第二話 託す心
誰も動かない。
伏した蒼竜を囲んで、神々が立っている。けれど、誰一人として手を伸ばさない。
諏訪様は、無理に尊さまを奪おうとはしなかった。広げかけた神気を、いつのまにか胸の内へ収めている。
須佐之男命は腕を組んだまま、じっと蒼竜を見下ろしている。
月読尊だけが、蒼竜ではなく、その腕に抱かれた尊さまのほうを、静かに見つめていた。
神域に響くのは、蒼竜の嗚咽だけだった。
ぐ、ぐ、と喉の奥から漏れる、絞り出すような泣き声。巨体が、泣くたびにわずかに震える。鱗を伝って落ちた涙が、地面に小さな染みを作っていく。
蒼竜は、尊さまを抱き締め続けていた。
折れそうなほど細い身体を、こわれものを扱うように、けれど決して離すまいと、強く。
「姫様……」
かすれた声で、そう呼ぶ。
「姫様……姫様」
何度も。何度も。同じ言葉だけを繰り返す。まるで、そう呼び続けていれば、腕の中の者が目を開けてくれるとでも思っているみたいに。
おいらは、見ていることしかできなかった。
足が動かない。声も出ない。あいつにかける言葉が、何ひとつ見つからない。ただ、胸が締めつけられて、息が苦しくて、立ち尽くしていた。
蒼竜のことは、依月とともに空から落ちてきた時から知っている。普段は飄々として、つかみどころのないやつだ。
尊さまを姫様と呼ぶのは、この頃は減ってきている。だけど、ときどき見せる、あの遠い目。宴の輪から少しだけ外れて、月を見上げているときの、あの横顔。その奥に何が沈んでいるのか、おいらはずっと、知らないふりをしてきた。
いま、それが、全部こぼれ出している。
長い年月を生きた竜が、子どものように泣いていた。おいらは、その姿から目を逸らせなかった。
月読尊が、ゆっくりと蒼竜へ近付いた。足音もなく。白い衣の裾だけが、わずかに揺れる。
怒らない。責めない。剣を抜くでもない。ただ、静かな声でこう言った。
「その者は、依月ではない」
蒼竜の身体が、びくりと跳ねた。
「違う!」
噛みつくような声だった。
「違う……お前たちは、また奪う気だ。あのときと同じだ。私から奪っていく」
嗚咽を混ぜながらも、あいつは声をあげる。
「誰にも渡さない。今度こそ、誰にも──」
「そのままでは、救えぬ」
月読尊の声は、低く、けれど刃のように通る。
「お前がそうして抱えている限り、その者の命は削られていくばかりだ」
「嘘だ」
蒼竜が、頭を振った。
「嘘だ。お前たちはいつもそう言う。それが、姫様のためになる。民のためになると……それで姫は、どうなった。姫を閉じこめて……道具にして……逃げるしかなかったんだ」
依月を失った記憶が、噴き出していた。
胸の奥に押し込めてきたものが、堰を切って溢れている。尊さままで失うかもしれないという恐怖が、そこに重なって、蒼竜をますます追い詰めていく。
「姫は笑って、ここよりも外へと二度も境界を越えたのに……今度こそ……自由に……」
声が、途切れる。
「自分の足で……歩けると」
蒼竜の爪が、地面をえぐった。
「あのとき、もっと私がしっかりしていれば……ちゃんと飛べていれば……」
あいつの中で、依月の死と尊さまの今が、ひとつの恐怖になって、渦を巻いている。
諏訪様が、前へ出た。
あれほど張り詰めていた神気を、すっと解く。
そうして、静かに言った。
「吾子は、まだ生きておる」
蒼竜が、顔を上げる。
「呼吸はある。脈もある。まだ間に合う。――だが、其方が離さねば助けられぬ」
「……信用、できない」
蒼竜の声が、震えていた。さっきまでの絶叫とは違う。怯えた子どものような、頼りない声。
「お前たちは姫を閉じこめて……」
「ならば、朕を憎め」
諏訪様の言葉は、まっすぐだった。
「救えなんだら、朕を恨むがいい。いくらでも憎め。その牙を朕に向けるがいい。――だが、いまは。いまだけは、吾子を離せ」
蒼竜の身体が、ぐらりと揺れた。
初めて、迷っていた。
ずっと首を振り続けていたあいつが、動きを止めて、腕の中の尊さまへ目を落とす。
浅い呼吸。砕けた右腕が、不自然な角度で垂れている。よく見れば、頬にも罅ひびが入りはじめている。
そして、眉根を寄せた、苦しそうな顔。――尊さまは、いまも痛みの中にいる。
その光景が、蒼竜の中に少しだけ、現実を引き戻したらしかった。あいつの瞳が、ほんのわずかに揺らいだ。
依月の顔と尊さまの顔。重なっていたはずの二つが、ほんの一瞬ずれる。蒼竜の喉が、ごくりと動いた。
「……違う」
つぶやきが、漏れる。
「この子は……姫じゃない……」
そんな、当たり前のことを、まるで初めて気づいたみたいに口にする。混濁していた頭の中に、細い光が一筋、差し込んだようだった。
けれど、それはまだ、頼りない光だ。一陣の風で、すぐにまた、闇に呑まれてしまいそうな。
ここで、おいらは前へ出た。
神様じゃない。ただの人だ。何の力もない。けれど、だからこそ、言えることがある気がした。
「蒼竜」
返事はない。それでも、おいらは続けた。
「尊さまを、助けよう。なあ」
蒼竜は、こちらを見ない。
「頼む。おいらじゃ、何も出来ねぇ。神気もねぇ。術もねぇ。尊さまの傷ひとつ塞いでやれねぇ」
