表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/9

第一話 夜の足音

 村から帰って、数日が過ぎた。


 わたしは、よく村のことを考えるようになった。壊れたままの橋や、崩れた畑。

 腰を低くして村人の話を聞いていた、あの公家。子供たちの、小さな手。婆さまたちの、にぎやかな声。

 目を閉じれば、村の温もりが、まだそこに残っている気がした。色々なものを、思い出す。


 何か出来るようになりたい。その思いは、日ごとに大きくなっていた。

 けれど、何をどうすればいいのかは、相変わらずわからないままだった。


 何か出来るようになりたい。そう思うのに、何をすればいいのかはわからなかった。それでも、諦めきれなかった。せっかく、人になれたのだから。


 その夜のことだった。


 見回りから帰ってきた是雄が、いつもより難しい顔をしていた。囲炉裏の前に腰を下ろして、火を見つめたまま、ぽつりと言う。


「……最近、おかしいんだよな」

「おかしい?」


 わたしは、汁椀を持つ手を止めて、首をかしげた。是雄が、こんなふうに言いよどむのは、めずらしい。


「夜中に、森で足音がするんだ。獣のものじゃねえ。もっと、なんつうか……ぞわっとする音だ」


 是雄は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。


「村人も、何人か聞いてるらしい。犬が、夜通し吠える日があるってよ。鶏が、朝になったら一羽もいなくなってたって家もある」


 わたしは、祠のほうを見た。諏訪様は、いつものように壁にもたれて座っている。何も言わない。

 けれど、その目は、じっと闇のほうを見ていた。いつもの気だるげな様子とは、どこか違う。瞬きの少ない、研ぎ澄まされた目だった。

 蒼竜も、わずかに眉を寄せていた。腕を組んで、耳を澄ますように、森の気配を探っている。


 足音くらいで、そこまで警戒するものなのだろうか。

 けれど、是雄の横顔は、いつになく硬かった。


「ちょっと、見てくる」


 是雄が立ち上がった。腰の刀に、手を添えている。


「わたしも行きます」

「駄目だ」


 即答だった。


「でも」

「お前はここにいろ。何があるかわからねえんだ」


 蒼竜も、静かに立ち上がる。


「私が同行します。姫様は、神域においでください。ここなら、諏訪殿の結界がある」


 認めたくはないが、という顔で、蒼竜が付け加えた。


「わたしだって――」

「なりません」


 二人とも、取りつく島もなかった。わたしは、口をつぐむしかなかった。


 結局、是雄と蒼竜が森へ向かい、わたしは諏訪様と神域に残された。


 二人の背中が、闇に消えていく。松明の灯が、木々の間で小さくなって、やがて見えなくなった。わたしは、桜の根方に座って、それを見送った。


 何も出来ない。また、待っているだけだ。膝を抱えて、わたしは小さく息をついた。是雄や蒼竜が危ない目に遭うかもしれないのに、わたしはここで、ただ無事を祈ることしかできない。手のひらを、ぎゅっと握る。爪が、皮膚に食い込んだ。


「不満そうだな」


 諏訪様が、ぽつりと言った。


「……いえ」


 嘘だった。守られてばかりの自分が、嫌だった。けれど、それを口にしたところで、どうにもならないこともわかっていた。

 諏訪様も、わたしの嘘を見透かしているようだったけれど、それ以上は何も言わなかった。

 ただ、ほんの少しだけ、わたしのほうへ身を寄せた気がした。気のせいかもしれない。


 しばらく、静かな時間が流れた。

 虫の音もしない、奇妙な夜だった。いつもなら、どこかで蛙が鳴き、風が葉を鳴らす。それが、今夜はすべて止まっていた。湖面は、鏡のように動かない。桜の花だけが、闇の中でぼうっと光っている。世界から、音が抜け落ちてしまったようだった。


 ――そのときだった。


 遠くで、音がした。

 木が、倒れる音。地響きのような、低い衝撃。それから、獣の悲鳴のような、引き裂かれた鳴き声。一度、二度。そして、ふっつりと途切れた。

 わたしは、思わず立ち上がった。


「是雄……蒼竜……」


 胸が、ざわつく。何が起きているのか、わからない。わからないことが、何より怖かった。あの悲鳴は、獣のものなのか。それとも、是雄たちのほうが――考えかけて、わたしは頭を振った。

 諏訪様を見ても、その横顔は、何も語らない。ただ静かに、森のほうを見据えているだけだった。その落ち着きが、かえってわたしを不安にさせた。


 どれくらい経っただろう。

 森のほうから、足音が近づいてきた。

 是雄と、蒼竜だった。


 わたしは、駆け寄ろうとして――足を止めた。


 蒼竜の着物の袖に、黒い染みが広がっていた。その黒い染みを見て、息を飲んだ。返り血のように、点々と散っている。是雄も、いつもより疲れた顔をしていた。肩で、息をしている。


「何が……何があったんですか」


 わたしは、震える声で尋ねた。


「妖だよ」


 是雄が、汗を拭いながら答えた。


「森の奥にいた。一匹だけだったが」

「あやかし……?」


 聞いたことはあった。物語の中の、人を喰らうという、恐ろしいもの。けれど、見たことはない。今、是雄の口から出たその言葉も、どこか遠くのことのように感じられた。わたしには、まだ実感がなかった。


「下位の妖です」


 蒼竜が、袖の血を払いながら言った。


「大したものではありません。私が、片付けました」


 その口ぶりは、淡々としていた。まるで、道端の小石をどけたとでもいうように。瞬く間に斬り伏せたのだろう。わたしは、その場面を見ていない。

 どんな姿をしていたのか、どれほど恐ろしかったのか、本当のところは、よくわからなかった。袖についた血だけが、そこで何かが起きたことを、静かに告げていた。

 ただ、二人の張り詰めた様子から、これがただ事ではないことだけは、伝わってきた。


「一匹だけなら、いい」


 是雄が、火のそばに座り込んだ。


「たまにいるんだ、こういうのは。問題は――」


 そこで、是雄の言葉が止まった。諏訪様が、口を開いたからだ。


「……増えている」


 低い、静かな声だった。

 是雄の顔が、変わった。火を見つめていた目が、諏訪様のほうを向く。


「神様、それ、どういう意味だ」


 諏訪様は、もう何も言わなかった。蒼竜も、無言だった。ただ、二人とも、同じ方向を――森の奥を、見ていた。


 わたしには、その言葉の意味が、よくわからなかった。増えているって何が。なぜ、どうして? 

 今まで一匹だったものが、これから幾つにもなる、ということだろうか。問いかけようとしたけれど、二人の張り詰めた横顔を見ると、声が出なかった。


 その夜。

 風はないのに、森の奥で、木々が揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