第三話 神と神
神域は、静まり返っていた。
蒼竜は吹き飛ばされ、離れた山の麓で倒れたままである。是雄も、白蛇たちも、誰ひとり動けない。動こうとした端から、空気の重みに押さえつけられて、息をするのがやっとだった。
その中で、二柱だけが、平然と立っていた。
諏訪様と、降り立った神。
ただ、その向かい合う姿を見ていることしかできなかった。隣では、是雄が胃のあたりをさすっている。何が起きているのか、是雄にも、まだ呑み込めていないのだろう。
けれど、これから碌でもないことが起こる、という予感だけは、はっきりとその顔に出ていた。
短い沈黙が落ちた。互いの気配を、もう一度測り直すような間だった。やがて、神の方が、わずかに口の端を上げた。
「相変わらずだな、建御名方」
「貴様もな、須佐之男命」
何かがかちりと噛み合った。
建御名方。
須佐之男命。
書物の中でしか知らぬ名だった。前世のまだ人として生きていた頃に、幾度も目にした名。神代の物語に、確かに在った名だ。
国譲りで天津神に抗い、この地へ退いた神。それが建御名方神。
そして、八岐大蛇を斬った荒ぶる神、須佐之男命。
二柱とも、語りの中の存在だと、思っていた。遠い昔に在って、もう人の世には関わらぬものだと。
それが、いま、目の前で、生々しく呼び交わしている。諏訪様がただの土地神ではなかったこと。それを、いまさらのように思い知った。
「は……?」
是雄が、間の抜けた声を漏らした。
声が出なかった。神話の中の神が、二柱、すぐそこで睨み合っている。
守られている側のわたしたちは、もう、舞台の隅の塵のようなものだった。これほどの御方に、吾子と呼ばれ守られていたのか。膝がいっそう震えた。
須佐之男命が、ゆっくりと、周囲を見回した。
夜空に銀の鱗を連ねる白蛇の群れ。咲き乱れる桜。神気の張り巡らされた神域。そして、その中心近くに立つ、わたし。ひとつひとつを、値踏みするように、確かめていく。
「相変わらず、囲うのが好きらしいな」
「何の話だ」
「何人目だ」
諏訪様の眉が、わずかに動いた。不機嫌の色が、滲む。
「吾子しかおらぬ」
「そうか」
「そうだ」
わたしには、何の話か、まるでわからなかった。何人目、とは。囲う、とは。
けれど、是雄が、隣で小さく息を呑んだのが伝わってきた。その横顔には、絶対に何かある。これ以上ないほどはっきり書いてあった。
聞いてはいけない気がして、口を噤んだ。是雄も、何かを言いかけて、唾を呑み込み、結局、黙った。触れれば藪蛇になる、と判じた顔だった。
須佐之男命の視線が、こちらへ向いた。
居心地が、悪かった。蛇に睨まれた、というのとも違う。骨の内側まで透かし見られて、品定めされているような、そんな心地だった。
「妙なものを拾ったな」
「吾子だ」
「そういう話ではない」
諏訪様は、答えなかった。けれど、その沈黙が、かえって不機嫌そうだった。
須佐之男命は、なおも、わたしの周囲を見ている。いや、見ているのではない。嗅いでいるのだ。匂いを。気配を。
わたし自身にも見えぬ、取り巻く何かを。月の匂い。神気の名残。それから、もっと別の何か。その目がゆっくりと細められていく。
見られているだけで、躰の芯が冷えていくのを感じた。この神の目には、どう映っているのだろう。一人の人ではなく、何かの器としてか。あるいは、誰かの面影を重ねた何かとして、見られている気がしてならなかった。
「面倒なことに、なっているな」
「貴様には、関係あるまい」
「関係が無いなら、帰っている」
背筋が、ぞくりとした。
この神は、何かを知っている。
けれど、それを口にはしない。ただ、面倒だとだけ言って、目を逸らした。語らぬことがかえってその異常の大きさを物語っていた。
その時。
是雄が、とうとう耐えきれなくなった。
「おい」
