子は、じりじりと、追い込まれていった。
けれど、討ち取るには、至らなかった。
茨木童子は、追い詰められてなお、笑っていた。敗北した様子はどこにもない。
着物には切り傷ひとつない。まるで散歩の途中で立ち寄ったかのようだった。
「十分、見られました」
「なるほど。確かに、面白い」
茨木童子の目が、神域のある方角を、ちらりと見た。
「これは、知らせる価値があります。御館様も、きっと興味を持たれるでしょう」
名前は、出さなかった。けれど、その一言で、空気がいっそう重くなった。茨木童子の上に、まだ何かが控えている。それも、この鬼女よりもはるかに恐ろしい何かが。
蒼竜が、刀を構え直す。
「待て」
低く、引き止めようとする。けれど、茨木童子は、もう戦う気はないようだった。深追いすればこちらが危うい。それもわかっていた。そのまま霧のように、森の奥へと消えていった。
◇
神域へ戻ってくる是雄を見て、駆け寄った。
是雄の着物は、肩も腕も、裂けて、血で汚れていた。
「是雄! 怪我を……!」
「大丈夫だ」
是雄は、けろりと言った。
「もう塞がってる。ほら」
破れた袖をめくると、そこには、傷の跡すらなかった。あれほど深く裂かれていたはずなのに。
とても複雑な気持ちになった。怪我がないのは嬉しい。けれど、人なら決してこうはならない。
是雄も、少しだけ、黙った。
わたしの顔を見て、自分の腕を見て、何かを考えているようだった。塞がった傷を、もう一度指でなぞる。
「……変な感じだな。痛くねえのは楽なんだけどよ」
「どこまでなら動いていいのか、わかんねえ」
ぽつりと、そう言った。それは、いつものおどけた調子ではなかった。痛くないのは楽だ。傷が塞がるのも、便利かもしれない。
けれど、それは生きている者の体ではない。自分がもうもとの自分ではないこと。それを、是雄もようやく、自覚し始めていた。
何も言えなかった。是雄は、もう自分の痛みさえわからない。
それだけが、胸に引っ掛かった。
是雄は、そんなわたしを見て、ふっと、いつもの顔に戻った。
「まあ、便利でいいだろ。死なねえんだからな」
わざと、軽く言ったのが、わかった。
その夜。
諏訪様が、ひとりで、森を見つめていた。白蛇が、その傍らで空を見上げている。
わたしも、縁側から同じ方を見た。
遠く、山の向こう。
拙い感覚でもわかった。鬼気があった。ひとつではない。いくつも、いくつも。
前に感じたときよりも、明らかに、増えている。
蒼竜が、すっと隣に立った。
「増えているな」
諏訪様が、短く答えた。
「ああ」
夜風が、山から吹き下ろしてくる。その風には、かすかに血の匂いが混じっている気がした。
「始まった」
諏訪様の声は、低く、そして、確かに、何かの始まりを告げていた。
知らなかった。あの茨木童子が御館様と呼んだ者が、誰なのか。山の向こうで膨れ上がる鬼気が、何を意味するのか。
ただ、ひとつだけ、わかっていた。穏やかな日々は、もう終わりかけている。是雄の塞がった傷も増えていく鬼気も、すべてがそう告げていた。
あれから、数日が過ぎた。
神域には、静けさが戻っていた。湖は穏やかに凪いでいる。
けれど、諏訪様だけは、機嫌が悪かった。白蛇も、岩の上で落ち着かず、しきりに舌を出しては、四方を窺っている。
空気は澄んでいるし、鳥の声も聞こえる。何がそんなに諏訪様を苛立たせているのか。
ただ特訓のおかげで、ひとつだけ感じることがあった。遠くの山の方から、ときおりざらりとした冷たいものが流れてくる。気のせいかと思うほどかすかに。けれど、それは確かに日に日に濃くなっていた。
