第五話 閉じた神域
村へ行った、翌朝のことだった。
わたしの胸には、まだ昨日の余韻が残っていた。賑やかな声。子供たちの手の温もり。婆さまたちにもらった飴の甘さ。目を閉じると、村の音がよみがえってくる。また行きたい、と思う。
けれど同時に、何も出来なかった、という小さな痛みも、しこりのように胸の底に残っていた。
朝餉のとき、是雄が村の様子を話してくれた。
「橋はまだ直りきってねえな。畑も、見た感じ大変そうだった。秋までに元に戻るかどうか」
「そう……ですか」
わたしは、少し気になった。あの優しい人たちが、今も困っている。何か、できないだろうか。考えても、何も浮かばなかったけれど。
そこへ、山道を駆け上がってくる足音がした。村の若者だった。膝に手をついて、息を切らしながら、是雄に告げる。
「是雄さん、大変だ。お役人様が、村にお見えになった。地震の被害を調べに来たそうで」
是雄が、ぴたりと固まった。箸を持つ手が、宙で止まっている。汁椀から、湯気が細く立ちのぼっていた。
わたしには、何のことかよくわからなかった。役人、というのが、どういうものなのか。村人が、なぜそんなに慌てるのか。
「役人は、面倒なんだよ」
是雄が、低く唸った。
「変なものが見つかると、根掘り葉掘り聞いてくる。神域のことなんか知られたら、厄介どころじゃ済まねえ」
そのとき、蒼竜がじっとわたしを見た。
銀色の髪。青磁色の瞳。――わたしの、今の姿だ。体を得てから、わたしの髪も瞳も、人とは違う色をしている。鏡を見るたび、これが本当に自分なのかと、まだ落ち着かない。
「まずいな。昨日は村だけだったからいい。だが役人は違う」
是雄が、額に手を当てた。
「尊さま、そのままじゃ目立ちすぎる。役人の目に触れたら、ただじゃ済まねえ」
是雄は懐から術符を取り出すと、わたしの額にぺたりと貼った。指先から、ほのかな熱が伝わる。淡い光が、ふわりと走った。
ついでに、蒼竜にも貼る。
「これでよし」
わたしは、近くの水鏡を覗き込んだ。銀色だった髪が、黒く。青磁色の瞳が、栗色に変わっている。ごく普通の、どこにでもいる村娘のような姿だった。
思わず髪に触れる。触れても色は変わったまま。
「すごいです!」
わたしは、思わず声をあげた。是雄が、少し得意げに鼻を鳴らす。
蒼竜が、その術をじっと見ていた。そして、ひとこと。
「雑ですね」
「は?」
是雄が、こめかみをひくつかせた。
「変わってんだろうが! ちゃんと黒髪になってるだろうが! ついでにお前もな」
「変われば良いというものではありません。境目が、わずかに揺らいでおります。よく見れば、銀の色が透けて見える。私ならば、もっと精緻に仕上げます」
「うるせえ! だったら最初からお前がやれってんだ!」
「私が触れるのは、姫様に無礼でしょう」
「そういう問題か! 髪も瞳も隠れてりゃ十分だろうが!」
「十分と、最良は違います」
二人の言い合いが始まった。わたしは、ちょっと面白くなって、つい見入ってしまった。
蒼竜が、是雄相手だと妙に子供っぽくなる。
「……騒がしい」
諏訪様の、ひとことで、それは終わった。二人とも、ばつが悪そうに口をつぐむ。
わたしたちは、村へ向かった。
役人は、すでに到着していた。物々しい一行だった。
その中心に、ひとりの公家がいた。二十代の後半か、三十そこそこ。物腰が穏やかで、真面目そうな顔をしている。
村人の話に、丁寧に耳を傾けて、紙に書き残している。
わたしは、初めて見る役人に、初めて見る公家に、少し興味津々だった。物陰から、つい身を乗り出して覗き込んでしまう。
その公家が、ふと、わたしに気づいた。
「見ない顔だな」
穏やかだが、まっすぐな視線だった。わたしは、どう答えていいかわからず、固まった。心臓が、跳ねる。
「あー、こいつは。おいらの、親戚で」
是雄が、慌てて前に出る。
「ほう。どこの生まれだ?」
「その……えっと……」
是雄が、言葉に詰まった。目が泳いでいる。完全に、行き詰まっていた。
そのとき、蒼竜が、聞こえよがしに盛大なため息をついた。
「――失礼いたしました」
蒼竜は、優雅に一礼すると、滑らかに語り始めた。遠縁の娘が事情あって身を寄せていること、自分たちが付き添いであること。嘘とも本当ともつかない話を、よどみなく、自然に紡いでいく。
貴人の前での振る舞いに、慣れているのが見て取れた。
公家は、得心したように頷いた。わたしは、思わず蒼竜を見上げた。
「すごい……」
蒼竜は、当然だという顔をしていた。
ところが、公家の視線が、今度は諏訪様へ向いた。
「ところで、あちらの御仁は?」
諏訪様は、無言だった。腕を組んだまま、こちらを見もしない。
公家が、戸惑いながらも、もう一度尋ねる。
「失礼ながら、お名前を伺っても?」
「……諏訪だ」
それだけだった。それ以上、何も言うつもりはないらしい。
公家は、困惑した顔をした。是雄は頭を抱え、蒼竜は諦めたような表情を浮かべている。
わたしは、笑いをこらえるのに必死だった。諏訪様は、どこまでも諏訪様だ。
調査は、つつがなく終わった。
公家は、帰り支度を整えると、わたしのところへ来た。
「村の者から聞いた。すっかり人気者らしいな」
「え、あ……」
わたしは、顔が熱くなった。公家が、ふっと、少しだけ笑う。その柔らかな笑みで、この人が悪い人ではないことが、伝わってきた。
「村を、頼む。あの者たちは、よい村人だ」
そう言い残して、公家は背を向けた。役人たちは、馬を連ねて去っていった。蹄の音が、だんだん遠ざかっていく。土埃が、夕日の中で金色に光っていた。
わたしは、その背中が見えなくなるまで、見送っていた。
帰り道、わたしは色々なことを思い出していた。役人のこと。公家のこと。村人のこと。橋を直す人。畑を耕す人。それを守ろうとする人。
人の世界は、わたしが思っていたよりも、ずっと広くて、ずっとたくさんの人が、それぞれの場所で生きていた。
けれど――わたしは、また、何も出来なかった。
橋も、畑も、手伝えなかった。役人の前では、蒼竜に助けられるばかりだった。
誰かの役に立つどころか、足を引っ張らないようにするので精一杯だった。
少し、沈んだ。
「また考えてるな」
是雄が、横から覗き込んできた。
「……わたしだけ、何も出来ません」
「お前はお前だろ」
「姫様が、そのようなことをなさる必要はありません」
「吾子は吾子だ」
三人とも、それぞれ何か言ってくれた。でも、どれも、わたしの欲しい答えではなかった。
その夜、わたしは桜の下に、ひとりで座っていた。
花が、闇の中で淡く光っている。風が、静かに枝を揺らす。花びらが一枚、膝の上に落ちた。指でつまむと、ひんやりと冷たい。この冷たさを感じられることが、少し前までは夢のようだったのに。
今は、それだけでは足りなくなっている。欲張りになったのかもしれない。
また、守られるだけ。見ているだけだった。
それが、胸の奥に小さな悔しさが残った。




