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第二話 空より来たる者

 その日も、是雄は握り飯を持って山を登ってきた。


 桜の根方に腰を下ろして、わたしの隣に竹皮の包みを置く。中には塩を効かせた握り飯が二つ。是雄の手は大きくて、握り飯はいつも少しいびつだ。


「尊さま、今日は梅も入れといたぞ」

「すっぱいのは苦手だって言ったのに」

「文句言うなら食わせねえぞ」

「食べる」


 是雄が笑う。わたしも笑う。湖の上を風が渡って、桜の花びらが水面に散っていく。祠の陰では諏訪様が腕を組んで座っていた。こちらを見もしない。いつものことだ。


「神様、お前も食うか」

「いらん」

「相変わらず可愛げのねえ神様だな」

「黙れ」


 わたしはそのやりとりを聞きながら、握り飯を見つめた。実際には、ものを食べることも触れることもできない。

 だが、そんなやりとりがとても好きだ。


 二百年、ここにいた。最初は寂しくて、寒くて、どこにも行けなくて、ただ桜を見ていた。けれど今は違う。是雄が来る。諏訪様がいる。桜が咲く。それだけで、もう十分だと思っていた。


 ――そのときだった。


 諏訪様が、ふいに空を見上げた。

 わたしも空を見上げた。是雄も気づいて、口の動きを止める。諏訪の目が、まっすぐ天を睨んでいる。


 風が、止まった。

 さっきまで散っていた花びらが、ぴたりと宙に留まる。湖面が、内側から押されたように揺れた。森のどこかで、鳥が一斉に飛び立つ。羽音が、空気を裂いていく。


「……おい、神様」


 是雄が低く言った。


「これ、なんだ」


 諏訪様は答えない。

 神域そのものが、ざわついていた。地面の下から、何かが這い上がってくるような感覚。わたしは理由がわからなかった。ただ、肌が粟立つ。


 そして、空が鳴った。

 轟音だった。雷ではない。もっと重い、腹の底に響く音。わたしたちの真上、青い空に――亀裂が走った。

 空そのものが、硝子のように割れていく。裂け目の奥は、何も見えないほど暗かった。


「は……?」


 是雄が立ち上がる。

 わたしは動けなかった。ただ、口が開いたまま固まっていた。

 諏訪様だけが、面倒くさそうに目を細めて言った。


「あれか」


 それだけだった。


 次の瞬間、裂け目から何かが落ちてきた。

 青い尾が見えた。長い、青銀の。それから巨大な影が、空を塞ぐようにして落下してくる。風が逆巻く。わたしは思わず腕で顔を覆った。


 影は神域の森に激突した。

 地面が揺れた。立っていられないほどの衝撃。森の木々が、まとめて薙ぎ倒される音。桜の花びらが、爆風で一気に舞い上がった。視界が白く染まる。


 しばらくして、土煙が晴れた。

 森の一角が、抉れていた。


「……行ってくる」


 是雄が刀の柄に手をかけて言った。


「わたしも行く」

「尊さま、ここにいろ」

「いやだ。一緒に行く」


 是雄は一瞬迷ってから、舌打ちして頷いた。諏訪様は嫌そうな顔をしていたが、止めはしなかった。

 ただ、ゆっくりと立ち上がって、後ろからついてくる。


 落下地点までの道は、ひどいものだった。太い木が根こそぎ折れている。地面は、巨大な手で握り潰したように抉れていた。こんなのは、嵐でも地震でもない。普通の災害ではなかった。


