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第五話 鬼の王

 あの戦いから、数日が過ぎた。


 鬼気は、日ごとに濃くなっていった。今では、はっきりと感じ取れる。

 朝も昼も夜も、山の奥から、冷たい気配が、絶えず流れてくる。肌にまとわりつくような嫌な気配だった。


 諏訪様は、表向きは平静を装っていた。けれど、数が増えた白蛇たちは、片時も気を抜かず神域の周囲を巡っている。蒼竜が、神域を離れる時間も増えた。是雄も村との行き来が、目に見えて多くなった。


 わかったのは、これはただごとではない。

 特訓を始めた頃は、目の前の気配ひとつ、まともに読めなかった。それが今は、山の向こうの鬼気まで感じ取れる。成長したのだと思いたかった。

 けれど、本当は違う。鬼気の方が、未熟でも気づくほどに濃くなっているのだ。そう気づくと、背筋が冷たくなった。


 ある日、村人が一人、神域へ駆け込んできた。


 隣の村が、襲われたという。畑は荒らされ、牛馬は殺され、何人もの怪我人が出た。

 村人は、息を切らし、膝が震えていた。ここまで、休まず走ってきたのだろう。


「今度のは、妖じゃねえ」


 村人は、青い顔で言った。


「鬼です。鬼が、何体も……!」


 今までなら妖だった。けれど、今度は鬼。それも、一体ではなく複数。

 空気が、張りつめた。


 蒼竜と是雄が、出ることになった。わたしも、行きたいと申し出た。蒼竜は、すぐに反対した。是雄は、少し迷っていた。


「危ない。尊を、またああいう目に遭わせるわけにはいかぬ」


 蒼竜の声には、是雄が死んだ夜の記憶が、滲んでいた。あのとき、力を暴走させ、月さえ動かした。

 蒼竜が案じるのも、無理はなかった。

 決めたのは、諏訪様だった。


「連れて行け。ただし前には出すな」


 意外な言葉だった。蒼竜が驚いて諏訪様を見る。


「いつまでも、桜の下に座らせておくわけにもいくまい。吾子も己の力を知らねばならぬ」


 わたしの役目は、後方支援だった。それでも、構わなかった。桜の下で、ただ待っているだけは、もういやだった。


 隣村に着くと、鬼たちは、まだいた。


 下位の鬼なのだろう。一体一体は、それほど強くない。けれど、数が異様に多かった。十、いや、それ以上。まるで誰かがわざと集めたかのように。


 白蛇が、まず動いた。

 するすると地を這い、鬼の足に巻きつく。次の瞬間、ぐしゃり、と鈍い音がして、鬼の骨が砕けた。別の白蛇が、腕に巻きつき、これもへし折る。鬼たちが悲鳴を上げた。


 普段は岩の上で眠っているばかりの蛇が、こうして牙を剥くとまるで別の生き物だった。一匹、また一匹と鬼に絡みつき、締め上げ、地に叩きつける。逃げようとする鬼を尾で薙ぎ払う。


 村人たちは、その光景に震えていた。神の使いの蛇がこれほど恐ろしいものだとは、思っていなかったのだろう。


 わたしも改めて知った。諏訪様の力がいかに恐ろしいものかを。あの方は、ただ気難しいだけの神ではない。本気を出せば、これだけのことが簡単にできるのだ。

 蒼竜が前で斬る。是雄が、その横で殴り蹴り弾き飛ばし、呪を使う。


 後方で、簡単な結界を張り、逃げ遅れた村人をその内側へ入れる。怪我人に布を巻き、止血する。気配を読み、新たな鬼が来る方角を、二人に知らせる。


「東から、三体来ます!」


 わたしの声に、是雄がすぐに向きを変えた。気配がわずかでも二人の動きを助けている。それが、はっきりと感じられた。


 完全な戦力ではない。それでも、何もできない存在ではもうない。わたし自身も、それを確かに感じていた。婆さまのとき、是雄が死んだとき、ただ立ちすくむだけだった。それが、少しずつ変わってきている。


