第四話 村へ
翌日、是雄が村へ行くと言い出した。橋の修理を手伝う約束があるらしい。
「わたしも行きたい」
わたしがそう言うと、蒼竜がすぐに首を振った。
「なりません。姫様を、人の多い場所へなど」
「ならぬ」
諏訪様も、めずらしく蒼竜と同じことを言う。
「吾子は神域にいればよい」
二人が反対するのは、わかっていた。けれど、是雄は腕を組んで少し考えてから、にっと笑った。
「まあ、少しくらいいいだろ。おいらもいるし、こいつもいる。神様も来ればいい」
「私は行かない」
「お前は来るんだよ」
結局、四人で村へ向かうことになった。諏訪様は、最後まで不機嫌だった。
◇
村に着いて、わたしは立ち止まった。
匂いがした。土と、煮炊きの煙と、家畜の匂い。
人の声が、あちこちから聞こえる。笑い声。子供が走る足音。犬が吠えて、鶏が鳴いている。
全部、新しかった。二百年、神域の静けさの中にいたわたしには、何もかもが眩しかった。
「すごい……」
わたしは、思わずきょろきょろした。是雄が、その様子を見て笑う。
「田舎の村だぞ。そんなに珍しいか」
「珍しい。全部、初めてだよ」
蒼竜は、油断なく周囲を警戒していた。諏訪様は、相変わらず不機嫌な顔で腕を組んでいる。
――そのときだった。
「まあまあ、可愛い娘さんだこと!」
いつの間にか、村の婆さまたちに囲まれていた。
「どこの娘だい? 見ない顔だねえ」
「髪が綺麗だこと。艶々して」
わたしが返事をする間もなく、頭を撫でられ、飴を握らされ、野菜を腕いっぱいに持たされた。されるがままだった。
蒼竜の眉が、ぴくぴくと動いている。さらに不機嫌になっていた。諏訪様は、もっと不機嫌だった。是雄だけが、腹を抱えて笑っている。
「は、はは、尊さま、大人気だな」
「是雄、助けて」
「無理だな。婆さまたちには勝てねえ」
婆さまたちが去ったかと思うと、今度は子供たちが駆けてきた。
「ねえ、遊ぼう!」
「え、あの」
わたしが戸惑っているうちに、子供たちはわたしの手を引いて走り出した。追いかけっこが始まる。逃げて、追われて――わたしは足がもつれて、転んだ。
地面に手をついて、膝を擦りむく。
「大丈夫?」
子供たちが、心配そうに覗き込んできた。小さな手が、わたしの腕を引っ張って、立たせようとしてくれる。
わたしは、少しだけ嬉しくなった。誰かに心配される。手を差し伸べられる。そんなことが、こんなにあたたかいなんて、知らなかった。
◇
村のはずれに、壊れた橋があった。地震で落ちたのだという。村人が総出で、修理にあたっていた。
蒼竜が、無言で丸太に近づいた。村人たちが数人がかりで運んでいたそれを、片手で軽々と持ち上げる。
「なんと――」
村人たちが、目を丸くした。
「兄ちゃん、すげえ力だな!」
蒼竜は何も言わず、丸太を運んでいく。是雄も腕まくりをして、石を運び始めた。
わたしも、手伝いたかった。
足元の石を、両手で持ち上げようとする。重い。びくともしない。顔が熱くなるほど力を込めても、持ち上がらなかった。
「無理すんな、お嬢ちゃん」
近くの村人が、笑って言った。悪気がないことはわかっていた。
けれど、その優しさが少しだけ痛かった。
「だから言ったろ」
是雄が、汗を拭いながらこちらを見る。
「姫様は、休んでいてください」
蒼竜も。
「吾子がやる必要はない」
諏訪様まで。
……また、同じだった。
わたしは、石を置いた。
村人が働いている。是雄が、蒼竜が、汗を流している。わたしだけが、何もできずに、ただ見ている。
二百年間、わたしはずっと見ているだけだった。桜が咲くのも、散るのも、是雄が来るのも、帰るのも。
ようやく、人になれた。手も足も、心臓も、ちゃんとある。なのに――また、見ているだけだった。
◇
昼になって、村人が握り飯と汁物を分けてくれた。
「ほら、食いな。手伝ってくれた礼だ」
わたしは、初めて村の飯を食べた。麦の混じった握り飯と、野菜の汁。温かくて、塩気があって、美味しかった。
皆が、わたしを囲んで、笑っている。優しい人たちだった。
楽しかった。また来たいと思った。
こんなふうに人と囲んで飯を食べるのが、こんなに嬉しいものだとは知らなかった。
笑い返したのに、胸の奥だけが少し重かった。
是雄が、それに気づいた。
「どうした。浮かない顔して」
わたしは、少し迷ってから、言った。
「皆さん、優しいです」
「ああ」
「でも、わたしは……何もしていません。野菜をもらって、ご飯までもらって。何も、返せていない」
是雄は、少し考えてから、握り飯を頬張って言った。
「別に、何もしなくてもいいだろ」
「でも」
「お前がいるだけで、皆笑ってる。それじゃ駄目か」
わたしは、納得できなかった。それでも、是雄もそれ以上は、うまく言えないようだった。
◇
帰り道、空は夕暮れに染まっていた。
村人たちが、手を振って見送ってくれた。
「また来な!」
「今度は団子持ってきてやるからな」
「お嬢ちゃん、もっと身体を鍛えなきゃ駄目だよ!」
わたしも、笑って手を振り返した。
神域への山道を登っていく。その途中、後ろから村人同士の話し声が、風に乗って聞こえてきた。
「……なあ、最近、山がおかしかねえか」
「ああ。妙な灯が見えたって話だ」
「獣じゃねえ足音がするって、猟師が言ってた」
わたしは、少しだけ足を止めた。けれど、すぐに是雄に促されて、また歩き出した。話の続きは、聞こえなかった。
神域に戻ったころには、すっかり日が暮れていた。
桜の根方に腰を下ろして、わたしは言った。
「今度は、わたしも、何か出来るようになりたいです」
「必要ない」
諏訪様が、即座に言う。
「姫様は、姫様です」
蒼竜も。
「まずは、転ばずに歩けるようになれ」
是雄が、にやりと笑った。
「……うるさいです」
ふっと、小さな笑いが起きた。
何か、出来るようになりたい。守られるだけじゃなくて。
誰かのために。




