第二話 降臨
空の裂け目から、それは降りてきた。
まず、足が見えた。次いで、ゆるく結ばれた帯。剥き出しの肩。乱れた長い髪。手には長大な太刀を提げている。姿そのものは、人のかたちをしていた。
けれど、躰はそれを人だと認めることを拒んでいた。
酒呑にも圧はあった。澄んでいて、底の見えない、恐ろしい気配が。
けれど、これは違う。酒呑は、恐ろしかった。
この御方は、ただ重い。
存在しているというだけで、恐怖を覚えるより先に、ひれ伏したくなるような重みだった。
月の匂いが濃い。息をするたび肺の奥まで満ちてくる。
わたしの隣で、蒼竜の様子が、変わった。
怒りだけでも、恐怖だけでもなかった。そのすべてが、いちどに噴き出していた。喉の奥から、声にならない音が漏れている。爪を握り込んだ手が、震えていた。
「尊さま、下がってろ」
是雄が、咄嗟にわたしの前へ出た。蒼竜も、われに返ったように、わたしを庇う位置へ立つ。
守られながら、降り立った神を見上げることしかできなかった。
その神が、ゆっくりと地へ降り立つ。
膝をついた酒呑が、その姿を見上げた。
倒されかけ、片腕を失い、鬼気を漏らしながら、それでも酒呑は、笑っていた。何かを確かめるように、神と、わたしと、それから自分の流した血とを、順に見比べている。
「なるほど……そういうことか」
血の混じった声が、低く転がった。
何がと問う暇もなかった。酒呑は答えを言わなかった。
ただ、すべてが繋がったとでもいうように、満足げに目を細めただけだった。
最後に、酒呑の目が、わたしへ向いた。
「良い夢を見た」
鬼王は、そう言って笑った。惨めさは欠片もなかった。
神が、太刀を振った。
斬る、という動きですらなかった。ただ神気が膨れ、酒呑の躰が内側から白く灼かれていく。鬼気が霧散し、輪郭が崩れ、ほどけていく。それでも酒呑は、最後まで膝を折らなかった。笑みを浮かべたまま、消えた。
鬼王の最期だった。
神域に、静けさが戻る。
けれど、それは安らぎではなかった。降り立った神の重みが、すべてを押し黙らせているだけだった。
その神の視線が、ゆっくりと、蒼竜へ向いた。
「まだ生きていたか」
たった、それだけの言葉だった。
その瞬間、蒼竜の中で、何かが弾けた。
「貴様……っ」
声が、震えていた。怒りで、ではない。もっと深い底のない感情で。喉が詰まり、続く言葉が出てこない。
「貴様が、姫様を――」
そこで、声が割れた。それ以上は、言葉にならなかった。
「違うな」
神は、表情ひとつ動かさなかった。
「境界を破ったのは、貴様だ」
蒼竜が、地を蹴ろうとした。その背を、是雄が腕を伸ばして遮る。
「待て、待てって」
是雄が、二人の間へ割り込んだ。
「話がまるで見えねぇ。蒼竜、お前、落ち着け。今のお前じゃ話にならねぇ」
蒼竜は、答えなかった。荒い息だけが、夜気を裂いている。歯を食いしばり、神を睨みつけたまま肩が大きく上下していた。是雄は舌打ちひとつして、今度は神の方へ向き直った。
「なら、あんたに訊く。依月様を追ってたのは、あんたか」
神の目が、わずかに是雄を捉えた。
「そうだ」
あっさりと、肯定が返った。
「何でだ。何で姫を追った」
「天照大神の命だ」
「天照……」
「竜と姫は、葦原の生まれではない。高天原の生まれでもない」
神が、蒼竜を顎で示した。
「あれらの故郷は、さらに向こうだ。境界の外の外。あの姫はまず故郷と高天原の境界を破って、高天原へ渡った。竜が運んだのだ」
「故郷から……高天原へ」
「それが、一度目だ」
「一度目って」
是雄の眉が、寄った。
「二度、あるってのか」
「ある」
神は、わずかに肩をすくめた。
「高天原に、姫の居場所はなかった。よそ者だ。天津神は、境界を越えてきた者を好まぬ。やがて姫は、また逃げた。高天原と葦原の境界を破って、この地へ降りた。それが、二度目だ。竜がまた運んだ」
「……二度、境界を破ったってことか」
「そうだ」
神が、低く言った。
「一度ならば見逃しもしよう。だが、二度は捨て置けぬ。境界を破る者を放てば、天地の理が緩む。天照大神はそれを恐れられた。だから、追えと命じられた」