一歩、前へ出る。胃のあたりを押さえながら。
「だから、何なんだよ。さっきから、二人だけでわかったような顔しやがって。わかるように、話せ」
「嫌だ」
須佐之男命が、即答した。
「嫌だじゃねぇ!」
是雄が、声を裏返した。
思わず、こくりと頷いていた。是雄の言う通りだ、と思った。置いていかれているのは、いつもわたしたちの方だった。
「同感だ」
諏訪様まで、低く言った。
須佐之男命が、面倒そうにこちらを一瞥する。
「なら、聞くな」
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。是雄が、がっくりと肩を落としている。神同士の応酬に挟まれて、すり減っているのはいつだって是雄だった。
けれど、緩んだのは、束の間だった。
須佐之男命の視線が、倒れている蒼竜へと向いた。
ぴくりとも動かない。気を失ったまま、巨樹の根本に横たわっている。
「連れて帰るつもりだったが」
「無理だな」
「だろうな」
須佐之男命は倒れた蒼竜を見た。
「だからといって、放置もできん」
「知らぬな」
須佐之男命の目が細まる。
「建御名方」
「何だ」
「退け」
「断る」
たった四言の、応酬だった。
けれど、その一言ごとに、空気が軋んでいく。神域の地が震えはじめた。足の裏から、地鳴りのような振動が這い上がってくる。
遠くで、湖の水面が波立つ気配がする。桜の花びらが行き場を失ったように宙を舞っていた。一枚も地に落ちられずにいる。それほどの圧が、四方から渦を巻いていた。
「天照大神の命だ」
「知ったことか。吾子の方が大事だ」
諏訪様が、即座に返した。
迷いの欠片もない、即答だった。天津神の長の命と、天秤にかけることすらせずに。
是雄が、隣で声にならない声をあげた。言いやがった、とでも言いたげな顔だった。胸の奥が奇妙に熱くなった。
あの冷たい諏訪様が。めったに情を表に出さぬあの御方が、神の命よりも、わたしを取った。
嬉しいというより先に、恐ろしかった。わたし一人のために、神同士の戦が起ころうとしている。その重さが、肩に圧しかかってくる。
「相変わらずだな」
「貴様ほどではない」
ここから先は、もう言葉の応酬ではなかった。
須佐之男命の神気が膨れあがる。荒ぶる神の名にふさわしく、烈しく容赦のない圧が、神域を満たしていく。嵐そのものが、人の形をとって立っているようだった。
応じるように、諏訪様の神気も、立ちのぼった。静かで、けれど底知れぬ重み。冷たい水が際限なく深みを増していくような気配だった。
白蛇が震えている。あれほど猛々しかった群れが、地に伏せたまま鱗を鳴らして怯えていた。木々が根こそぎ揺れている。湖がざわめいている。神域そのものが、二柱の気配に挟まれて、悲鳴をあげていた。
是雄が、傍らでひきつった顔をしていた。胃のあたりを押さえ、口の中で、やばい、やばい、と繰り返している。逃げ出したいのに、足が動かないのだ。わたしも、同じだった。
酒呑など、比べ物にならない。あれほど恐ろしかった鬼王の圧すら、いまのこの二柱の前では児戯に等しい。
もし、ここでこの二柱が本気でぶつかったなら。
この神域は、わたしたちごと、消し飛ぶ。
倒れている蒼竜も、震える白蛇も、胃を押さえる是雄も、そしてわたしも。何ひとつ、残らない。そういう次元の話に、なっている。
「やるか」
須佐之男命が、笑った。獰猛な戦そのものを楽しむような笑みだった。
「望むところだ」
諏訪様が応じた。声に迷いはなかった。
二柱の神気が、限界まで膨れあがる。触れ合えば、その瞬間に弾ける。そんな、ぎりぎりの一点まで、張り詰めていく。空気が、悲鳴すら立てられなくなっていた。
わたしは、地に手をついたまま、息を止めることしかできなかった。
月光の下で、二柱の神が、ついに――