 鬼の討伐は、成功した。けれど、誰も安心しなかった。


 鬼が増えすぎている。これだけの数が、ひとりでに集まるはずがない。諏訪様も蒼竜も、同じことを確信していた。

 誰かが動いている。鬼たちを束ね操る、何者かが。


 神域へ戻ったのは、夕暮れだった。

 桜の神域に、疲れた一行が、帰ってくる。蒼竜も白蛇たちも、戦いの後の重さを引きずっていた。


 けれど、是雄だけは妙に平然としていた。

 あれだけ動いて、あれだけ鬼を相手にしたのに、息ひとつ乱れていない。汗もかかず、傷も負わず、まるで散歩から戻ったような顔をしている。

 人なら休む場面でも、是雄だけは何事もなかったように立っていた。


 蒼竜は、それを見て眉をひそめた。


「是雄」


 呼ばれた本人は振り返る。


「ん?」

「……いや」


 蒼竜は、それ以上何も言わなかった。


 戦いの最中もそうだった。

 傷を負っても、是雄は平然としていた。痛みがないから、自分がどこまで壊れているのかもわからない。


 蒼竜は、その横顔から目を逸らした。


 その夜、桜の下で是雄と二人になった。

 風が若葉を揺らしている。月が静かに湖を照らしていた。

 思いきって、尋ねた。


「辛く、ありませんか?」


 是雄は、最初笑った。いつもの調子で、軽く流そうとする。

 けれど、ふと、口をつぐんだ。少し考えて、空を見上げる。

 そして、ぽつりと言った。


「味しねえのは、嫌だな」


 意外な答えに、言葉を失った。

 もっと、大きな苦しみを、覚悟していた。死んだことや人でなくなったことを、嘆くのだと思っていた。

 それなのに、是雄が口にしたのは、ただ、飯の味がしないという小さなことだった。

 その小ささが、かえって胸に刺さった。是雄はきっともっと深いものを、飲み込んでいる。

 それを口に出さないために、いちばん小さなことだけを選んで言ったのだ。そんな気がした。


「でもな」


 是雄が続け、その横顔を見た。


「飯は味しねえ。痛みもねえ。変な体だ」


 少しだけ、笑う。


「でも、尊さまいるしな」


 それから、指を折るように、続けた。


「諏訪様いるし。蒼竜もいる。案外、悪くねえよ」


 泣かなかった。ただ少しだけ笑った。是雄の言葉に、また救われていた。失ったものを数えるのではなく、まだそこにあるものを数える。

 それが、是雄という男だった。


     ◇


 その頃、深夜の山奥。

 鬼たちが、群れていた。

 数十か、数百か。見渡すかぎり、闇の中に、無数の赤い目がぎらついている。これほどの数の鬼が一所に集まることなど、ありえないはずだった。

 その鬼たちが、ふいにざわめいた。


 そして、次の瞬間、ぴたりと静まり返った。

 鬼たちが、左右へ道を開ける。割れた群れの真ん中に一本の道ができた。


 そこへ、茨木童子が進み出て、静かに跪いた。

 ほかの鬼たちも、いっせいに頭を垂れる。その姿には、恐怖と敬意の両方があった。


 遠くから、足音が聞こえた。一歩。また一歩。


 濃い酒の香りが、漂ってくる。甘く、むせ返るような匂い。

 そして、圧倒的な鬼気が、あたりをずしりと押し包んだ。それまで猛々しかった鬼たちさえその気配の前では、子犬のように身を縮めている。


「御館様――いえ、酒呑童子様」


 茨木童子が頭を下げたまま、そう呼んだ。

 鬼たちが、さらに深く平伏する。

 闇の奥からひとつの影が、ゆっくりと歩み出る。その姿は、まだはっきりとは見えない。背の高い男のようだった。

 けれど、顔は闇に紛れてわからない。ただ、そこに立っているだけで、空気そのものが重くひりついた。


 茨木童子が、顔を上げた。


「神域に、面白いものがおりました。翼ある竜と――もうひとつ」


 影が、わずかに、首を傾けたように見えた。


「銀細工の娘が」


 その言葉に、影が、初めて声を発した。低く酒に濡れたような艶のある声だった。


「銀細工とな」


 その声には、退屈をもてあました者が、ようやく面白い玩具を見つけたような、危うい響きがあった。


 その場にいたすべての鬼が、ただ一人の到来を、迎えていた。

 鬼たちの王が、ついに、動き始めたのだ。

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