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第六話 我が妻に

 夜気が、ふいに重くなった。


 神域の端、桜の影が落ちる地面を踏んで、ひとつの影がこちらへ歩いてくる。


 ゆっくりと。

 まるで、夕暮れの庭でも巡るように。


 その姿を見た瞬間に、息の仕方を忘れた。

 大きいと思った。背丈のことではない。そこに在るというだけで、空気そのものがその者の重みに押し下げられている。圧迫感が、皮膚の上を撫でていく。

 けれど不思議と、濁ってはいなかった。これまで嗅いできた鬼気は、どれも腐臭のように粘ついていた。

 これは違う。澄んでいて、それでいて底が見えない。深い水の上に立たされたような心地がする。

 巨大な獣が、こちらへ向かって歩いてくる。そんな心地がした。

 形は人なのに、内側に在るものの大きさが、まるで釣り合っていない。


 頭ではそう理解する前に、躰が震えていた。本能が、逃げろ、と叫んでいる。けれど足は地面に縫いつけられたように動かない。膝の裏が、小刻みに笑っている。


「――退がってろ」


 蒼竜が、わたしの前へ出た。声は低く、いつもの軽さがない。その背を追うように是雄も進み出る。


「おいらが前だ。尊さまは後ろにいてくれ」


 白蛇が、夜空へ向かって幾筋も伸びあがった。鱗が月光を弾いて、銀の網を編むように展開していく。

 その後ろに立たされたわたし。守られているという事実が、かえって胸を締めつけた。


 影が、足を止めた。

 黒い角が一対。長く伸びた銀の髪。引き締まった裸の上半身には、傷跡が全くない。古い傷跡がいくつも走っていてもおかしくないのに。

 刀は帯びていない……手ぶらだ。それなのに、武器を持った誰よりも危うく見えた。


 その者の目が、まず蒼竜を捉えた。


「竜か」


 ただそれだけ。驚きもしなければ、構えもしない。長く生きた者が、見慣れた獣を路傍に見つけた、というほどの声だった。


 次に、視線が是雄へ滑る。


「妙なものだな」


 死した身で此岸に留まる者を、珍しい石でも眺めるように見て、それきり関心を失う。


 最後に、その目がわたしを射た。

 ほんの少しだけ、何かが動いた気がした。興味、とでも呼ぶべきものが。けれどそれはすぐに底へ沈んで、執着には至らなかった。まだ、と言わんばかりに。


 蒼竜が竜となり、地を蹴った。言葉はなかった。鋭く踏み込み、爪を振りかぶる。

 是雄が呪を唱えながらその死角へ回り、白蛇が左右から鬼の腕へと巻きついた。三方からの、隙のない攻めだった。

 なのに。


 酒呑童子は、笑いもしなかった。


「鬼とは」


 蒼竜の爪が、その肩口を斜めに裂いた。血が闇に散る。


「こういうものだ」


 裂けた肉の縁が、波打つように寄り集まっていく。噴き出していた血が、ふいに止まる。傷が内側から押し閉じられるようにして塞がっていった。痕すら、残らない。


 再生。

 言葉だけは、知っていた。書物の隅に、退治譚の語りの端に、鬼はしぶといという一節としていくつも刻まれていた。

 けれど、目の当たりにするのは初めてだった。文字で読むのと、肉が閉じていく音を耳にするのとは、まるで違う。


 あれを倒すとは、いったいどういうことなのか。


 刃を立てる。骨に届かせる。命の在処を断つ。これまで戦ってきた相手は、すべてその先に死があった。けれど、この鬼にはその先がない。深手を負わせたところで、振り出しへ巻き戻される。傷つけることと倒すことが、初めて切り離されていた。


 わたしの知っている戦いの理が、根こそぎ崩れていく。


「おいおい……」


 是雄が、声を漏らした。呪を組んでいた指が、わずかに止まる。

 蒼竜は、何も言わなかった。ただ、その目だけがいっそう鋭くなった。

 白蛇が、鬼の右腕を締めあげる。骨の砕ける、鈍い音がした。腕は、あらぬ方向へ折れ曲がる。


 それでも、酒呑は表情を変えない。

 折れた骨が、軋みながら元の位置へと戻っていく。砕けたはずの腕が、何事もなかったように持ち上がった。


「もっと来い」


 蒼竜の躰から、竜気が立ちのぼった。鱗のように光が肌を覆い、空気が熱を帯びる。是雄も腰を落とし、呪と体術を一息に束ねた。手にした札が、青白く燃えている。白蛇が一斉に牙を剥いた。