是雄は、いつも通りだった。薪を割り、井戸の水を汲み、軽口を叩く。蒼竜だけが、是雄の隣で、ずっと周囲を警戒していた。
その日の夕方だった。
神域の近くに、強い鬼気が現れた。
諏訪様が、真っ先に気づいた。次いで、蒼竜も。空気がぴりりと張りつめる。
「姫……尊、今回は来るな」
蒼竜が、刀を取りながら言った。
「来てはならぬ」
念を押すように、もう一度言う。
いつもの蒼竜とは違う。有無を言わせぬ響きに、思わず言葉を飲んだ。桜の下に残された。是雄と蒼竜が、鬼気の方へ駆けていく。
胸の奥の糸を、ぎゅっと握るようにたどった。是雄がそこにいる。まだ、ちゃんといる。
じっとしているのは、苦しかった。鬼に立ち向かう二人を、ただ待つだけ。是雄が一度死んだあの夜のことが、嫌でも頭をよぎる。あのときも、何もできずにただ見ていた。
けれど、蒼竜は来るなと言った。確かに今行っても、足手まといになるだけだとわかっていた。だから、待つしかなかった。糸の感覚だけを頼りにして。
◇
森の奥。
現れたのは、前回と同じ茨木童子だ。今回は、従者を連れていない。最初から、本人が立っていた。
茨木童子は、笑った。
「今日は、遊びではありません」
「ただ、少し、見たくなっただけ」
言うが早いか、茨木童子の姿が、消えた。
次の瞬間、蒼竜の刀が受け止めて、甲高い音を立てた。茨木童子の細い腕が、刀身を素手で押さえている。常人の膂力ではない。蒼竜の腕がじりと押し込まれた。
細い指が、鋼の刀身をまるで小枝のように押し込んでくる。その美しい顔は笑みを浮かべたまま、少しも力んでいない。
蒼竜でも、容易には近づけない。是雄が、横から拳を打ち込む。茨木童子は、それを振り向きもせずに弾いた。手の甲で無造作に。
是雄の体が木々をなぎ倒しながら吹き飛ぶ。それでも茨木童子は、一歩も動いていなかった。
戦いが、続いた。
僅かな隙をついて、茨木童子の爪が是雄の肩を裂いた。返す手が腕を切る。さらに一撃が、是雄の体を大きく吹き飛ばした。
けれど、是雄は、平然と立ち上がった。
「下がれ!」
蒼竜が叫ぶと、是雄は不思議そうな顔をした。
「なんでだ? 動けるだろ」
是雄は肩を見た。血が流れている。
なのに、どれほどの傷なのか、自分でもわからなかった。
その声に痛みの色は、まるでなかった。肩から血を流しながら、是雄はけろりとしている。
蒼竜の顔が焦りに歪んだ。是雄本人は、本当に危険を理解していない。痛みを感じないということは、限界もわからないということだ。どれだけ傷を負っても立てるから、立ち続ける。
「是雄!」
蒼竜の叫びに、是雄は首を傾げるだけだった。
戦いは、なお続いた。
人間なら、とうに息が上がっているはずだった。あれだけ斬られ、吹き飛ばされれば、立っていることさえ難しい。
だが、是雄は疲れなかった。呼吸ひとつ乱れない。流れた血も、いつのまにか止まっている。裂かれた肩の傷が、見ているうちに塞がっていく。
蒼竜は、そこで、やっと確信したようだった。是雄はもう人ではないと。
是雄自身も、薄々、気づき始めていた。己の肩に手をやり、不思議そうに、傷の塞がった跡をなぞる。
「……あれ?」
「そういや、痛くねえな……前なら、こんなん食らったら、立てなかったか」
その口ぶりは、まるで他人の体の話をしているようだった。死んでから、まだ幾日も経っていない。痛みのない体にも、塞がる傷にも、是雄自身慣れていないのだ。
今まで気にも留めなかったことが、激しい戦いの中で、はっきりと形になって表れていた。
茨木童子が、その様子に興味を惹かれたようだった。
「なるほど」
