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第五話 月読尊

 銀光の中から、神が完全に姿を現した。


 黒と灰を基調とした静かな装束だった。神々しい。けれど、派手ではない。須佐之男命のような剥き出しの威も、諏訪様のような知れぬ重みもない。

 神威を、誇示しようとしていなかった。


 それなのに。

 その神が立っているだけで、神域の空気が変わった。

 荒れ狂っていた気配が、ふっと和らぐ。張り詰めていたものが、静かに整えられていく。深夜の底に沈むような静けさに似ていた。

 怯えて伏せていた白蛇たちがわずかに、頭を上げる。鱗の震えが止まっていた。


 その神の前では暴れることが、無作法に思えるのだ。荒ぶることそのものが、場違いになる。そういう種類の静けさだった。


「……来たか、兄者」


 須佐之男命だけが、低く呟いた。

 須佐之男命の兄。天照大神、月読尊、須佐之男命――三貴子さんきしの名を、どこかで読んだ覚えがある。

 神が、三柱。驚くことさえ、もう追いつかなかった。


 月読尊がまず見上げたのは、月だった。

 巨大化し、なお落下を続ける月を、静かに見つめる。咎めるでも、慌てるでもない。ただ、現状を目に焼きつけるような眼差しだった。


「……ここまで、進んでいたか」


 それだけを、漏らした。


 この神は世界を見る。誰よりも先に、空を、月を、世界の在りようを見ている。


 月読尊が、周囲を一瞥した。

 崩れた神域。静止した二柱の神。山の麓で倒れている蒼竜。地に伏せた白蛇たち。へたり込んだ是雄。そして、わたし。

 ひとつひとつへ、視線を当てていく。


 質問はしなかった。説明も求めなかった。ただ、数瞬、見ただけだった。それだけで、ここで何が起きたのか、すべてを理解したようだった。


「なるほど」


 その一言だけ。

 世界の理を、一目で読み解く。そういう神なのだと、その短い言葉が物語っていた。誰が悪いのか、何が起きたのか、これから何をすべきか。

 問い質す時間さえ惜しむように。


 それから、月読尊は須佐之男命を見た。

 静かな声だった。


「須佐之男」

「奴が――」


 須佐之男命が、言いかける。


「理由にならぬ」


 月読尊がそれを遮った。声を荒らげはしない。けれど、有無を言わせぬ響きがあった。


「葦原へ、影響が及んでいる」


 須佐之男命が黙った。

 初めて見た。荒ぶる神が押し黙る姿を。何にも動じず、神威をぶつけ合うことすら楽しんでいた、あの須佐之男命が。

 月読尊の前では、ほんの少しの弁解も許されていなかった。叱責というには、あまりに静かだった。

 けれど、その静けさの方が、どんな怒声よりも重い。須佐之男命の太い指が、ばつが悪そうに太刀の柄を握り直した。


 力で押されているのではない。理で押されているのだ。荒ぶる神ですら、世界の理の前では頭を垂れるしかない。


 続いて、月読尊の目が諏訪様へと向く。


「建御名方」

「吾子を、守るためだった」


 短くそれだけを返す。蛇の眼が、月読尊を、静かに見据えていた。


「理解はする」


 月読尊が、わずかに間を置いた。


「だが、許されぬ」


 責めてはいなかった。事情は汲んでいる。それでも、世界を危険に晒した事実は変わらない。

 情と理とをきちんと分けて、なお理を取る。その公平さが、かえって、抗いがたかった。諏訪様も、それ以上は何も言わなかった。


 神域が、静まり返る。

 わたしだけが、何ひとつ呑み込めずにいた。


「あの……」


 気づけば、声を出していた。


「何が、起きているのですか」


 是雄も、地に手をついたまま、首を振る。


「俺も、さっぱりだ……神様が三柱で、何の話をしてんだか」


 わたしは、もう一度、月を見上げた。

 以前より遥かに近い。輪郭が、はっきりと見える。表面の暗い陰影まで。それが、ゆっくりとけれど確実に、こちらへ向かって落ちてきている。


 そこで、初めて本当の恐怖を感じた。

 あれが、落ちてくる。空に浮かぶはずのものが、頭上から降ってくる。その途方もなさが、いまさらのように、躰を凍らせた。


 月読尊が、口を開いた。