 総攻撃だった。

 幾重もの斬撃と呪が、酒呑の躰へ叩き込まれる。今度こそ、深く抉れた。胸から脇腹にかけて、肉が裂け、骨が覗く。

 けれど、それも。

 塞がっていく。

 ゆっくりと、確実に。


 わたしは悟った。倒せないのではない。倒しても、戻るのだ。

 何度斬ろうと、何度砕こうと、そのたびに元へ巻き戻されていく。終わりがどこにもない。


 考えるより先に、躰が動いていた。気配を読む。これまで戦いの場で、夜の道で、幾度も研いできた感覚。死の匂い、生きた者の熱、その境目を嗅ぎ分ける勘。

 それを、いま、この鬼へ向ける。敵がどこへ重心を移し、次にどの腕を振るうのか――息の吸い方、肩のわずかな傾き、足裏の力の移り。

 そうした断片が糸を手繰るように繋がって、流れになって見えはじめる。


「蒼竜! 右から来る!」


 声が、勝手に飛び出した。

 蒼竜が、わずかに身をひねる。鬼の拳が、ついさっきまでそこにあった躰を掠めて空を打った。


「是雄、後ろ!」


 是雄が振り返りざまに札を放つ。白蛇の動きにも、わたしは目を配った。締める位置を、ほんの少しずらすように念じる。


 攻撃が、通りはじめた。

 わたしが流れを読み、蒼竜と是雄へ渡す。白蛇がその隙へ滑り込む。


 酒呑の眉が、ほんのわずか、動いた。


「なるほど」


 はじめて、感心したような声だった。


「それがお前の力か」


 戦いが、激しさを増した。

 けれど、地力の差は埋まらなかった。酒呑が一度本気で腕を薙ぐと、蒼竜の巨躯が宙へ飛んだ。巨木の幹に叩きつけられ、樹皮が砕け散る。是雄も、別の一撃で吹き飛ばされた。白蛇が間に割り込もうとして、まとめて弾き飛ばされ、夜空へ散る。


 酒呑は、ほぼ無傷だった。


 わたしの読みも、地力の前では細い糸でしかなかった。それでも蒼竜は、地に手をついて立ち上がる。是雄も、よろめきながら身を起こした。


「まだだ」


 もう一度、二人が前へ出る。

 酒呑が、はじめて笑った。口の端を、ほんの少しだけ。


「良い。久しぶりだ。これほど楽しい相手は」


 その声に、奇妙な懐かしさが滲んでいた。そして、その目が、わたしへ戻ってきた。


「だが、面白いのは、お前だな」


 心の臓が、跳ねた。蒼竜の顔色が、変わった。


「姫様から離れろ――!」


 是雄も、何かを察したように動く。けれど、遅い。


 酒呑が、動いた。

 風が裂けた、としか分からなかった。蒼竜が止めに入る。間に合わない。是雄が追う。間に合わない。白蛇が割り込もうとして、ひと薙ぎで弾かれた。


 気づいたときには、酒呑がわたしの前にいた。

 躰が、動かなかった。


 逃げろ、と頭のどこかが叫んでいる。それなのに、足の裏が地面に貼りついて離れない。

 これほど近くで鬼気を浴びるのは初めてだった。澄んでいて、深くて、底がない。その重さに、呼吸ごと押さえつけられている。


 腕を、掴まれる。太い指が手首に食い込む。振り払おうとしても、岩を押すようにびくともしない。

 骨ごと握り潰されそうな力なのに、痛みを与えようとはしていない。それがかえって、恐ろしかった。


 顎に、指がかかった。くいと、上を向かされる。抗えない。首だけがその意のままに動かされていく。

 酒呑が、顔をじっと覗き込んだ。


「離せ!」


 蒼竜の絶叫が、遠くで聞こえる。


「尊さまっ!」


 是雄の声も。

 けれど酒呑は、どちらも歯牙にもかけなかった。


 月の光が、その横顔を白く照らしている。酒呑が、笑った。


「良い娘だ」


 ぞくり、と背筋が冷えた。


「我の妻に、相応しい」


 わたしは、ただ呆然とその目を見上げることしかできなかった。意味が、すぐには頭に入ってこない。

 妻……いまこの鬼は、何と言った。耳が拾った言葉と、それが指すものとがどうしても結びつかない。


 蒼竜が、声にならない声をあげた。激しい怒りが、その全身から噴きあがる。

 地を蹴ろうとして、けれどその一歩が、見えない壁に阻まれたように届かない。

 是雄は、絶句したまま立ち尽くしている。札を握る指が、白くなるほど強く閉じられていた。


 酒呑が、さらに顔を寄せてきた。

 鬼気が、わたしの頬を撫でる。冷たいのか熱いのか、もう分からない。男の匂いが、ふいに濃くなった気がした。

 この鬼のすぐ間近で、いっそう深く立ちこめている。

 わたしの思考は止まった。

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