第六話 代償
三柱の術式は、なお夜空を貫いていた。
須佐之男命の赤、諏訪様の白銀、月読尊の黒。三つの光が編まれて、巨大な術となり、月を押し返そうとしている。
けれど、月は止まらない。落下の速度は鈍った。それでも、確実にこちらへ向かって落ちてくる。神域の地が、悲鳴のような軋みをあげ続けていた。術式そのものが、もう、限界に近いのが、見ているだけでわかる。
須佐之男命が、歯を食いしばって、神気をさらに注ぎ込んだ。諏訪様も、白銀の蛇体ごと力を絞り出す。
それでも、状況は変わらなかった。緩んだところで、止まらなければいずれ落ちる。終わりが、少し先延ばしになっただけだ。
三柱の額に、汗が滲んでいた。神が汗をかく。それだけで事態の深刻さが伝わった。
月読尊の黒い神気が、ちらりと明滅した。あの月読尊の術式すら揺らぎはじめている。
月読尊の言葉を、思い返していた。
「引く」
其方の権能は、「引く」ことだ。天体すら、「引く」。
そこで、ようやく、腑に落ちた。三柱の術式が、足りないのではない。月読尊は、力が及ばぬと言ったのではなかった。わたしが、月を引き続けているのだ。
だから、どれだけ三柱が押し返しても、その分を引き戻してしまう。綱引きを、神々とわたしとでしているようなものだった。押す側がどれほど強くとも、引く側がいる限り勝負はつかない。
神々が押せば押すほど、わたしの「引く」も、それに釣り合うように、強くなっているのかもしれなかった。
月が大きく見えはじめたのも、落下が急に速まったのも――もしかすると、ここにわたしがいるせいなのではないか。そう思い至った瞬間、背筋が冷たくなった。
ならば、何とかするしかない。
わたしは、前へ出た。
「吾子、何をする」
諏訪様が、わたしを止めようとした。術式を維持したまま、それでも声に焦りが滲んでいる。あの諏訪様が、焦っていた。わたしのために、神気を保ちながら、なお案じている。
「わたしが、止めます」
自分でも、何をするのか、わかってはいなかった。具体的な方法など、ひとつも浮かばない。ただ、やるべきことだけは、躰の奥ではっきりとわかっていた。引いているのが自分なら、止めるのも、自分でなければならない。そんな道理だけが、胸にあった。
「ならぬ。其方の躰がもたぬ」
諏訪様の声が、鋭くなる。何かを、知っているような口ぶりだった。けれど、いまはそれを問うている暇はない。
月読尊だけは、止めなかった。
ただ、静かに、わたしを見つめている。
「其方にはその力がある」
言葉は要らなかった。
わたしは、月を見るのをやめた。
三柱の術式にも、意識を向けない。代わりに、自分自身の内側へと目を凝らした。胸の奥で、ずっとざわついていた、あの感覚。「引く」という権能。望んだ覚えもないのに、人も、妖も、神も、月までも手繰り寄せてしまう、わたしの業そのもの。
それだけを、じっと見つめる。
そこに、それは確かにあった。脈打ち、渦を巻き、絶え間なく外のものを引き寄せ続けている。
これがわたしという存在の芯。
止めようとはしなかった。消そうとも、思わなかった。ただ、見つめる。自分の中の暴れ続ける力を。どうすればいいのかはわからない。それでも、目を逸らしてはいけない気がした。
その時だった。
胸の奥から、ふいに別の気配が、立ちのぼってきた。
それが依月なのだと、わたしは知っていた。理屈ではない。ただ知っていた。人格ではなかった。語りかけてくる声もない。意志すら感じない。ただ、ひとつの権能だけが、そこにあった。
鎮める。
その力が、わたしへと静かに重なってくる。冷たくはない。温かくもない。深く、凪いだ水のような何かが、暴れる権能をそっと包み込んでいく。
権能は消えなかった。反転もしない。「引く」力は「引く」力のまま、そこにある。それでも、ほんの一瞬。鎮めるという別の権能が覆いかぶさったことで、奇妙な均衡が生まれた。
わたし自身にも、何が起きたのか、わからなかった。考える間もなかった。ただ、躰が勝手にそれを成していた。借り物の力で、借り物の均衡を、無理やり作り出している。
そんな、危うい感覚だけが、胸の隅にあった。
そして、その瞬間。
