第一話 鬼の王の最期
酒呑の顔が、目の前にあった。
月光の下で、双眸がわたしの内側まで覗き込もうとしている。鬼の力と、そこに混じる男の匂いが、息のかかる距離まで近づいてくる。逃げることも、声をあげることもできなかった。思考が白く灼けたように止まっている。
次の瞬間。
わたしの手首を掴んでいた腕が、消えた。
そこに在ったはずの太い腕が、肩の付け根から断たれて、闇の彼方へ吹き飛んでいた。
何が起きたのか、わからない。理解が追いつくより先に、視界が一息に流れた。
気づけば、わたしは誰かの腕の中にいた。冷たい。けれど、確かな腕だった。仰ぎ見るまでもなく、それが誰かはわかった。神域そのものが、その者を中心に張り詰めている。
「諏訪様……」
諏訪様は、怒鳴らなかった。表情もほとんど動かさない。ただ、酒呑をまっすぐに見据えていた。
虫の声が止まり、湖面のさざ波まで、息をひそめたように見えた。
白蛇たちが、一斉に地へ伏せる。あれほど荒れ狂っていた蛇の群れが、頭を垂れて動かなくなった。
蒼竜が、息を呑む。
是雄も、立ち尽くしたまま諏訪様を見ている。
諏訪様が動いた、ただそれだけのことに、二人とも言葉を失っていた。
諏訪様が、短く言った。
「吾子に触れたな」
それだけだった。
声を荒らげもしない。脅しもしない。
酒呑は、飛ばされた自分の腕の方へ目をやった。断たれた肩から、血が流れている。当然のように、再生を待つ顔をしていた。
だが――戻らない。
肉は寄り集まらず、傷口は閉じない。血だけが、とろとろと流れ落ちていく。砕けても折れても何事もなく繋がっていた躰が、いまは、ただ欠けたまま晒されている。
あの再生を、この目で見ていた。蒼竜の爪も、白蛇の牙も、すべて巻き戻してきた力を。それが止まった。
酒呑の表情に走ったのは、驚愕ではなかった。
理解だった。
彼は、何が起きたのかを正しく悟った顔をして、それから、笑みを深めた。
「なるほど」
血の滴る肩を、面白そうに見やる。
「神の呪いか」
恐れは欠片もなかった。片腕を失い、再生を封じられてなお、酒呑は鬼王のままそこに立っていた。状況の不利を、むしろ楽しんでいるようですらある。
そのときだった。ふいに、何かが揺らいだ。
諏訪様の背後。巨大な白蛇。
そう見えた。
湖よりも大きく、山を幾重にも巻きつけるほど長い躰。月を隠すほどの巨体が、静かに鎌首をもたげている。
息を呑んだ。瞬きをする。
次の瞬間には消えていた。見間違いだったのかもしれない。
けれど、酒呑だけは、その先を見ていた。鬼王の目が、初めて諏訪様へ向く。
けれど、流れは変わった。
諏訪様の腕が、わたしをそっと後方へ押しやる。
「下がっておれ」
そして、それきり諏訪様は動かなかった。腕を断ったのは、ただ一度。わたしを掴んだ手を払うための、一度きりの介入。あとは、見届けるつもりなのだとわかった。これは、わたしたちの戦いだ。
蒼竜が、咆哮した。
いつもの冷静さは、もうどこにもなかった。酒呑がわたしに触れた、その一事への怒りで、竜気が荒れ狂っている。鱗の光が膨れあがり、桜の枝が風に煽られて鳴いた。是雄も、札を握り直して前へ出る。
「おいらの主に、よくも」
地へ伏せていた白蛇たちが、諏訪様の怒りを受け取ったように、一斉に身を起こした。牙を剥き、酒呑へと殺到していく。
後方へ下がりながら、それでも目を逸らさなかった。
崩れた重心。漏れ出す鬼気。
酒呑が次にどこへ動くのか、手に取るようにわかった。
あのときは届かなかった糸が、いまは確かに、敵の躰へと繋がっている。
「蒼竜、左が遅れています」
声が、迷いなく飛んだ。
