春の山
山が、笑っているみたいだった。
若葉が一斉に芽吹いて、山全体が薄い緑の煙みたいにぼんやりしている。雨上がりの湿った土の匂いが濃くて、鼻の奥まで染み込んでくる。
日の光が柔らかく当たって、首の後ろがじんわりと温かい。わたしはなんだか少し浮かれてしまっていた。
「親王様、足元に根がございます」
すぐ後ろから供の声がした。見ると、太い木の根が地面から盛り上がっている。わたしは着物の裾を少しつまんで、跨いだ。裾が草を擦る、さらさらという音がする。
外に出るなんて、めったにないことだったから、なんだか全てが新鮮に感じられた。
「山は、いつもこんな匂いがするのか?」
「春ですから、山も浮かれておるのでしょう」
供は半歩下がって、わたしについてくる。わたしの言葉には何でも丁寧に答えてくれる。
どこかで鳥が鳴いた。聞いたことのない、高くて短い声だった。すぐに止んでしまう。
わたしは立ち止まって空を見上げた。枝の隙間を、小さな影が素早く横切っていく。
「あれは何という鳥だ?」
「さあ……山鳥のような気がいたしますが」
「屋敷の鳥とは、鳴き方がずいぶん違うな」
供はただ静かに頭を下げた。わたしはまた歩き始めた。風が吹くたびに葉がざわざわと一斉に揺れて、木漏れ日が地面の上で踊っている。
落ち葉を踏むと、柔らかく沈む感触がした。楽しかった。何もかもが、初めて見るもののように感じられた。
そのときだった。
笑い声が聞こえた。
低くて、複数の声が重なっている。山の音とは明らかに違う。供の足が、ぴたりと止まった。わたしを守るように前に出て、手を伸ばす。
「お待ちください」
声の調子が、さっきまでとまるで違っていた。
木の陰から、男たちが姿を現した。一人、二人、三人……四人。着物は汚れていて、手に何か光るものを握っている。
「何奴!」
供が大声を上げて、わたしを背後に庇った。背中がすぐ目の前にある。何が起きているのか、わたしにはよくわからなかった。
男たちは笑うのをやめて、ゆっくり近づいてくる。地面を踏むじゃりじゃりという音がする。供が刀を抜いた。鞘から出る冷たい金属音が響いた。
「親王様、お下がりください!」
わたしは後ろに下がろうとした。でも足が震えて、思うように動かない。膝ががくがくしている。こんなこと、誰も教えてくれなかった。
鉄と鉄がぶつかる甲高い音がした。火花が散る。供が何度も刀を振るう。誰かが叫んだ。
生温かいものが、わたしの頬にぱっと飛んできた。手で触ると、べっとりと赤い液体だった。
供が、倒れた。
「お逃げ……っ!」
最後まで言い切れなかった。
わたしは必死に走ろうとした。でも足がもつれて、その場で転んでしまった。
土の匂いが鼻のすぐ近くにあった。後ろから足音が近づいてくる。振り向こうとした瞬間——
胸に、何かが入り込んだ。最初は冷たかった。それから、じわじわと熱くなってきた。
息がうまく吸えない。口の中に鉄のような味が広がる。見下ろすと、自分の胸から刃が突き出ていた。
痛い、と思った。それだけだった。
膝から力が抜けていく。地面が近づいてきて、頬が土にべったりとついた。冷たい。
空が枝の隙間から見える。葉がゆっくり揺れている。日の光が、さっきと同じようにちらちらと差し込んでいる。何も変わっていないように見えた。
遠くで、まだあの鳥が鳴いていた。
体の境目が、だんだんわからなくなっていく。
何が起きたのか、もううまく考えられなかった。
ただ、すごく眠いような気がした。
春の山は、まだ静かに眠っていた。