声が、震えそうになる。それを、ぐっとこらえる。
「だから、頼む。お前が離してくれなきゃ、誰も、尊さまに手が届かねぇんだよ」
蒼竜は、まだ動かない。
おいらは、もう一歩、前へ出た。さっきまで神気に当てられていた足が、まだ震えていた。それでも、足を止めなかった。
「おいらだって、怖ぇよ。尊さまが、このまま目を覚まさなかったらどうしようって、ずっと怖い。お前の気持ちが、分からねぇわけじゃねぇ。離したくねぇんだろ。離した手の中から、こぼれていくのが、怖いんだろ」
蒼竜の耳が、ぴくりと動いた。
「でもな。お前が抱えてたら、尊さまは、お前の腕の中で終わっちまう。それは――お前が一番、嫌なことじゃねぇのか」
蒼竜が、ゆっくりと、おいらを見た。
その目から、また涙が溢れた。大粒の、止めようのない涙。鱗を伝って、ぼたぼたと落ちていく。
「私は……」
声が、詰まる。
「私は、もう……もう、失いたくないんだ」
長い、長い沈黙が落ちた。
風も、白蛇も、神々も、すべてが息を潜めて、蒼竜の言葉を待っていた。
やがて、蒼竜が、ぽつりと言った。
「……助かるのか」
月読尊が答える。
「約束は出来ぬ」
残酷なほど、まっすぐな返事だった。
「神とて、命を意のままにはできぬ。助かるとは言えぬ。――だが、渡さねば、確実に死ぬ。それだけは言える」
蒼竜が、目を閉じた。
それから、ゆっくりと――本当に、ゆっくりと腕の中の尊さまへ、顔を寄せていく。
その鼻先が、尊さまの額に、そっと触れた。
「姫様……」
そう、呼びかけて。けれど、すぐに、言い直した。
「……いや」
ひと呼吸、置いて。
「尊」
名前を呼んだ。
依月の面影で塗りつぶしていた腕の中の存在を、蒼竜がようやく、尊さまその人として見た瞬間だった。
重なっていた二つの姿が、静かに、別々のものへと、分かれていく。
それは、依月を、もう一度きちんと喪うということでもあった。あいつはずっと、尊さまに姫様を重ねてきたのかもしれない。
それを、自分で終わらせようとしている。尊さまを助けるために。
どれほど、つらいことだろう。おいらには、想像もつかない。
蒼竜は、尊さまを抱え直した。
そして、震える前肢で、そっと、諏訪様のほうへ差し出す。
「……頼む」
たった一言。けれど、その一言を口にするまでに、あいつがどれだけのものを呑み下したのか。おいらには、痛いほど分かった。
「頼む。この子を……尊を、助けてやってくれ。私の代わりに。今度こそ」
諏訪様が、両腕で尊さまを受け取る。
蒼竜の前肢から、尊さまの重みが離れる。その瞬間、あいつの全身から、ふっと力が抜けたのが分かった。抜け殻のように、その場へ崩れ落ちた。
それでも、目だけは、尊さまを追っていた。もう一度だけ、小さく呟く。
「……尊」
その声には、もう狂気はなかった。ただ、深い深い祈りだけがあった。
三柱の神が、尊さまを囲んだ。
須佐之男命が片膝をつき、月読尊がその傍らに立ち、諏訪様が尊さまをそっと地へ横たえる。
三柱の手が、それぞれ、尊さまの身体の上にかざされた。白銀の、赤の、漆黒の光が、絡み合うように立ちのぼる。
おいらは、固唾を呑んで見守った。
最初に、月読尊の表情が変わった。眉が、わずかに、寄せられる。
「……そういう、ことか」
低いつぶやき。次いで、諏訪様が、息を呑んだ。
「ここまで……ここまで、軋んでおったか。気づいてやれなんだとは」
その声には、神の威厳ではなく、悔いのようなものが滲んでいた。
最後に、須佐之男命が、ぼそりと言った。
「……厄介だな」
腕を組み直し、眉間に皺を寄せる。
「これは、外の傷をいくら塞いだところでどうにもならん。器そのものが、内側から軋んでおる。元の魂といまの身体が、合うておらんのだ。ずっと無理を重ねてきたのだろうな」
何が見えたのか、おいらには、半分も分からなかった。
けれど、三柱は、それぞれに表情を変えた。それだけで、尊さまの身に起きていることが、ただごとではないのだと、嫌でも察せられた。
外の傷ではなく、もっと深いところ。神でなければ手の届かない場所が、壊れかけている。そういうことだけは、なんとなく伝わってきた。
「繋ぎ止めるしか、あるまい」
月読尊が、静かに言った。
「だが、それには相応の代償がいる。ひとりでは足りぬ」
諏訪様が、ゆっくりとうなずく。須佐之男命も、何も言わずに、腕を組んだまま天を仰いだ。
何が始まろうとしているのか、おいらには分からない。けれど、三柱の神が、ここまで言葉を尽くして向き合っている。
それだけで、尊さまを助ける道が、まだ、断たれてはいないのだと信じることができた。
蒼竜は、もう暴れなかった。
少し離れたところで、伏したまま、ただ、じっと尊さまを見つめている。手放したその人を、最後まで見届けようとするみたいに。
おいらは、その横顔を見て、思った。
――こいつは、ちゃんと託したんだ、と。
奪われたんじゃない。諦めたんでもない。自分の意思で、誰よりも離したくなかった手を託した。きっと、あの日から、ずっと出来なかったことだ。
神域に、また静けさが戻ってくる。
その静けさの中で、おいらは、尊さまの浅い呼吸を、祈るように見守っていた。




