第一話 発狂
月が戻った。
空の一番高いところに、いつもの月がある。さっきまでの、あの異様に膨れ上がった月じゃない。元の軌道へ、元の大きさへ、何事もなかったみたいに戻っている。
なのに、神域は静まり返っていた。
風が止まっている。白蛇たちも木の影で身を縮めたまま動かない。おいらは岩場の端に立って、ただ尊さまを見ていた。
諏訪様が、尊さまを抱いている。
その腕の中で、尊さまの胸がかすかに上下していた。浅い。あまりにも浅い。指先で触れたら消えてしまいそうな、頼りない呼吸だ。
須佐之男命も動かない。少し離れたところに立つ月読尊も、白い衣を風に揺らすことなく、ただそこにいる。
誰も何も言わない。言葉を発したら、この沈黙の重さで尊が押し潰されてしまう。そんな気さえした。
その静寂を、岩が崩れる音が破った。
ずず、と低く長い音が、山の麓のほうから響いてくる。
蒼竜が、目を覚ましたようだ。
山肌に半ば埋もれるようにして倒れていた巨体が、ゆっくりと頭をもたげるのが、見えた。
鱗のあちこちが裂け、血がにじんでいる。翼の一枚は地面に押し付けられたまま、まだうまく動かないらしい。
動くたび、その身体が痛みに軋んでいるようだった。須佐之男命に吹き飛ばされたあの衝撃を、蒼竜の身体は、嫌でもそれを思い出しているのだろう。
けれど蒼竜が探したのは、自分の傷じゃなかった。
ぐるりと首を巡らせ、神域のほうを見上げる。その瞳が、諏訪様に抱かれた尊さまを捉えた。
動かない軀。閉じたままの目。
様子がおかしい。
蒼竜の気配が変わる。それだけで、おいらにも異変を悟ったのが分かった。
次の瞬間、蒼竜は地を蹴っていた。傷ついた翼を引きずりながら、何も聞かず、まっすぐに駆けてくる。
おいらは止める間もなかった。「蒼竜っ」と声を上げたときには、もうあいつは目の前を通り過ぎていた。
蒼竜は、諏訪様の腕から尊さまを抱き上げた。
乱暴な仕草だった。けれど諏訪様は抵抗しなかった。そっと腕をほどき、尊さまを渡す。まるで、そうなることを分かっていたみたいに。
蒼竜は尊さまを、自分の腕の中へ強く抱き込んだ。冷たい鱗の胸に、尊さまの小さな身体が沈む。
「尊」
返事はない。
「尊」
もう一度呼んで、肩を揺する。
返事はない。
揺れた拍子に、尊さまの腕が力なく垂れた。指先が宙をかすめてまた落ちる。あるのは、かすかな呼吸だけ。その呼吸さえ、いつ止まるか分からない。
蒼竜の喉から、低い音が漏れた。唸りとも、嗚咽ともつかない音。
あいつには、依月という名の大事な女ひとがいた。
蒼竜はその名を、めったに口にしなくなった。けれど、時々、尊さまを姫様と呼ぶこともある。
ふとした拍子に遠くを見る目をするとき、おいらにはなんとなく分かった。あいつの胸の奥には、ずっと埋まらない穴が空いているんだと。
依月。
その名が、いまあいつの中でよみがえっている。おいらにはそう見えた。蒼竜の瞳に映っているのが、もう尊さまじゃないことに。
腕の中の小さな身体と、冷たくなっていったもう一人の姿とが、ゆっくり重なっていく。重なって、境い目が溶けて、ほどけなくなっていく。
「姫様……」
蒼竜が、かすれた声でつぶやいた。
その一言で、おいらは背筋が冷えた。あいつはもう、いまを見ていない。過去のあの瞬間に、引きずり戻されている。尊さまを抱いているのに、依月を抱いているつもりでいる。
蒼竜は尊さまを抱えたまま、じり、と後ろへ下がった。
傷ついたほうの翼を、それでも広げる。痛みを無視して、大きく。誰も近付けまいとするように。
「来るな」
低い声だった。地の底から這い上がってくるみたいな声。
おいらは足を止めた。止めるしかなかった。あの目を見たら、誰だって動けない。
須佐之男命が、一歩、前へ踏み出す。
その瞬間、蒼竜が牙を剥いた。尊さまを抱いたまま、首だけをこちらへ向けて。
「来るな!」
絶叫だった。