「追ったのが、あんたか」
「俺だ」
神は、面倒そうに目を細めた。
「言っておくが、俺は乗り気ではなかった。竜が一頭と姫が一人、境界を越えたとて、天が傾くわけでもあるまい。だが、命は命だ。神には神の果たさねばならぬ役目がある」
是雄が、蒼竜を振り返った。
「なあ。なら、何で逃げた。追われるとわかってて、何で二度も境界を破った」
蒼竜は、答えなかった。
いや、答えられなかったのだ。激しい息の下で、唇だけが動いている。やがて、絞り出すように、それだけを吐いた。
「姫様が……望まれた」
「それだけで――」
「黙れ」
蒼竜の声が、是雄を遮った。
「貴様らに、何がわかる」
それきり蒼竜は口を噤んだ。語る余裕などもうどこにもなかった。怒りと哀しみと後悔とが、ない交ぜになって、その躰の中で暴れている。説明する代わりに、ただ拳を握りしめ、神を睨み据えていた。
是雄が舌打ちをして、神へ視線を戻す。
「おい。なら、あんたが言え。何で、竜は姫を連れて逃げ続けた」
神はしばし黙したのち、わずかに目を伏せた。
「姫は故郷も高天原も好かなかった。少なくとも俺にはそう見えた。竜は姫を運んだ」
「……それで、二度も境界を破ったってのか」
「竜にとっては、それで十分だったのだろう」
神が、蒼竜を見やった。
「姫が初めて笑った。それを見られたなら、追われる身になることなど、安いものだったのだ。違うか、竜」
蒼竜は、答えなかった。ただ彼は顔を背けた。肯定も否定もしないことが、何よりの答えだった。
わたしは、そのやりとりを聞いた瞬間。
頬を、涙が伝っていた。
なぜ、と思う暇もなかった。理由など、どこにもないはずだった。蒼竜の過去も、依月という姫のことも、わたしには何ひとつ知らない。
それなのに、涙が、止まらない。
「吾子、どうした」
諏訪様の声が、背後でした。
わたしは頬を拭おうとして、できなかった。
「……わかりません」
声が、掠れる。
「わかりません。涙が、止まらないんです」
胸の奥が痛かった。理由だけが、わからなかった。
その時。
蒼竜が、動いた。
限界だったのだろう。故郷も、依月も、逃亡も、追跡も、いま目の前にいる神への憎しみも、そして泣いているわたしのことも。
すべてが、いちどに噴き出した。
竜気が、暴走した。
抑えていたものが、堰を切る。神域の地が裂け、木々が根こそぎ吹き飛ぶ。蒼竜の輪郭が膨れあがり、人のかたちが崩れて、巨大な竜の影がそこへ立った。
背に翼があった。閉じていた翼が、いま、怒りのままに大きく開かれている。
「やめろ、蒼竜!」
是雄の声も、届かなかった。
蒼竜が、神へ向かって突進する。竜気のすべてを乗せた、捨て身の一撃だった。
けれど。
戦いには、ならなかった。
神は、本気を出しさえしなかった。ただ、片手を軽く払っただけだった。
それだけで、蒼竜の巨躯が、宙へ吹き飛んだ。
巨樹の幹を何本もへし折りながら、地へ叩きつけられる。竜気が散り、輪郭がほどけ、人のかたちへと戻っていく。蒼竜はもう動かなかった。気を失っていた。
完全な、敗北だった。
酒呑と渡り合った蒼竜が、神の手のひと払いで沈んだ。神格というものの差を、骨の髄で思い知らされていた。
神域に、静寂が落ちる。
神は、倒れた蒼竜を、一瞥した。
「騒がしかったな」
そして、太刀を提げ直した。本来の役目を、果たすつもりなのだ。蒼竜を連れ去るのか、ここで葬るのか。いずれにせよ、わたしたちにそれを止める力はない。
その時。
諏訪様が、前へ出た。
わたしを庇っていた腕を解き、ゆっくりと、神と向かい合う位置へ歩み出る。
神の視線が、初めて、諏訪様を正面から捉えた。
神域の空気が、変わった。
空気が、重く淀んだ。諏訪様と神の間に、何か目に見えない気配がせめぎ合っているような気がした。
ここから先は、もう、蒼竜と神の話ではない。
神と神の話だ。
諏訪様が、低く言った。
「久しいな」
神は片頬をわずかに歪めた。笑っているのか、苛立っているのか、よくわからない表情だった。
「まったくだ」
二柱が、向かい合う。
月光の下、神域の空気が、軋みをあげていた。




