第三話 繋ぎ止める者たち
諏訪様が、尊さまを地へ横たえた。
諏訪様が、抱えていた身体を、そっと、本当にそっと、草の上へ下ろす。まるで割れ物を置くみたいな手つきだった。尊さまの髪が、地面に広がる。閉じたままのまぶた。血の気の引いた頬。胸だけが、かろうじて浅く上下している。
蒼竜は、少し離れた場所で伏したままだった。
暴れない。叫びもしない。ただ、潤んだ目で、尊さまだけを見つめ続けている。あれだけ荒れ狂っていたあいつが、いまは石みたいに動かない。
手放した代わりに、見届けることだけは絶対にやめない。そういう目だった。
白蛇たちは、完全に地へ伏せていた。神域そのものが、息を潜めている。風さえも、止まっていた。
三柱が、尊さまを囲む。
それぞれの手から、淡い光が流れ込んでいく。諏訪様の白銀。須佐之男命の赤。月読尊の黒。三色の光が、尊さまの身体の上で、ゆっくりと混ざり合っていった。
最初に異変へ気付いたのは、月読尊だった。
その眉が、わずかに寄せられる。
「……そういうことか」
低い、ひとりごとのような声。
次いで、諏訪様が、息を呑んだ。須佐之男命も、眉をひそめる。三柱の間に、言葉にならない何かが、流れていく。
おいらには、何も見えなかった。光が、尊さまを包んでいる。それだけしか分からない。
でも、神々の顔つきが、見る間に険しくなっていくのが、怖かった。
だから、思わず聞いていた。
「何が……何が起きてるんだ」
月読尊が、おいらのほうを見もせずに答えた。
「この者は、ひとつではない」
「……は?」
「幽霊であり、人であり、神でもある。二百年前に死んだ魂が、生者の身体を得て、この神域で神気まで帯びた。三つのものが、ひとつの器の中に、無理やり押し込められておる。本来であれば決して在りえぬ形だ」
月読尊は一つ息を吐いた。
「……元から、薄氷の上に立つように、辛うじて均衡を保っていただけにすぎぬ」
月読尊の声は、淡々としていた。その調子が、かえって事の重さを突きつけてくる。
「今回、この者は『鎮まれ』の力を使った。月を、元の軌道へ戻すために。――だが、それは、この者が背負える力ではなかった。その一撃で、辛うじて保たれていた均衡そのものが、砕けた」
「壊れたのは、身体ではない」
月読尊が、静かに言い切る。
「この者の存在そのものだ」
おいらは、まだ、半分も呑み込めていなかった。
「つまり……どういうことだよ」
須佐之男命が、ぼそりと言った。
「器が割れた」
諏訪様が、それを継ぐ。
「魂も、身体も、互いから外れかけておる。糸が、ほつれていくようにな。このままでは、ほどけて、散る」
ようやく、おいらにも分かった。
分かって、ぞっとした。尊さまは、傷を負ったんじゃない。尊さまという存在が、根っこから、解けかけている。薬や術で塞げるものじゃないんだ。
「治せるのか」
口にした声が、震えていた。
「治せるんだろ。神様なんだから。なあ」
諏訪様が、静かに首を振った。
「修復は──」
その先を、月読尊が引き取る。
「出来ぬ」
沈黙が、落ちた。
「神でもな」
須佐之男命の声がいっそう低い。
「無いものは、戻せぬ」
月読尊が答える。
「割れた器を、元通りの一枚に戻すことはできぬ。継ぎ目は必ず残る――それが、理だ」
けれど、月読尊は、そこで終わらなかった。
「ならば、繋ぎ止める」
顔を上げて、他の二柱を見る。
「戻せぬのなら、これ以上ほどけぬよう留めるしかない。三方から、縛る。――諏訪。お前は、散ろうとする魂を、この器の内へ繋ぎとめよ」
諏訪様が、無言でうなずく。
「須佐。お前は、割れた身体がこれ以上崩れぬよう、外から支えよ」
「面倒なことだな」
須佐之男命が、腕を組み直した。
「そして、余は」
月読尊が、目を伏せる。
「魂と器の境界を、縫い合わせる。二つが二度と離れぬように。――これでしか、この者は助からぬ」
「代償って」
おいらは、おそるおそる聞いた。
「代償って、何だ。さっき、代償がいるって」
「吾らの神気だ」
月読尊の声は、変わらず静かだった。
「それだけでは、終わらん」
須佐之男命が付け加える。
諏訪様が、ゆっくりと言った。
「縁も、残る」
「縁……?」
「一度繋いだものは、断てぬ。この者を繋ぎ止めれば、朕ら三柱は、もう、この者から完全には離れられぬ。神気が、この者の内へ刻まれる。――未来永劫、な」
おいらには、その重さは分からない。けれど三柱の顔を見れば、それだけで、軽い覚悟ではないことが伝わった。
「面倒な奴だ」
須佐之男命が、ふん、と鼻を鳴らす。
「余も、同じ舟へ乗るのだ」
月読尊が、わずかに肩をすくめた。
「好きで、乗せたわけではないがな」
諏訪様が、ぽつりと言う。
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が、緩んだ。