須佐之男命は立ち止まった。けれど、刀には手をかけない。腕を組んだまま、ただ蒼竜を見ている。
月読尊も、顔色ひとつ変えずに静観している。
おいらには分からなかった。なんで誰も手を出さないんだ。あいつは壊れかけてる。尊さまを抱えたまま、どこかへ行ってしまうかもしれない。
なのに、須佐之男命も月読尊も、まるで嵐が過ぎるのを待つみたいに、ただそこに立っている。
動けないのは、おいらだけなんだろうか。
その中で、諏訪様だけが、静かに前へ出た。怒鳴らない。急がない。ゆっくりと、一歩ずつ。
「蒼竜」
名を呼ぶ。それから、ひとこと。
「吾子を返せ」
蒼竜は首を振った。激しく何度も。
「嫌だ」
搾り出すような声だった。
「また失う。……また、私の腕の中で冷たくなる」
翼が震えている。鱗の隙間から血がまた一筋落ちた。
「もう、誰にも渡さない」
依月と尊さまが、あいつの中で完全に重なっているようだった。もう区別がついていない。腕の中にいるのが誰なのか、いつの記憶なのか、分からなくなっている。
おいらは初めて、蒼竜を恐ろしいと思った。
あの優しいやつが、いまは何をするか分からない獣になっている。
けれど、同時にこうも思ってしまった。こいつは、この場の誰よりも悲しい生き物なんじゃないか、と。
諏訪様の表情が、ふっと消えた。
怒りでも、悲しみでもない神そのものの顔。
白銀の神気が、音もなく広がっていく。巨大な神体を現したわけじゃない。それなのに、神域の空気がまるごと変わった。
最初に気づいたのは、足元だった。地面がやけに遠く感じる。次に、耳の奥がきいんと痛んだ。空気そのものが重くなる。肌がぴりぴりと痺れて、息を吸うだけで喉の奥がつかえる。
立っているだけなのに、見えない手のひらに頭を上から押さえつけられているみたいだ。
白蛇たちが、一斉に地へ伏せた。鱗を打ち合わせる音すらない。ただ、ひれ伏す。神域に棲むあいつらが、頭を垂れている。
おいらも息苦しさを覚えて、思わず膝に手をついた。これが、諏訪様の本気の一端なのか。普段おいらたちと並んでいる御方の、底にあるもの。背中に冷たい汗がつたう。
須佐之男命は腕を組んだまま、黙って見守っている。月読尊も止めない。これは諏訪様の領分だと、二柱とも分かっているみたいだった。手を出すまでもない。おいらにはそう見えた。
諏訪様が、蒼竜へ近付いていく。
一歩。
蒼竜の前肢が、わずかに沈んだ。
二歩。
ぐ、と喉から苦しげな音が漏れる。それでも蒼竜は踏ん張った。四肢に力を込め、神気の奔流に抗おうとする。翼を畳まず、頭を低くして、全身で耐える。尊さまだけは、決して離さない。
三歩。
けれど、おいらにも分かった。蒼竜が押されていた。
ひと足ごとに、蒼竜の膝が落ちていく。あらがう力が押し返してくる重さに、少しずつ削られていく。
鱗がきしむ。爪が地面をえぐる。それでも巨体は、ゆっくりと沈んでいくのを止められない。
とうとう前肢が地に着き、蒼竜の身体が崩れるように伏した。地面が、どんと重い音を立てて揺れる。
それでも、尊さまだけは離さなかった。
伏したまま、首だけをねじって、蒼竜は尊さまを自分の身体の下へかばうように抱え込む。鱗の檻の中へ、小さな身体をしまい込もうとする。何があっても、渡さない。そう言いたげに。
最後まで、尊さまだけは抱き締めたまま。
諏訪様が、静かに言った。
「吾子を返せ」
蒼竜は、涙を流していた。鱗を伝って落ちる、大粒の涙。それでもなお、首を振る。
「嫌だ……」
その時だった。
月読尊が、初めて諏訪様へ声を掛けた。
「建御名方」
諏訪様が振り返る。
月読尊は、短く告げた。
「時間がない」
全員の視線が、尊さまへ集まる。
その呼吸は、さっきよりもさらに浅くなっていた。胸の上下が、ほとんど見て取れない。右腕の肘から下が砕けて、なくなっている。
蒼竜はなおも尊さまを抱き締めて離さなかった。
あいつはもう、誰の声も聞いていなかった。




