第二話 村の影
朝の光が神域の木々を白く縁取っていた。
是雄が背負い袋に干し肉と縄を詰めている。村へ行く支度だ。わたしはその手元をじっと見ていた。
「わたしも、行きたいです」
言ってから、自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。
「だめだとは言わねえよ」
是雄が振り返って笑う。
「ただし、おいらの隣から離れるな」
「はい」
今日は蒼竜も止めなかった。前は何かと理由をつけて引き止めたのに、今朝は黙って草鞋の紐を結び直しているだけだ。
ただ一人、諏訪様だけが石の上に座ったまま、つまらなそうに山の方を眺めていた。
「好きにしろ」
それきり、何も言わない。
わたしは少しだけ、その背に向かって頭を下げてから、是雄の後を追った。
神域を出ると、朝露がまだ草に残っていた。是雄の大きな足跡が、湿った土にぽつぽつと続く。わたしはその半分の歩幅で、必死についていった。
「焦るな。村は逃げねえ」
是雄がそう言って、歩く速さをわざと落としてくれた。
昼前には、村に着いた。
着いてすぐ、胸の奥がざわついた。前に来たときと、何かが違う。
静かなのだ。
人がいないわけではない。井戸端には水を汲む女がいるし、軒下には筵を干す老人がいる。
けれど、子供の声がしない。前はあんなに駆け回っていたのに、今日は数えるほどしか見えない。
犬が一匹、塀の角でしきりに鼻を鳴らしていた。落ち着きなく前足を踏み替えている。尻尾は、足の間に丸め込まれていた。
そして大人たちが、ふとした拍子に、みんな同じ方を見る。
山だ。誰もが、何度も山を見上げていた。
「何か……変です」
わたしは小声で言った。
「皆、そう思ってる」
是雄も、声をひそめて答えた。
それでも、婆さまたちは違った。
わたしの姿を見つけるなり、まるで雀のように寄ってくる。
「おや、また来たのかい」
「ほら、飴をおあがり」
しわだらけの手で、わたしの手のひらに小さな飴玉が乗せられる。べつの婆さまがわたしの頭を撫で、もう一人が籠から菜っ葉を取り出して押しつけてくる。
「持っていきな。痩せっぽちなんだから」
わたしは、なんだか妙にくすぐったい。こういうものを、二百年もらったことがなかった。飴の甘さよりも、頭を撫でる手のほうが、ずっと温かかい。
けれど、交わされる言葉は前と違っていた。
「夜は出るんじゃないよ」
「山がね、騒がしいんだよ」
「猟師まで怖がっとるんだから」
「昔は、こんなこと無かったんだけどねぇ」
わたしは、飴玉を握る手に少し力を込めた。
「……何か、いるんですか」
婆さまたちは顔を見合わせて、それから声を立てて笑った。
「大丈夫さ」
「神様もいてくださるしね」
「心配ばっかりしてたら、飯がまずくなるよ」
その笑い方があんまり大きいので、わたしもつられて笑ってしまった。
昼を過ぎて、村の男たちが寄り合っているのを見た。
猟師がいた。木こりがいた。鍬を担いだ農夫もいた。
「足跡を見た」
「獣じゃねえ。あんな大きいのは、いねえ」
「途中で、ふっと消えてやがった」
「夜になると、山の中腹に灯が見えるんだ」
猟師は、火を見たことなど一度もない場所だと言った。木こりは、けものの通り道がここ十日でぜんぶ変わったと話した。
「鹿が逃げた。猪も逃げた。あいつらは、おれたちより先に逃げるんだ」
農夫が、低い声でそう締めくくった。
是雄は黙って聞いていた。蒼竜も口を結んだまま。
消えた足跡。山の灯。それがどうして、こんなに大人たちの顔を曇らせるのか。
そのとき、村の奥で声が上がる。
「また鶏小屋がやられた!」