月を引いていた力が、消えた。
綱引きの綱が、ふいに放されたように。
初めて三柱の術式が、完全な形で、月へと届いた。
須佐之男命の赤。諏訪様の白銀。月読尊の黒。三柱の神気だけで、月が、ゆっくりと押し返されはじめる。
あれほど、こちらへ迫っていた巨大な月が止まる。
そして、ゆっくりと、本来あるべき軌道へと戻りはじめた。遠ざかっていく。輪郭がぼやけ、いつもの夜空の高みへと退いていく。さっきまで表面の陰影まで見えていた月が、また、手の届かぬ遠さへと帰っていった。
世界中を揺らしていた震えが、収まっていく。
神域が少しずつ、静けさを取り戻していった。
誰も声をあげなかった。三柱は、ただ黙々と、術を支え続けている。歓声をあげるには、まだ早すぎた。月が完全にあるべき場所へ戻るまで、ほんの少しの油断も許されない。その緊張だけが、神域を満たしていた。
やがて、術式が終わる。
須佐之男命が、小さく息を吐いた。あの荒ぶる神が疲れた、とでもいうように。
諏訪様も、白銀の神気をゆっくりと収めていく。蛇の眼が人のそれへと戻りはじめた。いつの間にか巨大な白蛇は消えていた。
月読尊だけは、最後の最後まで、月を見届けていた。本当に戻ったか、確かめるように。
是雄が、安堵したように息を吐く。
「終わった……終わったぞ、尊さま! なあ、見たか、月が戻って――」
そこまで言って、是雄の声がふいに途切れた。わたしの様子に、気づいたのだろう。ほっとした形のままその顔が強張っていく。
終わった、という是雄の言葉が、どこか、別の世界の出来事のように響く。確かに月は戻った。世界は救われた。
それなのに、わたしの中では、何かが、決定的にずれはじめていた。
胸が、苦しい。
呼吸が浅くなっていく。さっきまで、確かにあったはずの力が、躰の底から抜けていく。
依月の気配も急速に薄れていった。役目を終えたとでもいうように、現れたときと同じ静けさで、消えていく。掴もうとしても、もう届かない。
足元がおぼつかない。地面が傾いで見える。指の先に罅ひびが入り、崩れていく。
さっきまで張り詰めていたものが切れて、その反動が、いま一気に押し寄せてきていた。
是雄の方へ、一歩踏み出そうとした。
その一歩が崩れた。
膝から力が抜ける。視界がぐらりと回った。
「尊さま!」
是雄が、真っ先に駆け寄ってくる。けれど、間に合わない。
倒れかけたわたしを、諏訪様が抱き留めた。術式を解いたばかりの腕が、躰を支える。冷たいはずのその腕が、いまは確かなものに感じられた。
「吾子」
諏訪様の声が遠い。
呼吸は乱れていた。脈も不安定に跳ねていた。躰として保っていること。その根のところが、崩れはじめているのが自分でもわかった。器が軋んでいる。中身がこぼれていく。
わたしという存在がどこかへ流れ出していく。
月読尊だけが、静かにわたしを見ていた。その目には、驚きも慌てもなかった。ただ来るべきものが来た。
そんな静かな色だけが、宿っていた。
「吾子。しっかりせよ」
諏訪様が、名を呼ぶ。その声にこれまで聞いたことのない、必死さがあった。神がこんな声を出すのかと、薄れていく意識の隅で、ぼんやり思った。
「尊さま、尊さまっ。おい、しっかりしろよっ」
是雄も、必死に呼び続けていた。声が、震えている。死した身のはずの是雄が、こんなにも生きた者のように、わたしを案じている。その手が、わたしの手を強く握った。
須佐之男命でさえ、初めて表情を変えた。あの荒ぶる神が。獰猛に笑い、神威を誇った神が。何か、不可解で、痛ましいものを見るように、わたしを見下ろしている。何か言いかけて、けれど、結局、口を噤んだ。荒ぶる神にもかける言葉が、見つからなかったのかもしれない。
けれど、わたしの視界には、もう、ほとんど何も、映っていなかった。
ただ、ひとつだけ。
元の位置へと、戻っていく月だけが、見えていた。夜空の、いつもの場所。あるべきところへ、静かに、退いていく月。
「戻って……よかった……」
小さく、呟いた。
それが、自分の声なのかも、もう、わからなかった。
意識が、闇へと沈んでいく。
遠くで、誰かが、わたしの名を呼んでいる。
諏訪様か。是雄か。それとも――。