くすり、と笑う。
「面白いものを、作ったものですね」
蒼竜の体の奥から、青銀の竜気が、膨れ上がる。地が震え空気が裂けた。あの、鵺を討ったときと同じ、人ならざる力。それを、今は茨木童子へと向けられている。蒼竜の斬撃が、茨木童子を大きく押し返す。
すかさず是雄が、連携する。蒼竜が斬り込み、是雄が退路を断つ。痛みを感じない是雄は傷を恐れず、ぎりぎりまで踏み込めた。皮肉なことに、人でなくなったことが、是雄をより戦える者にしていた。二人の呼吸は、合っていた。
茨木童子は、じりじりと、追い込まれていった。
けれど、討ち取るには、至らなかった。
茨木童子は、追い詰められてなお、笑っていた。敗北した様子はどこにもない。
着物には切り傷ひとつない。まるで散歩の途中で立ち寄ったかのようだった。
「十分、見られました」
「なるほど。確かに、面白い」
茨木童子の目が、神域のある方角を、ちらりと見た。
「これは、知らせる価値があります。御館様も、きっと興味を持たれるでしょう」
名前は、出さなかった。けれど、その一言で、空気がいっそう重くなった。茨木童子の上に、まだ何かが控えている。それも、この鬼女よりもはるかに恐ろしい何かが。
蒼竜が、刀を構え直す。
「待て」
低く、引き止めようとする。けれど、茨木童子は、もう戦う気はないようだった。深追いすればこちらが危うい。それもわかっていた。そのまま霧のように、森の奥へと消えていった。
◇
神域へ戻ってくる是雄を見て、駆け寄った。
是雄の着物は、肩も腕も、裂けて、血で汚れていた。
「是雄! 怪我を……!」
「大丈夫だ」
是雄は、けろりと言った。
「もう塞がってる。ほら」
破れた袖をめくると、そこには、傷の跡すらなかった。あれほど深く裂かれていたはずなのに。
とても複雑な気持ちになった。怪我がないのは嬉しい。けれど、人なら決してこうはならない。
是雄も、少しだけ、黙った。
わたしの顔を見て、自分の腕を見て、何かを考えているようだった。塞がった傷を、もう一度指でなぞる。
「……変な感じだな。痛くねえのは楽なんだけどよ」
「どこまでなら動いていいのか、わかんねえ」
ぽつりと、そう言った。それは、いつものおどけた調子ではなかった。痛くないのは楽だ。傷が塞がるのも、便利かもしれない。
けれど、それは生きている者の体ではない。自分がもうもとの自分ではないこと。それを、是雄もようやく、自覚し始めていた。
何も言えなかった。是雄は、もう自分の痛みさえわからない。
それだけが、胸に引っ掛かった。
是雄は、そんなわたしを見て、ふっと、いつもの顔に戻った。
「まあ、便利でいいだろ。死なねえんだからな」
わざと、軽く言ったのが、わかった。
その夜。
諏訪様が、ひとりで、森を見つめていた。白蛇が、その傍らで空を見上げている。
わたしも、縁側から同じ方を見た。
遠く、山の向こう。
拙い感覚でもわかった。鬼気があった。ひとつではない。いくつも、いくつも。
前に感じたときよりも、明らかに、増えている。
蒼竜が、すっと隣に立った。
「増えているな」
諏訪様が、短く答えた。
「ああ」
夜風が、山から吹き下ろしてくる。その風には、かすかに血の匂いが混じっている気がした。
「始まった」
諏訪様の声は、低く、そして、確かに、何かの始まりを告げていた。
知らなかった。あの茨木童子が御館様と呼んだ者が、誰なのか。山の向こうで膨れ上がる鬼気が、何を意味するのか。
ただ、ひとつだけ、わかっていた。穏やかな日々は、もう終わりかけている。是雄の塞がった傷も増えていく鬼気も、すべてがそう告げていた。




