第四話 鎮まりなさい
須佐之男命と諏訪様は、無言で睨み合っていた。
言葉はもうすでにない。神域に静寂が落ちる。
けれど、それは凪ではなかった。嵐の前の張り詰めた静けさだった。互いに退く気がないこと。ただ、それだけが夜気を通して伝わってくる。
先に動いたのは、須佐之男命だった。荒ぶる神が、神威を解き放った。
風が逆巻いた。地を這っていた空気が、ふいに渦を巻いて、天へと吸い上げられていく。頭上で、雲がぐるりと旋回しはじめた。遠くで雷鳴が低く轟く。
山々が、地の底から震えはじめた。須佐之男命は、ただ立っているだけだった。それなのに世界そのものが、その者の機嫌を窺うように、ざわめいている。荒ぶる神という古い呼び名が、嘘でないことを、思い知らされた。
諏訪様が、わたしを一瞥した。
何も言わなかった。けれど、その一瞥だけですべてが伝わった。吾子に指一本触れさせはせぬ。
冷たいその目の奥に、揺るぎのない覚悟が据わっていた。
そして、諏訪様も、神威を解いた。
その瞳が変わる。人のかたちをしていた黒い眼が、縦に裂けて、蛇のそれになった。首筋に白銀の鱗が、ひとつ、またひとつと浮かびあがってくる。月光を弾いて冷たく光る鱗だった。普段の静かでどこか気だるげな気配が、跡形もなく消えていく。代わりに立ちのぼるのは、底の知れない太古の威だった。
神域の湖が、大きく波打った。
水面が盛りあがる。そして、割れた。湖の底から、巨大な何かが、ゆっくりと身を起こしていく。白銀の蛇の神体だった。とぐろの一巻きだけで、国の半ばを覆うほどの途方もない大きさ。鱗の一枚一枚が、月の光を撥ね返して、夜の中に銀の山を築いている。それが、諏訪様の背後に、守護のようにそびえ立った。
神域中の白蛇が、いっせいに地へ伏せる。主の本体を前にひれ伏しているのだ。
わたしは、息を呑んだ。是雄も声を失っている。
これが、諏訪様。建御名方神の真の姿。
酒呑童子の圧など、もう比べ物にならなかった。あれが地を這う獣の恐ろしさなら、これは天地そのものの重みだった。
神域が、姿を変えていく。二柱の神を受け止める器へと、作り変えられていく。
須佐之男命が、笑った。
好敵手を前にした、獰猛な笑みだった。
「来い」
諏訪様が、応じた。
二柱が、同時に一歩を踏み出す。
その瞬間。
神威と神威が、真正面から激突した。
轟音という言葉では、足りなかった。音ですらない巨大な衝撃が、世界を殴りつけた。耳ではなく躰そのものを、内側から打ちのめしてくる圧だった。
地面が割れる。足元から、亀裂が幾筋も枝分かれして走っていく。湖面が爆ぜた。水が天を衝くほどに噴き上がり、砕け散る。遠くの山肌が、音を立てて崩れていくのが見えた。木々が根こそぎ、夜空へと舞いあがる。
荒ぶる風と、底なしの水。
相反する神威が噛み合うたび、神域そのものが悲鳴を上げた。
白蛇たちは、完全に伏せきっている。鱗を鳴らしてただ怯えていた。
是雄が吹き飛ばされそうになりながら、地に爪を立てて必死に耐えている。その躰が、衝撃のたびに地を擦って後ろへ滑っていった。
「尊さま、伏せろ!」
是雄の声も轟きに呑まれて、千切れた。もう立っていられなかった。地に手をつき、頭を低くして、ただ衝撃をやり過ごすことしかできない。
砂と、千切れた葉と、湖の飛沫とが、頬を打っていく。目を開けていられない。
これが、ぶつかり合いのほんの余波だった。直接力が触れ合っている場所では、いったい何が起きているのか、想像すらできない。
世界そのものが、悲鳴をあげるように軋んでいた。
このままでは、人の世――葦原さえ巻きこむ。
神同士の本気とは、こういうものなのだ。人の世界では到底受け止めきれない。土地が、空が、世界の縁が、二柱の力に軋み、いまにも裂けそうになっている。
これは、わたしたちのいる場所で、起こしていい類の戦いではなかった。鬼の群れも、酒呑童子も、いまにして思えば、まだ人の世の災いだった。
けれど、これは違う。次元が違う。
わたしは、必死に、頭を上げた。
白銀の巨躯が動くたびに、地が裂け、風が逆巻く。須佐之男命は、ただ一人で、その蛇体と真っ向から渡り合っている。一歩も退かずに。
