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終章

 朝が来ていた。


 長い夜が明けて、神域には穏やかな風が吹いている。湖の水面が、朝の光を受けて、きらきらと揺れていた。桜の花びらが、その上を、ゆっくりと流れていく。


 わたしは、静かに目を覚ました。

 まぶたを開けると、見慣れた天井があった。生きている。その実感が、じわりと胸に広がる。全身が、鉛みたいに重い。

 けれど、右手を持ち上げてみると、五本の指が、ちゃんと動いた。砕けていたはずの右腕が、元通りになっている。頬に触れてみても、あの罅は、もう、どこにもなかった。


「気がついたか」


 諏訪様の声だった。すぐ傍らに、諏訪様がいる。その向こうに、是雄。須佐之男命。そして、月読尊。蒼竜は庭にいる。みんなが、わたしを見て、ほっと息を吐いた。


 わたしは、起き上がろうとした。


「無理をするな」


 諏訪様が、そっと肩を押さえる。


「まだ、動いてはならぬ。吾子の身体は、辛うじて繋ぎ止められておるにすぎぬのだ」


 月読尊が、静かに近付いてきた。


「その身に、何が起きたか。話しておかねばなるまい」


 わたしは、横たわったまま、月読尊を見上げる。


「昨夜、お前の存在は、崩れかけた。魂と器が、外れかけたのだ。――余ら三柱で、それを繋ぎ止めた。見た目は、元へ戻ったように見えよう。だが、これは完全な修復ではない」

「……修復ではない?」

「お前はもう、人ではない。神でもなく、幽霊でもない。そのどれでもあって、どれでもない。――境界に立つ者、とでも言えばよいか。そういう在り方で、これから生きていくことになる」


 わたしは、その言葉を、ゆっくりと呑み込んだ。


 不思議と、恐ろしくはなかった。もともと、二百年も前に死んだ身だ。いまさら、自分が何者であろうと、大した違いはない気がした。


「それから」


 月読尊が、続ける。


「依月の権能は、完全には消えておらぬ。お前の中には、いまも二つの権能が宿っておる。──『鎮める』と、『引く』。月を落としかけたあの力と、それを鎮めたあの力だ」

「……まだ、あるのですか」

「器だけは、整った。だが、お前には、まだ何ひとつ制御できぬ。無理に使えば、繋ぎ止めたばかりの存在が、また崩れる。二度目はない。――だから、決して試すな。これは、忠告ではなく、神の命だ」