 中心まで来て、わたしは足を止めた。


 倒れた木々の間に、二人倒れていた。

 ひとりは青年だった。青い髪が乱れて、顔に泥がついている。それでも、整った顔立ちなのがわかった。長身で、傷だらけで、意識を失っている。


 もうひとりは、美しい少女だった。見たことのない装束を纏い、銀の髪を(かんざし)でまとめていた。

 けれど、青年の隣に横たわっている彼女はもう動かない。胸も上下していない。目を閉じて、ただ静かに――亡くなっていた。


 わたしは、その少女から目を離せなかった。

 なぜだろう。会ったこともない。知らない顔だ。それなのに、胸の奥が痛んだ。引き寄せられるように、わたしは一歩、また一歩と近づいていく。


「尊さま?」


 是雄の声が遠い。

 わたしは少女の前にしゃがんだ。冷たそうな頬。手を伸ばす。指先で、触れようとした。


 その瞬間だった。

 光が、溢れた。

 少女の身体から、温かいものが流れ出して、わたしの指先へ流れ込んでくる。光の帯のように。わたしの中へ、何かが、なだれ込んでくる。


「な――」


 是雄が息を呑む。

 誰にも理解できなかった。わたしにも、是雄にも。ただ諏訪様だけが、静かにそれを見ていた。


 わたしは、苦しくなった。

 身体が、重い。今まで感じたことのない重さだった。呼吸が、苦しい。喉の奥が焼ける。視界が揺れて、世界が歪んでいく。

 今まで存在しなかった感覚が、一度に押し寄せてきた。

 わたしは、声も出せないまま——気を失った。


     ◇


「尊さま! おい、尊さま!」


 是雄の声で、わたしは目を開けた。

 空が見える。桜の枝が見える。揺れている。


 身体が、あった。

 呼吸が、あった。胸が上下している。心臓が、内側からどくどくと脈打っている。指を握ると、ちゃんと力が入る。爪が、手のひらに食い込んだ。痛い。痛いのだ。


 わたしは起き上がろうとして、よろけた。是雄が慌てて支える。その手の感触が、はっきりと、温かく伝わってきた。


 温かい……。思わず、是雄の腕を掴んだ。指先に触れる感覚がある。布地の感触、人の体温。

 二百年、何も触れられなかった。桜にも、握り飯にも、是雄にも。ただ見ているだけだった。

 それが今は違う。

 掴める。

 触れられる。

 その事実が信じられなくて、わたしは震える指を見つめた。


「立てるか? おい、大丈夫か――」


 是雄の言葉が、途中で止まった。

 わたしの顔を見て、それから、身体を見て、固まっている。


「……尊さま」

「なに」

「あの、その……」


 わたしは自分の手を見た。さっきまでと、何かが違う。指が細い。それから、自分の身体を見下ろして――気づいた。

 胸には豊かな乳房があり、腰は細く、声もたかい。

 わたしは、女の子になっていた。


「な――」

「いや、待て、どういうことだ」


 是雄が頭を抱える。


「尊さまは男だっただろ、確か、いや、幽霊だったから、あー、くそ、わからん」

「わたしにもわからないです」


 二人で混乱していると、諏訪様だけが平然と腕を組んでいた。


「何を騒いでおる」

「神様! これ、どうなってんだ!」


 諏訪様はちらりとわたしを見て、つまらなそうに言った。


「吾子は吾子だろう」


 それで終わらせるつもりらしかった。


 ――そのときだった。


 倒れた青年が、呻いた。

 青い髪の青年が、ゆっくりと目を開ける。土にまみれたまま、身を起こす。傷だらけの身体で、ふらつきながら、最初に発した言葉は――


「依月様」


 青年は周囲を見回した。何かを探すように、焦ったように。そして、すぐそばに横たわる少女の亡骸を見つけて――固まった。


 長い沈黙が落ちた。青年は動かない。死んだ少女を見つめたまま、石になったようだった。

 それから、その視線が、ゆっくりとわたしへ向いた。


 青年は息を呑んだ。信じられないものを見るような顔だった。青年の目が、わたしを捉えて離さない。


「依月……様」


 掠れた声が漏れる。

 だが次の瞬間、青年は苦しそうに目を伏せた。


 わたしは、何も言えなかった。

 やがて青年は、亡骸とわたしを交互に見てから、低く、絞り出すように言った。


「依月様……」


 そして、わたしを見つめた。


「……しばらくここにおります」

「は?」


 是雄が眉をひそめた。


「確認したいことがあります」


 青年は是雄の言葉にも動じず、言葉を続ける。


「帰れ」


 諏訪様が即座に言う。


「断る」


 青年がわたしを見つめたまま答える。


「え?」


 わたしは、ただそう漏らすことしかできなかった。


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