1第三話 襲撃
体を得てから、数日が経った。
わたしは、ようやく体を動かせるようになっていた。といっても、まだ慣れない。歩けば転ぶ。少し動けば疲れる。手足が、思ったように動いてくれない。指先まで自分のものだという感覚が、どうにも掴めなかった。
それでも、幽霊の時は感じられなくて、嬉しかった。転んで地面に手をつくと、じんわり痛みが走る。それが、生きてるって実感だった。
神域の奥では、蒼竜が依月の墓を作っていた。
――蒼竜、というのが、あの青年の名だった。落ちてきた翌日、是雄に問われて、ぶっきらぼうにそう答えた。それ以上は何も語らなかったけれど。
木を切り倒し、石を運び、土を盛る。ずっと無言だった。汗も拭わず、ただ黙々と手を動かしている。その背中に、声をかけられる空気はなかった。
一方、是雄は大穴を埋めていた。蒼竜が落ちてきたときの、あの抉れた地面だ。
「くそ、なんでおいらがこんなことを」
是雄が泥まみれで愚痴る。
「おい、お前も手伝えよ。お前が落っこちて空けた穴だろ」
「興味ありません」
蒼竜は振り向きもしない。
「興味の問題じゃねえ。村から見えるんだよ、ここ。このままじゃ地震跡だと思われて、人が登ってくる」
「ならば貴殿が埋めればよろしい」
「お前なあ……」
わたしは、その様子を桜の根方から見ていた。手伝いたかった。
立ち上がって、石をひとつ持とうとした。
「危ない。尊さま、座ってろ」
「でも、わたしは」
「姫様は座っていてください」
蒼竜が、ようやくこちらを見て言った。
「姫様じゃない」
「ですが、姫様です」
……この問答は、もう何度目だろう。わたしは少しイラッとした。何を言っても「ですが姫様です」で返ってくる。
諏訪様が、祠の陰から口を開いた。
「吾子がやる必要はない」
「でも、わたしだけ何もしないのは」
「ない」
それで、終わりだった。わたしは石を置いて、また座った。
三人とも、戦える。働ける。役に立つ。わたしだけが、何もできない。守られて、座らされて、ただ見ているだけ。胸の奥が、ちりちりと痛んだ。
是雄が、泥を払いながら近づいてきた。
「そんな顔すんな。村の話でもするか」
「村?」
「ああ。尊さまが落ちてきたとき、地面が揺れただろ。あれ、村まで届いたんだとよ。橋が壊れて、畑も崩れたって。皆、地震だと思って大騒ぎだ」
わたしは、顔を上げた。
村、橋、畑――人の暮らし。今まで、是雄の話で聞くだけだった現世。一度も、見たことがなかった。二百年、わたしはこの神域から出たことがない。
初めて、見てみたいと思った。
◇
その日の午後、皆それぞれ仕事に戻っていた。是雄は大穴、蒼竜は墓。わたしは、暇になった。
神域の境界まで、歩いてみることにした。受肉した今、どこまで動けるのか、確かめたくもあった。
諏訪様が、いつの間にか後ろをついてきていた。
「ひとりで行かせるわけにいかぬ」とだけ言う。
境界の近くまで来ると、木々の隙間から、下界が見えた。
遠くに、村があった。崩れかけた橋。土の崩れた畑。家々から、細く煙が上がっている。人が、動いている。小さく、けれど確かに、生きて暮らしている。
わたしは、しばらく見入っていた。あそこに、人の生活がある。わたしが知らなかった世界が。
人が歩いていた。
橋のたもとで、誰かが木材を運んでいる。崩れた畑では、鍬を持った人たちが土を起こしていた。子どもが走り、大人が声を掛け合う。
小さすぎて顔までは見えない。それでも、生きていることだけはわかった。
二百年前、都には人がいた。父上がいて、母上がいて、供たちがいた。
けれど、それはもう遠い。わたしの知る誰も、きっとここにはいない。
それなのに、不思議だった。寂しいとは思わなかった。むしろ、嬉しかった。
人がいる。
笑っている。
働いている。
生きている。
その当たり前のことが、どうしようもなく嬉しかった。
思わず、一歩だけ前へ出る。もっと近くで見てみたい。もっと知りたい。
今まで是雄の話でしか知らなかった世界を。