 月読尊の声は、静かだったけれど、有無を言わせない響きがあった。

 わたしは、小さくうなずいた。それから、少しだけ微笑む。


「生きていられるだけで、十分です」


 本心だった。目を開けてこうして、みんなの顔を見られる。それ以上、何を望むことがあるだろう。

 その笑顔を見た、瞬間だった。


 少し離れた場所で伏していた蒼竜の身体が、淡く光り始めた。


 青白い光が、巨大な竜の輪郭を、包んでいく。鱗が、翼が、ほどけるように溶けて、光の粒になって舞う。その光が収まったとき、そこにいたのは、竜ではなかった。

 青い着物を纏った、一人の武士。

 蒼竜が、人の姿になった。

 彼は、ゆっくりと、わたしの前まで歩いてくる。そして、静かに跪いた。


「蒼竜」


 わたしが名を呼ぶと、彼は、顔を上げた。その目には、うっすらと涙が滲んでいる。


「お帰りなさい、尊」


 そう言って、彼は、ふっと言い直した。


「……いえ。ただいま、ですね」


 わたしは、微笑んだ。


「はい。ただいま」


 蒼竜は、もう「姫様」とは呼ばなかった。わたしをわたしとして、まっすぐに見ている。依月の面影を追う目は、どこにもなかった。彼はちゃんと、あの人と別れたのだ。


 空気が、和らいだ。

 わたしは、もう大丈夫だと思って、身体を起こそうとした。まだ、この身体に慣れていない。昔の男だった頃の感覚のまま、無防備に身を起こしてしまう。

 はらり、と、胸元が、乱れた。


「尊さまっ!」


 是雄が、顔を真っ赤にして、叫んだ。


「む、胸! 胸っ!」


 蒼竜も、慌てて羽織を脱ぎ、わたしの肩へ掛ける。二人とも、あたふたと目のやり場に困っている。

 わたしだけが、何を騒いでいるのか、分からなかった。


「……どうか、しましたか?」


 真顔で、聞き返す。すると、是雄と蒼竜は、ますます慌てた。

 諏訪様が、額へ手を当てて、深いため息をついた。


「吾子よ……少しは、己の身体を、自覚せよ」


 そこで、わたしは、ようやく気づいた。――ああ。そうか。わたしは、もう、男の身体ではないのだ。かあっと頬が熱くなる。慌てて、羽織の前を、かき合わせた。


 張り詰めていたものが、ほどけていく。神域に、小さな笑いが、戻ってきた。


 月読尊が、空を見上げた。


「では、余は帰る」


 静かにそう告げる。数歩、歩いて、ふと立ち止まった。振り返って、わたしを見る。その口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。


「余も、尊と縁を結んだ身だ。……たまには、顔を見に来るとしよう」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、諏訪様と須佐之男命が、同時に言った。


「「来るな」」


 月読尊が、めずらしく、愉快そうに笑った。


「そう邪険にするな」


 そう言い残して、月の光とともに、天へと帰っていく。白い衣が、朝の空へ溶けて、消えた。あんなに近寄りがたい神だったのに、最後の笑い方だけは、なんだか人間くさかった。


 静けさが戻ると、須佐之男命が、わたしのほうへ、向き直った。


「建御名方を、諏訪と呼ぶのなら。俺のことも、須佐でいいぞ」


 わたしが困って、諏訪様のほうを見ると、諏訪様は、即座に言った。


「吾子よ。その必要はない」


 須佐之男命が、不満そうに、眉を寄せる。


「何故だ」

「須佐之男命で、十分だ」

「須佐で構わんと言っておる」

「駄目だ」

「面倒な神だな」

「帰れ」

「帰らん」


 二柱は、まるで子どもみたいに、言い合いを始めてしまった。是雄が、こらえきれずに苦笑する。蒼竜も、小さく笑っていた。

 わたしは、困ったように笑いながら、聞いてみた。


「……お二人は、仲が、良いのですか?」


 すると、諏訪様と須佐之男命が、これまた、そろって、言い放った。


「「違う」」


 その、あまりにも息の合った否定に、みんなが、また笑った。


 そのうち、白蛇たちが、わたしのまわりへ、集まってきた。

 一匹、また一匹と、するすると寄ってくる。肩に乗り、足元に絡み、しまいには、頭の上にまで乗ってくるものもいた。


「神気に、惹かれておるのだ」


 諏訪様が、そう説明する。

 わたしは、一匹ずつ、そっと撫でてやった。ひんやりとした鱗の感触が、手のひらに心地よい。


「……本当に綺麗になったなあ。もともと綺麗だったけどよ」


 是雄が、ぽつりと、そう呟いた。

 蒼竜も、静かに微笑んでいる。以前とは、どこか違う。人離れした神秘的な気配。それが、いまのわたしには、纏わりついているらしかった。

 自分では、よく分からない。けれど、みんなの視線が、それを教えてくれていた。


 わたしは、ゆっくりと立ち上がり、湖のほとりまで、歩いていった。

 足元が、まだ少し、おぼつかない。それでも、一歩ずつ、進む。水際に立って、空を見上げた。


 そこには、月があった。


 元の場所へ、元の大きさへ戻った、いつもの月。昨夜、あんなに大きく膨れ上がって、この世界を呑み込もうとした、あの月だ。いまは、何事もなかったみたいに、静かに、朝の空に浮かんでいる。


 人でも、神でも、幽霊でもない。境界を歩く者となった。


 ――それでも。


 帰る場所がある。待っていてくれる者がいる。それだけで、十分だった。二百年前に失ったものを、わたしは、思いがけない形で、もう一度手にしていた。


 わたしは、穏やかに微笑んで、心の中で、そっと呟いた。


 ――ここが、わたしの、帰る場所なのですね。


 朝の月光が、神域を、優しく照らしている。

 風が、桜を揺らす。白蛇たちが、足元で眠る。是雄が、蒼竜が、諏訪様が、須佐之男命が、それぞれの場所で、静かに笑っている。


 長い夜は、明けた。


 神域には、穏やかな風だけが吹いていた。


           完

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― 新着の感想 ―
めちゃくちゃ面白くて一気読みしました! 読めば読むほどに惹き込まれて……完全に語彙力を失いました…… ハラハラドキドキが止まらないし、序盤の村が襲撃されたとき必死に起きてと話しかけるところは心に来るも…
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