――こいつらは、文句を言いながら、もうやると決めている。おいらには、それが分かった。
三柱が、尊さまを中心に、三角形に立った。
諏訪様の白。須佐之男命の赤。月読尊の黒。
それぞれの手から、神気が立ちのぼる。三色の光が、尊さまの真上で、ゆっくりと渦を巻き始めた。
神域全体が、ぐらりと震える。
湖が波打ち、桜の枝がざわめいた。伏せていた白蛇たちが、さらに低く頭を垂れる。
少し離れたところで、蒼竜も、静かに頭を下げた。神々の業の前に、ただ、祈るように。
おいらだけが、立ち尽くしていた。何も出来ないまま、ただ見守ることしか出来なかった。
三色の神気が、尊さまへ、流れ込んでいく。
いいや、逆だ。尊さまの身体が、神気を、吸い始めたのだ。
三柱の衣が、ばっと揺れる。手から立ちのぼる光が、引きずられるように、尊さまへ吸い込まれていく。注ぎ込むというより、奪われている、という感じに近かった。
「喰うか」
須佐之男命が、低く唸る。
「止まらぬ」
諏訪様の声に、初めて、緊張が滲んだ。
「構わぬ。続けよ」
月読尊が、鋭く言い放つ。
「この者の渇きが満ちるまで、注ぎ続けよ。手を緩めれば、すべてが水の泡だ」
尊さまの身体が、淡く光り始めた。
頬。蒼竜と須佐之男命との戦いのあと、あんなに罅が走っていたはずの場所。そこを、白銀の光が、ゆっくりと、流れていく。罅が、閉じていく。
あの痛々しい亀裂が、消えていった。
次に、砕けていた右腕。
白。赤。黒。三色の神気が、その腕へ、絡みついていく。
骨。筋。皮膚。崩れていたものが、形を取り戻していく。
本当に、少しずつだった。指先が、ぴくりと震える。肘が、わずかに動く。やがて、五本の指が、ゆっくりと、小さく握られた。
おいらは、思わず声を漏らした。
「戻った……! 戻ったぞ、尊さまの腕が……!」
しかし、三柱は、誰も笑わなかった。
月読尊だけが、静かに言った。
「修復では、ない」
え、とおいらは、声を呑む。
「崩れぬよう、留めたに過ぎぬ。見た目は、戻ろう。腕も、肌も、元のように見えよう。――されど、この者は、もう、元へは戻れぬ」
諏訪様が、静かに目を閉じた。須佐之男命も、腕を組んだまま、何も言わなかった。
その沈黙が、月読尊の言葉が真実なのだと、教えていた。
三柱が、最後の神気を、流し込む。
神域全体へ、光が、広がっていった。
湖が、桜が、白蛇が――すべてが、一瞬だけ、まばゆく輝く。世界そのものが、息を吹き返したみたいに。
そして、尊さまの呼吸。
止まりかけていた胸が、大きくひとつ、上下した。
罅は消えた。右腕も戻った。傍目には、まるで何事もなかったかのように、尊さまの身体は、元通りに見えた。
けれど、三柱だけは、知っている。
これが、もう、以前の尊さまではないということを。継ぎ目を抱えたまま、辛うじてこの世へ留められた存在なのだということを。
おいらは、その場に膝をついた。
「戻ってこい……尊さま。頼むから、戻ってきてくれ」
小さく、呟く。
蒼竜も、目を閉じて、祈っていた。あいつの頬を、また一筋、涙が伝う。
神域が、静まり返る。
光が、ゆっくりと、引いていった。
◇
暗い。
何もない。
身体の感覚もない。わたしは、ただ、暗闇の中に、浮かんでいた。上も下も、わからない。ここがどこなのかも、わからない。
ただ、深い闇だけが、わたしを包んでいる。
遠くで、誰かが呼んでいる。
──諏訪様。
──蒼竜。
──是雄。
知らないはずの声。なのに、ひどく懐かしい。胸の奥が、きゅう、と締めつけられる。あの声のところへ、帰りたい。そう、思った。
もう一つ、声がした。
静かな、深い声。
「戻れ」
たったその一言。
それが、暗闇へ、一本の光を差し込んだ。
わたしは、その光へ、手を伸ばす。指先に温もりが、宿る。冷たかった身体のいちばん端っこから、じんわりと、何かが満ちていく。
重い。
まぶたが、とても重い。それでも、わたしは、力を込めた。あの声のところへ、帰るために。
ゆっくり。ほんの少しだけ、まぶたが、開く。
光。
ぼやけた、空。霞む視界。何もかもが、にじんで揺れている。
誰かが、泣いていた。
「尊さま!」
是雄の声だった。涙で、ぐしゃぐしゃの顔。それがすぐ目の前にある。
その向こうで、蒼竜が、涙を流して、笑っていた。泣きながら、笑っている。へんな顔だ、と、ぼんやり思った。
諏訪様が、安堵したように、息を吐く。須佐之男命は、腕を組んだまま、こちらを見ていた。そして、月読尊だけが、静かに言った。
「戻ったか」
わたしは、声を出そうとした。
けれど、掠れた息が、こぼれただけだった。喉が、うまく動かない。
それでも。
生きている。
指先に宿った、あの温もりだけは――確かに、感じられた。