諏訪様は少し離れた場所で、山の向こうを見ていた。
わたしの姿が見えなくなるほどではない。けれど、手を伸ばして届く距離でもなかった。
――そのときだった。
背後で、草を踏む音がした。
振り返ると、男たちがいた。数人。薄汚れた身なりで、手に刃物を持っている。神域とも知らずに、迷い込んできたらしい。盗掘か、山賊か。目つきが、よくなかった。
男のひとりが、わたしを見て、にやりと笑った。
「おい、見ろよ。娘だ」
「身なりがいい。どこぞの姫さんか?」
「売れるな。身代金にもなる」
男が、近づいてくる。わたしは後ずさったが、足がもつれて、うまく逃げられない。腕を掴まれた。喉元に、冷たい刃を突きつけられる。
「動くなよ、お嬢さん」
わたしは、息を呑んだ。怖かった。心臓が、痛いほど跳ねている。
そのとき——空気が、変わった。
諏訪様は、怒鳴らなかった。騒ぎもしない。表情ひとつ変えていない。ただ、静かに男たちを見ていた。
その静けさが、何より恐ろしかった。
地面が、揺れ始めた。ゆっくりと、低く。湖の方から、波立つ音が響いてくる。森が、唸るように軋んだ。空気が、ずしりと重くなっていく。息が、しづらい。
「な、なんだ」
「地震か?」
男たちが、慌てて周囲を見回す。
諏訪様は、無言だった。ただ、その目だけが、冷えきっていた。
異変に気づいたのだろう。森の奥から、是雄と蒼竜が駆けてきた。
二人は、刃物を突きつけられたわたしを見て、顔色を変えた。是雄が激昂した。
「尊さま! てめえら、何してやがる!」
蒼竜は、それ以上だった。
「――その方から、手を離せ」
声が、低く、震えていた。蒼竜の目が変わっていた。
諏訪様が、静かに片手を上げた。
地面が裂けた。白いものが、ゆっくりと這い上がってくる。
巨大な、白蛇だった。鱗が神気で淡く光っている。
男たちは悲鳴を上げた。
「ひっ……!」
けれど白蛇は、男たちを見なかった。まっすぐ、わたしの方へ這ってくる。
足元まで来ると、鼻先を寄せた。
頬。
肩。
腕。
確かめるように、ゆっくりと。
それからようやく、白蛇は鎌首をもたげた。黄金の瞳が、男たちを見下ろす。
男たちは、完全に崩れた。
「ひっ……化け物……!」
刃を投げ捨て、わたしを突き飛ばすようにして、走り出す。
「逃がすか!」
是雄が追う。
蒼竜も、白蛇も、その後を追っていった。森の奥へ、賊の悲鳴が遠ざかっていく。討伐は、すぐに終わるだろう。
あとには、わたしと諏訪様が残された。
賊はいなくなった。なのに、地震は止まらなかった。地面は揺れ続け、空気は重いまま。諏訪様の怒りが、まだ続いているのだ。
わたしは、諏訪様を見た。
怖かった。今まで見たことのない顔だった。けれど、このまま放っておくことは、できなかった。
わたしは、震える声で言った。
「諏訪様」
諏訪様の目が、わたしを向く。
「……ありがとうございます。守ってくださって」
まず、礼を言った。それから、続けた。
「でも、もう——お鎮まりください」
その瞬間だった。
空気が、変わった。
風が、止んだ。揺れていた地面が、すっと静まる。波立っていた湖面が、鏡のように凪いでいく。森の唸りも、消えた。
すべてが、わたしの言葉ひとつで、鎮まった。
諏訪様が、目を見開いた。初めて見る、驚いた顔だった。怒りが、霧のように散っていく。
諏訪様は、しばらく黙っていた。
「……せっかく戻ったのだ」
「え?」
「二百年もかかった」
それだけ言うと、諏訪様は口を閉ざした。
やがて、是雄が戻ってきた。
「片付けたぞ。あいつら、二度と来ねえだろ」
息を切らしながら、辺りを見回す。
「……なんか、収まってんな。何があったんだ?」
「さあ」
わたしも、よくわからなかった。
蒼竜が、遅れて戻ってきた。そして、足を止めた。
わたしを見る。それから、依月の墓を見る。もう一度、わたしを見る。
その目が、わずかに見開かれた。
「……?」
わたしが見返しても、蒼竜は黙ったままだった。