駆けつける。是雄がわたしの手を引いた。
鶏小屋の前で、村人が幾人も固まっていた。覗き込んで、わたしは思わず息を止めた。
鶏が、何羽も死んでいた。血だまり。飛び散った羽。板に刻まれた深い爪痕。
こういうものを、わたしは初めて間近で見た。首筋を冷たいもので撫でられたような気がした。
白い羽が一枚、風に舞って足元に落ちた。先端が赤く濡れていた。
「気分が悪いか」
是雄が肩を軽く叩く。わたしは首を横に振った。本当は、振りたくなかった。けれど、ここで弱音を吐いてはいけない気がした。
蒼竜が一人、その前にしゃがんだ。指で土をなぞり、白い羽を一枚つまみ上げ、光に透かす。
そして、ごく小さな声で言った。
「妖です」
その声は、是雄にだけ届いた。わたしの耳には入らなかった。
「数は」
是雄が低く尋ねる。
「増えております」
二人の表情が、同じように曇った。
わたしだけが、また置いていかれた気がした。
昼餉は、村人たちと一緒だった。みんな、前と同じように優しかった。
「ほら、食べな」
婆さまが、わたしの椀に芋を山ほど盛る。
「痩せっぽちなんだから。ちゃんと食わなきゃ、大きくなれないよ」
わたしは笑った。芋を口に運びながら、ふと思った。
もし、あの妖というものが、ここに出たら。
この笑っている婆さまたちは、どうなるのだろう。
妖というのは、ただ鶏を襲うだけのものではない。人を、襲うものなのだ。
二百年、誰かが死んでも、わたしには遠い出来事だった。
けれど今は違う。この温かい椀も、この皺だらけの手も、失われるということが、ようやく胸に届いた。
芋を口に運んでも、味がしなかった。
帰りは、夕暮れだった。
空が、熟れた柿のような色をしていた。
婆さまたちが手を振ってくれる。わたしも振り返した。
その中に、いちばんよく話しかけてくれた婆さまがいた。背が低くて、目尻のしわが深い人だ。
「またおいで」
「今度は団子を作っとくからね」
わたしは、嬉しくて何度もうなずいた。団子がどんな味なのか、わたしは知らなかった。だからこそ、よけいに楽しみだった。
神域に戻ってから、是雄がぽつりと言った。
「しばらく、村に顔出す回数を増やす」
「賛成です」
蒼竜が、すぐに応じた。その声には、めずらしく迷いがなかった。
諏訪様は、何も言わなかった。
「諏訪様。村の人たちは、大丈夫でしょうか」
諏訪様はしばらく黙っていた。それから、前を向いたまま、ぽつりと言った。
「知らぬ」
思わず目を瞬いた。
「だが、朕の領分だ」
言葉は短かく、その横顔はいつもよりずっと険しかった。
その夜、わたしは眠れなかった。
目を閉じると、村が浮かんだ。飴をくれた婆さま。芋を盛ってくれた手。少ないながらも駆け回っていた子供たち。団子を約束してくれた、あの背の低い婆さま。
布団が汗ばむ。寝返りを打つ。
団子という言葉が、なぜだか胸に引っかかっていた。食べたことのない味を、わたしはもう楽しみにしている。明日も、明後日も、あの村は当たり前にそこにあると、心のどこかで決めつけていた。
そのとき。
遠くから、かすかに、悲鳴が聞こえた気がした。
わたしは跳ね起きた。息を詰めて、耳をすます。心の臓が、痛いほど鳴っていた。
けれど、もう何も聞こえない。
ただ、風が吹いているだけだった。
木の葉が、さらさらと鳴っていた。気のせいだ、と自分に言い聞かせて、わたしはもう一度横になった。それでも、目はなかなか閉じなかった。
◇
森の奥。
月の届かない木々の間で、人ではない影が、ゆっくりと動いていた。
影は、村の灯を見下ろす場所で、いちど立ち止まった。
それから、また音もなく動きだした。
ふもとへ向かって。