蒼竜が、その読みに乗る。酒呑の崩れた左へ、爪が深く斬り込んだ。鬼気の漏れた箇所を、狙い違わず抉る。
「是雄、今です」
是雄が、開いた隙へ呪を叩き込む。札の炎が、酒呑の胸で爆ぜた。白蛇が、その足へ幾重にも巻きついて、地へ縫いとめる。
四方からの連携が、今度は届いた。
どれほど合わせても通らなかった攻めが、いま、確かに肉を裂いている。片腕と再生を失った鬼王へ、わたしたちの刃が、ようやく食い込みはじめた。
わたしの声が飛ぶたび、攻めが噛み合っていく。
酒呑は、深手を負った。
胸から脇腹にかけて裂かれ、足を絡め取られ、それでも、笑っていた。
「良い」
血を流しながら、満足げに目を細める。
「実に、良い」
片腕を失ってなお、鬼王としての余裕は崩さない。けれど、再生しない傷口から流れ落ちる血は止まらない。立っているはずなのに、その姿が少しずつ遠のいていくようだった。
蒼竜が、竜気を一点へ凝らした。全身の光が、爪の先へ集まっていく。荒れていた竜気が、いまは一筋の刃のように研ぎ澄まされていた。そして、地を蹴った。
竜気を込めた一撃が、酒呑の躰を斜めに裂いた。
その傷口へ、是雄の呪が打ち込まれる。白蛇が締めあげ、逃げ道のことごとくを塞いだ。酒呑の力が、内側から崩れていく。あれほど揺るぎなかった巨躯が、ぐらりと傾いだ。力を保っていた最後の芯が、断たれたのがわかった。
酒呑が、膝をついた。
蒼竜が、長く息を吐く。竜気を解き、肩を上下させている。
是雄も、札を握る手を下ろし、地に座り込みそうになった。
終わったのだと思いかけた。張り詰めていたものが、ほどけそうになる。膝の震えがようやく止まる気がした。
けれど。
酒呑は、空を見上げていた。
負けた者の顔ではなかった。膝をつき、躰を崩しながら、どこか満足げに笑っている。何かを待ち望んでいたものがようやく訪れた。
そんな顔をしていた。自らの死すら、もっと大きな何かの前触れにすぎないとでもいうように。
「なるほど」
血の混じった声で、酒呑が呟く。
「そういうことか」
意味がわからなかった。何を悟ったのか。膝をついた鬼王の目が、どうしてこれほど穏やかなのか。倒したはずのこちらが、なぜか、置き去りにされたような気がした。
蒼竜が、警戒の構えを解かない。倒れかけた酒呑にではなく、その先にある何かに備えるように、爪を構え直す。諏訪様だけが、わずかに眉を動かした。何かを察したように。
酒呑が、低く言った。
「来るぞ」
その瞬間。
空が、鳴った。
雷鳴が夜を引き裂く。暴風が神域を薙ぎ、木々の葉が一斉に散った。夜空に亀裂が走る。雲が裂け、神域そのものが軋みをあげて揺れた。
鬼気ではなく、妖気でもない。
圧倒的な、神気だった。
ただ純粋に、烈しい。
酒呑の圧すら地を這う獣のものでしかなかった。
立っていられなかった。膝が砕け、地に手をつく。息を吸うことさえ、許しを乞うように躰が縮こまる。
月の匂いが、いまや嵐のように濃く、頭上から降りそそいでくる。
あの夜から幾度も嗅いできた、正体の知れぬ香り。
あれは、この神気の残り香だったのか。酒呑が嗅ぎつけ、裡にも染みついていた、あの匂いの本体が、いま空の向こうから降りてこようとしている。
蒼竜が硬直していた。竜気を荒らしていたあの蒼竜が爪を下ろし、身じろぎひとつできずにいる。
是雄も、息を呑んだまま動けない。札を握る指が、かたかたと震えていた。
そして諏訪様が、露骨に舌打ちをした。空の裂け目から、何かが降りてくる。
姿は、まだ見えない。ただ、神気だけが先に落ちてくる。重く、烈しく、抗いようもなく。
諏訪様が、低く呟いた。
「面倒な奴が来た」




