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第一話 幽霊

 気づくと、身体がなかった。


 痛みも何も感じない。あれほど深く胸を刺されたはずなのに、胸も、痛みも、なくなっていた。

 手を見ようとしたけど、手がない。足もない。自分がどこにいるのか、さっぱりわからなかった。


「誰か……」


 声を出したつもりだった。でも、何の音も出ない。


「誰か、いないのか」


 供を呼んだ。さっきまですぐ前にいたはずなのに、返事がない。土の匂いも、葉ずれの音も、血の臭いも、全部消えていた。何度呼んでも、誰も答えない。


 ふいに、身体が流され始めた。水じゃない。風でもない。

 ただ、どこかへ吸い込まれていくような感じ。止まろうとしても止まれない。掴まるものが何もない。

 自分の輪郭が、だんだんぼやけていく。指先から、薄くなっていくみたいで、怖かった。


 このまま、消えてしまうんだと思った。誰も呼んでくれないまま、消える。父上も、母上も、都のことも、もう遠すぎて。わたしのことなんて、もう誰も思い出さない気がした。


 そのとき。

 近くに、何か大きなものがいた。静かで、重くて、人間じゃない。けれど、確かにこちらを見ている。神様だ、と直感した。


 流れが、ふっと緩んだ。消えかけていたわたしに、何かが触れた。手のようなものだった。落ちそうになっていたものを、すくい上げるように引き止めてくれた。そして、すべてが止まった。


 気づいたら、わたしは水のそばにいた。大きな湖だった。風もないのに、水面が小さく揺れている。

 岸に一本の桜の木が立っていて、花が満開だった。淡い花びらが、はらはらと水の上に落ちていく。すぐ近くに、古びた小さな祠があった。


 知らない場所だった。さっきまで山の中にいたはずなのに。ここはどこだ。供たちはどうなった。都は。父上は。


「ここは、どこですか」


 近くにいる気配に向かって聞いた。でも返事はない。


「供は、どうなりましたか」

「わたしは、どうなったのですか」


 何も答えない。神様は、ただそこにいるだけだった。

 わからないまま、季節が過ぎていった。桜が散って若葉が出て、夏が来て蝉が鳴き、葉が赤くなって落ちて、湖に薄い氷が張って、また溶けて桜が咲いた。


 最初のうちは、ずっと待っていた。きっと誰かが来る。供が探しに来る。父上が迎えをよこす。そう信じて、岸に立って向こうを眺めていた。


 でも、誰も来なかった。十年。二十年。五十年。百年。数えるのをやめてしまった。待つことを、だんだん忘れていった。


 わたしは、気づけば桜のそばにいた。離れようとしても、いつの間にか戻っている。理由はわからなかった。

 いつしか、桜を眺めるのが当たり前になった。咲いては散るのを、ただ数えていた。咲くたびにひとつ、また咲くたびにひとつ。

 それくらいしか、やることがなかった。 


 神様は、いつも近くにいた。

 最初は怖かったけど、だんだん慣れた。話しかけても、たいてい無視される。

 でも、消えない。それだけで、少し安心した。


「今日は風が強いですね」

「桜が、もう散りそうです」


 時々、そう話しかけた。返事はほとんどない。でも、たまに気配がわずかに動く。それで十分だった。


 桜が、二百回咲いた。


 もう、待つのはやめていた。人の声も、足音も、名前を呼ばれることも、遠い記憶になっていた。思い出そうとしても、うまく形にならない。

 孤独には慣れたつもりだった。感じなくなること、それが慣れることだと思っていた。


 その男――是雄(これお)が転がり込んできたのは、秋の夕暮れだった。

 息が荒くて、顔も肩も血だらけ。泥まみれの手で木の根を掴みながら、這うように山を登ってきた。祠の前まで来て、そのまま倒れ込んだ。


 死ぬだろうと思った。その瞬間、空気が大きく揺れた。神様の気配だった。

 男の傷から血が引いていく。荒い息が、少しずつ落ち着いていった。


 やがて男が目を開けた。夕日の中で、こちらを見た。動けなかった。

 男はしばらく黙っていたが、眉を寄せて言った。


「……なんだ、生きてねえのか」


 答えられなかった。男が手を伸ばす。指が、わたしの肩をすり抜けた。


「うわ、本当に幽霊じゃねえか」


 でも、逃げなかった。男は胡座をかいたまま、平然とわたしを見上げた。


「是雄って言う。お前さんは?」

「……(みこと)

「男か?」

「そうだけど」

「悪りぃ。綺麗な顔してたから、女かと思った」


 声が、届いた。二百年ぶりだった。自分の声が震えていることすら、久しぶりに感じた。


 是雄は、それからもよく来た。三日後、傷がまだ治りきっていないのに、また山を登ってきた。手には布包みを持っていた。


「ほら」


 桜の下に包みを置く。中は握り飯だった。もう冷めて、少し固くなっていた。


「食えないのはわかってる。でも、なんとなくな」


 わたしは、握り飯を見ていた。二百年、祠に供え物はあった。でも、誰かがわたしにくれたものなんて、初めてだった。


「……変な人だな」

「よく言われる」


 是雄は笑って、自分の分を食べ始めた。

 それから是雄は、しょっちゅう来るようになった。くだらない話を持ってくる。

 畑を猪に荒らされた話。

 隣村の男が嫁をもらった話。

 今年は塩が高い話。

 どれもわたしには関係のない話だけど、聞いていると面白かった。


 ある日、是雄が転んで握り飯を落とした。慌てて拾おうとしてまた転ぶのを見て、わたしは思わず声を出して笑った。

 笑ったあとで、自分が驚いた。最後に笑ったのがいつだったか、思い出せなかった。


「今、笑ったな」

「……笑ってない」

「笑ったよ」


 是雄は嬉しそうだった。

 それから、神域に人間の音が増えた。足音。話し声。笑い声。握り飯を噛む音。

 その音は、麓の村まで、現世まで、細い糸で繋がっている気がした。わたしはもう、その糸の先に行くことはない。


 それでも、糸があるだけで、十分だった。


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― 新着の感想 ―
Xより参りました。 全体的に、表現がお洒落かつ丁寧で、情景が浮かんでくるようでした。 桜の木の下から主人公が離れられないのは、昔は遺体を桜の木の下に埋葬することが多かったことと関係があるんですかね。
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