須佐之男命が、神威をさらに高めた。最後の一撃を放とうとしている。荒ぶる神気が、刃のように研ぎ澄まされ、諏訪様へと向けられる。空気が、その一点へと吸い寄せられて、ぎりぎりと巻きあがっていった。
諏訪様も、白銀の神体ごとそれを迎え撃とうとした。蛇体が鎌首をもたげ、神域の空気が、極限まで張り詰めていく。湖の残りの水が、すべて、その身へと巻きついていく。
両者とも、止まる気はなかった。
この一合で、すべてが決する。
その余波で、わたしたちも、神域も、葦原も、まとめて消し飛ぶ。
はっきりわかってしまった。
わたしはかろうじて地面に手をついていた。
息ができない。神気の重みに肺が潰されそうだった。考える余裕など、どこにもなかった。
ただ、ひとつだけ。
駄目だ。その思いだけが湧きあがった。
なぜ駄目なのか。何が駄目なのか。わからない。理由も理屈も何ひとつ、ない。
それでも、止めなければならない。躰の芯が、そう叫んでいた。
そして――口から、自然に言葉が零れた。
「鎮まりなさい」
叫びではなかった。掠れて小さくて、轟音の中へ消えてもおかしくない、そんな声。
けれど――世界が止まった。
須佐之男命が、止まる。諏訪様が、止まる。白銀の蛇体が、鎌首をもたげたまま、静止した。
逆巻いていた風が止む。爆ぜていた湖が凪ぐ。宙を舞っていた葉が空中で、ぴたりと動きを止めた。一枚、また一枚と、見えない糸に縫いとめられたように、落ちることをやめている。
異様な、静寂だった。
あれほどの轟きが嘘のように、何ひとつ音を立てなくなる。自分の鼓動さえ、聞こえそうなほどだった。
たったいままで世界を引き裂いていた力が、まるで初めから無かったかのように、消えている。
須佐之男命が頭をふり、諏訪様を睨む。けれど、何も起きない。
「……何だ」
その顔から、初めて余裕が消えた。
「神気が……動かぬ」
諏訪様が、蛇の眼でわたしを見た。
「吾子……」
是雄も、地に伏せたまま、掠れた声を漏らす。
「尊さま……神様が、止まった……」
わたし自身が、いちばん理解できていなかった。
声が勝手に出た。ただ、それだけだ。それなのに、神すらもその一言で、縛られている。喉の奥に自分のものでない、何かの気配だけが、わずかに残っていた。
◇
静寂の中。
神域が、ゆっくりと明るくなりはじめた。
誰も神威を放ってはいない。二柱とも、止まったままだ。それなのに。
月明かりだけが、強くなっていく。
湖面が、銀色へと染まる。静止した桜の花びらが、白く照らされる。地に伏せた白蛇たちの鱗が、淡く輝きはじめた。光はどこからともなく、神域の隅々まで満ちていく。
須佐之男命だけが、その異変に気づいた。
ゆっくりと、空を見上げる。
「馬鹿な」
「何だ」
諏訪様が、つられて、見上げた。
わたしも、是雄も、空へ目をやる。
月――異様に、巨大化していた。
以前の異常など、比べ物にならない。輪郭がぐにゃりと揺れ、光が脈打っている。そして、確実に近づいていた。
夜空の高みにあったはずのそれが、いまや、見上げる首が痛むほどの大きさで、頭上に迫っている。表面の陰影までもがはっきりと見て取れた。それほどに近い。
落下が、加速していた。
あれが落ちれば、神域も山も湖も、何ひとつ残らない。胸の奥が、警鐘のように、激しく軋んだ。二柱の戦いさえ、頭から消えた。
月が、すべてを呑み込もうとしている。
須佐之男命だけが、事情を察したように、目を細めた。
「……来たか」
「何がだ」
諏訪様が、問う。
「面倒な奴だ」
須佐之男命は、それ以上、何も説明しなかった。
月光が、急激に強まっていく。やがて、巨大化した月から、一本の銀光が、神域へと降りはじめた。
静かに真っ直ぐに。烈しさはないのに、誰ひとり目を逸らすことができない。
二柱とも、戦う気配を完全に消していた。互いへの敵意よりもいま頭上に迫る危機の方が、遥かに重い。
神すらも、見上げて立ち尽くすしかない。空から、何かが降りてこようとしている。須佐之男命が、諏訪様が、武器を下ろして、ただ空を仰いでいる。それが、何より、事の重さを物語っていた。
銀光が、地へ届いた。
触れた瞬間、燐光が波紋のように広がっていく。空気そのものが、息を潜めるように震えた。
その中心に、ゆっくりと、人影が、現れはじめた。




