第一話 夜の足音
村から帰って、数日が過ぎた。
わたしは、よく村のことを考えるようになった。壊れたままの橋や、崩れた畑。
腰を低くして村人の話を聞いていた、あの公家。子供たちの、小さな手。婆さまたちの、にぎやかな声。
目を閉じれば、村の温もりが、まだそこに残っている気がした。色々なものを、思い出す。
何か出来るようになりたい。その思いは、日ごとに大きくなっていた。
けれど、何をどうすればいいのかは、相変わらずわからないままだった。
何か出来るようになりたい。そう思うのに、何をすればいいのかはわからなかった。それでも、諦めきれなかった。せっかく、人になれたのだから。
その夜のことだった。
見回りから帰ってきた是雄が、いつもより難しい顔をしていた。囲炉裏の前に腰を下ろして、火を見つめたまま、ぽつりと言う。
「……最近、おかしいんだよな」
「おかしい?」
わたしは、汁椀を持つ手を止めて、首をかしげた。是雄が、こんなふうに言いよどむのは、めずらしい。
「夜中に、森で足音がするんだ。獣のものじゃねえ。もっと、なんつうか……ぞわっとする音だ」
是雄は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「村人も、何人か聞いてるらしい。犬が、夜通し吠える日があるってよ。鶏が、朝になったら一羽もいなくなってたって家もある」
わたしは、祠のほうを見た。諏訪様は、いつものように壁にもたれて座っている。何も言わない。
けれど、その目は、じっと闇のほうを見ていた。いつもの気だるげな様子とは、どこか違う。瞬きの少ない、研ぎ澄まされた目だった。
蒼竜も、わずかに眉を寄せていた。腕を組んで、耳を澄ますように、森の気配を探っている。
足音くらいで、そこまで警戒するものなのだろうか。
けれど、是雄の横顔は、いつになく硬かった。
「ちょっと、見てくる」
是雄が立ち上がった。腰の刀に、手を添えている。
「わたしも行きます」
「駄目だ」
即答だった。
「でも」
「お前はここにいろ。何があるかわからねえんだ」
蒼竜も、静かに立ち上がる。
「私が同行します。姫様は、神域においでください。ここなら、諏訪殿の結界がある」
認めたくはないが、という顔で、蒼竜が付け加えた。
「わたしだって――」
「なりません」
二人とも、取りつく島もなかった。わたしは、口をつぐむしかなかった。
結局、是雄と蒼竜が森へ向かい、わたしは諏訪様と神域に残された。
二人の背中が、闇に消えていく。松明の灯が、木々の間で小さくなって、やがて見えなくなった。わたしは、桜の根方に座って、それを見送った。
何も出来ない。また、待っているだけだ。膝を抱えて、わたしは小さく息をついた。是雄や蒼竜が危ない目に遭うかもしれないのに、わたしはここで、ただ無事を祈ることしかできない。手のひらを、ぎゅっと握る。爪が、皮膚に食い込んだ。
「不満そうだな」
諏訪様が、ぽつりと言った。
「……いえ」
嘘だった。守られてばかりの自分が、嫌だった。けれど、それを口にしたところで、どうにもならないこともわかっていた。
諏訪様も、わたしの嘘を見透かしているようだったけれど、それ以上は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、わたしのほうへ身を寄せた気がした。気のせいかもしれない。
しばらく、静かな時間が流れた。
虫の音もしない、奇妙な夜だった。いつもなら、どこかで蛙が鳴き、風が葉を鳴らす。それが、今夜はすべて止まっていた。湖面は、鏡のように動かない。桜の花だけが、闇の中でぼうっと光っている。世界から、音が抜け落ちてしまったようだった。
――そのときだった。
遠くで、音がした。
木が、倒れる音。地響きのような、低い衝撃。それから、獣の悲鳴のような、引き裂かれた鳴き声。一度、二度。そして、ふっつりと途切れた。
わたしは、思わず立ち上がった。
「是雄……蒼竜……」
胸が、ざわつく。何が起きているのか、わからない。わからないことが、何より怖かった。あの悲鳴は、獣のものなのか。それとも、是雄たちのほうが――考えかけて、わたしは頭を振った。
諏訪様を見ても、その横顔は、何も語らない。ただ静かに、森のほうを見据えているだけだった。その落ち着きが、かえってわたしを不安にさせた。
どれくらい経っただろう。
森のほうから、足音が近づいてきた。
是雄と、蒼竜だった。
わたしは、駆け寄ろうとして――足を止めた。
蒼竜の着物の袖に、黒い染みが広がっていた。その黒い染みを見て、息を飲んだ。返り血のように、点々と散っている。是雄も、いつもより疲れた顔をしていた。肩で、息をしている。
「何が……何があったんですか」
わたしは、震える声で尋ねた。
「妖だよ」
是雄が、汗を拭いながら答えた。
「森の奥にいた。一匹だけだったが」
「あやかし……?」
聞いたことはあった。物語の中の、人を喰らうという、恐ろしいもの。けれど、見たことはない。今、是雄の口から出たその言葉も、どこか遠くのことのように感じられた。わたしには、まだ実感がなかった。
「下位の妖です」
蒼竜が、袖の血を払いながら言った。
「大したものではありません。私が、片付けました」
その口ぶりは、淡々としていた。まるで、道端の小石をどけたとでもいうように。瞬く間に斬り伏せたのだろう。わたしは、その場面を見ていない。
どんな姿をしていたのか、どれほど恐ろしかったのか、本当のところは、よくわからなかった。袖についた血だけが、そこで何かが起きたことを、静かに告げていた。
ただ、二人の張り詰めた様子から、これがただ事ではないことだけは、伝わってきた。
「一匹だけなら、いい」
是雄が、火のそばに座り込んだ。
「たまにいるんだ、こういうのは。問題は――」
そこで、是雄の言葉が止まった。諏訪様が、口を開いたからだ。
「……増えている」
低い、静かな声だった。
是雄の顔が、変わった。火を見つめていた目が、諏訪様のほうを向く。
「神様、それ、どういう意味だ」
諏訪様は、もう何も言わなかった。蒼竜も、無言だった。ただ、二人とも、同じ方向を――森の奥を、見ていた。
わたしには、その言葉の意味が、よくわからなかった。増えているって何が。なぜ、どうして?
今まで一匹だったものが、これから幾つにもなる、ということだろうか。問いかけようとしたけれど、二人の張り詰めた横顔を見ると、声が出なかった。
その夜。
風はないのに、森の奥で、木々が揺れていた。




