表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

春の山


 山が、笑っているみたいだった。


 若葉が一斉に芽吹いて、山全体が薄い緑の煙みたいにぼんやりしている。雨上がりの湿った土の匂いが濃くて、鼻の奥まで染み込んでくる。

 日の光が柔らかく当たって、首の後ろがじんわりと温かい。わたしはなんだか少し浮かれてしまっていた。


「親王様、足元に根がございます」


 すぐ後ろから供の声がした。見ると、太い木の根が地面から盛り上がっている。わたしは着物の裾を少しつまんで、跨いだ。裾が草を擦る、さらさらという音がする。

 外に出るなんて、めったにないことだったから、なんだか全てが新鮮に感じられた。


「山は、いつもこんな匂いがするのか?」

「春ですから、山も浮かれておるのでしょう」


 供は半歩下がって、わたしについてくる。わたしの言葉には何でも丁寧に答えてくれる。

 どこかで鳥が鳴いた。聞いたことのない、高くて短い声だった。すぐに止んでしまう。

 わたしは立ち止まって空を見上げた。枝の隙間を、小さな影が素早く横切っていく。


「あれは何という鳥だ?」

「さあ……山鳥のような気がいたしますが」

「屋敷の鳥とは、鳴き方がずいぶん違うな」


 供はただ静かに頭を下げた。わたしはまた歩き始めた。風が吹くたびに葉がざわざわと一斉に揺れて、木漏れ日が地面の上で踊っている。

 落ち葉を踏むと、柔らかく沈む感触がした。楽しかった。何もかもが、初めて見るもののように感じられた。


 そのときだった。

 笑い声が聞こえた。


 低くて、複数の声が重なっている。山の音とは明らかに違う。供の足が、ぴたりと止まった。わたしを守るように前に出て、手を伸ばす。


「お待ちください」


 声の調子が、さっきまでとまるで違っていた。

 木の陰から、男たちが姿を現した。一人、二人、三人……四人。着物は汚れていて、手に何か光るものを握っている。


「何奴!」


 供が大声を上げて、わたしを背後に庇った。背中がすぐ目の前にある。何が起きているのか、わたしにはよくわからなかった。


 男たちは笑うのをやめて、ゆっくり近づいてくる。地面を踏むじゃりじゃりという音がする。供が刀を抜いた。鞘から出る冷たい金属音が響いた。


「親王様、お下がりください!」


 わたしは後ろに下がろうとした。でも足が震えて、思うように動かない。膝ががくがくしている。こんなこと、誰も教えてくれなかった。


 鉄と鉄がぶつかる甲高い音がした。火花が散る。供が何度も刀を振るう。誰かが叫んだ。

 生温かいものが、わたしの頬にぱっと飛んできた。手で触ると、べっとりと赤い液体だった。

 供が、倒れた。


「お逃げ……っ!」


 最後まで言い切れなかった。

 わたしは必死に走ろうとした。でも足がもつれて、その場で転んでしまった。

 土の匂いが鼻のすぐ近くにあった。後ろから足音が近づいてくる。振り向こうとした瞬間——


 胸に、何かが入り込んだ。最初は冷たかった。それから、じわじわと熱くなってきた。

 息がうまく吸えない。口の中に鉄のような味が広がる。見下ろすと、自分の胸から刃が突き出ていた。

 痛い、と思った。それだけだった。


 膝から力が抜けていく。地面が近づいてきて、頬が土にべったりとついた。冷たい。

 空が枝の隙間から見える。葉がゆっくり揺れている。日の光が、さっきと同じようにちらちらと差し込んでいる。何も変わっていないように見えた。


 遠くで、まだあの鳥が鳴いていた。

 体の境目が、だんだんわからなくなっていく。

 何が起きたのか、もううまく考えられなかった。


 ただ、すごく眠いような気がした。

 春の山は、まだ静かに眠っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