 説明は最低限だった。


「月は、以前一度だけ、異常を起こした」


 わたしは、息を呑んだ。覚えがある。あの夜のことだ。


「静まったように、見えた」

「……はい」

「違った」


 月読尊の声が、静かに、続く。


「落下は、続いていた。ずっと、目に見えぬ速さで。誰も気づかぬまま。空に浮かんでいるように見えて、その実、ほんの少しずつ地へ近づいていた」

「そんな……」


 わたしは、あの夜を、思い返していた。月がおかしいと感じた、あの夜。けれど、しばらくして、何事もなかったかのように、いつもの月へ戻った。あれは、戻ったのではなかった。

 ただわたしたちの目に、わからなかっただけだったのだ。


「そして、今日」


 月読尊が、月を見上げる。


「その速度が、急激に増した」

「どうして、そんなことに……」


 わたしの問いに、月読尊はすぐには答えなかった。原因を、まだ口にしない。まず世界の危機だけを、淡々と告げる。


 やがて、月読尊の目が、初めて、わたしへと向いた。

 責める色はなかった。ただ何かを、確かめるような眼差しだった。


「己の権能を、知っているか」

「……知りません」


 わたしは、正直に答えた。自分が何者なのかすら、まだ半ばしか掴めていないのだ。


「其方の権能は」


 月読尊が、ひとつ間を置いた。


「引く」


 わたしも、是雄も黙った。引く。その言葉の意味が、すぐには像を結ばない。


「人だけでは、ない」


 月読尊は、続ける。


「妖も。鬼も。神も。その理から外れぬ」


 わたしの胸の奥で、何かが、ざわりと動いた。


「そして、その果てには」


 月読尊が、少しだけ、空を見上げた。


「天体すら引く」


 そこで、月読尊は、言葉を止めた。

 それ以上は、説明しなかった。


 けれど、わたしの中で、これまでのことが、勝手に繋がりはじめていた。


 吾子と呼び、手元へ置きたがった諏訪様。死した身でなお傍を離れぬ是雄。依月の面影をわたしに重ねた蒼竜。

 そして、神同士の戦いすら、止めてしまった、あの「鎮まりなさい」。


「だから……」


 掠れた声で、呟いた。


「皆……わたしに……」


 その先は、言葉に、ならなかった。

 月読尊は、それ以上何も言わなかった。


「説明は、後だ」


 月読尊が、静かに言った。


「まず、月を戻す」


 そして、初めて、三柱の神が並んだ。


 須佐之男命。諏訪様。月読尊。

 敵でも味方でもなかった。たったいま、神威をぶつけ合っていた二柱が、いまは、ただ、世界を守る神として、肩を並べている。月読尊の一言が、二柱の矛を納めさせていた。


 三柱が、それぞれ神気を解き放つ。


 須佐之男命から、荒々しい赤。諏訪様から、白銀。月読尊から、静かな黒。三つの神気が、夜空へと、伸びていく。性質も色もまるで違う三つの力が、互いを打ち消すことなく絡み合い、巨大な術式へと編み上げられて、月へ届いた。


 神域全体が、その力に震える。地に伏せた白蛇たちが、いっせいに、鎌首をもたげて主の力を支えるように、首を伸ばす。

 夜空に、巨大な紋様が描かれていく。月を繋ぎとめようとする、神々の意志そのものだった。


 けれど。

 月は、止まらなかった。


 落下の速度が、ほんの少し緩んだだけだった。あれほどの三柱が力を合わせてなお、止めきれない。神域が軋み、術式が眩く燃えあがっても、月は、なおもこちらへ向かって、落ち続けている。

 緩んだという事実がかえって、その重さを際立たせていた。

 三柱がかりで、ようやくわずかに鈍らせる。それが、いまの月の異常の深さだった。


 月読尊が、静かに言った。


「……まだ、足りぬ」


 三柱の背中をただ見ていた。

 世界を、支える神々。その広い背を見上げながら、立ち尽くすことしかできなかった。

 あの月を引き寄せているのが、もし、わたしの権能なのだとしたら。三柱が、これほど力を尽くして、なお止められぬものを、引き寄せているのが、わたしだとしたら。


 その考えが、胸の底で、冷たく凝った。


 月は、まだ落ち続けている。

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