第三章 究極の豚骨ラーメンと、闇に沈む愚者
アメリカ第七艦隊の襲来と、魔王や獣人王の乱入という、世界がひっくり返るような大騒動から数日。
嵐が去ったポポロ村には、本来ののどかな――リアンが心から愛する『辺境のスローライフ』が戻ってきていた。
ボコボコボコボコッ……!!
定食屋『ポポロ亭』の厨房では、巨大な寸胴鍋がマグマのように沸き立っていた。
鍋の中から立ち昇るのは、獣の骨の髄から溶け出した、濃厚で暴力的な旨味の匂い。
「……よし、いい色になってきたな。骨の髄液と脂が完全に乳化して、見事な白濁スープに仕上がってる」
白いエプロン姿のリアンは、額の汗を拭いながら、満足げに寸胴鍋の中を覗き込んだ。
彼が三日三晩、文字通りつきっきりで煮込み続けているのは、近隣の森で狩ってきた凶暴な魔物『突進猪』の拳骨と背脂をベースにした、特製の『超濃厚・豚骨風スープ』だ。
「影丸、火加減を中火に落としてくれ。これ以上強火で炊くと、スープに焦げの雑味が混ざっちまう」
「……(コクリ)」
ピンク色のエプロンを着けた漆黒の騎士・影丸が、寸胴鍋の底から焦げ付かないように、特大の木べらで丁寧にスープをかき混ぜる。
神殺しの暗殺者と、闇の召喚獣。彼らが今、全神経を集中させているのは、世界の命運ではなく「最高の一杯のラーメン」を完成させることだけだった。
「兄ちゃん、まだか!? 朝からずっとその匂いを嗅がされて、俺たちの胃袋はもう限界っスよ!」
「うむ……この匂いだけで、白飯が三杯は食えそうじゃ……」
カウンター席では、陸上自衛隊の赤城や坂上信長たちが、箸とレンゲを両手に握りしめ、獲物を待つ飢えた狼のような目で厨房を凝視していた。
今日はお休み。彼らにとっても、厳しい訓練の合間の至福の「チート飯タイム」である。
「慌てるな。ラーメンは時間と温度との勝負なんだ。……よし、麺上げいくぞ!」
リアンが素早い手つきで、特製の平ザルを振るう。
チャッ、チャッ! と小気味良い湯切りの音が響き、ポポロ村特産の『米麦草』を独自配合で打った細麺が、熱々のスープが張られたどんぶりへと美しく滑り込んだ。
そこに、秘伝の醤油ダレでトロトロに煮込んだ『オーク・ボアの特厚チャーシュー』、半熟の『味付け月見卵』、そして彩りと風味のアクセントとなる『香草ネギ』をトッピングしていく。
「へい、お待ち。ポポロ亭の新作……『極濃・獣骨ラーメン』だ」
ドンッ! とカウンターに並べられた五つのどんぶり。
その瞬間、店内の空気が変わった。
表面に浮かぶ透明な脂の層と、その下で黄金色に輝く白濁スープ。立ち昇る暴力的なまでのニンニクと獣肉の香りが、自衛隊員たちの理性を完全に吹き飛ばした。
「い、いただきますッ!!」
信長が震える手でレンゲを取り、まずはスープを一口すする。
「…………ッ!!?」
信長の瞳孔が限界まで開き、全身の毛穴からブワッと汗が噴き出した。
ガツン! と脳天を直撃する、オーク・ボアの圧倒的な旨味と野性味。だが、それだけではない。何時間もかけて丁寧にアクを取り除き、香味野菜と共に煮込まれたスープは、驚くほどまろやかで臭みがなく、喉の奥へとシルクのように滑り落ちていく。
「な、なんじゃこりゃあぁっ!! 美味い、美味すぎる! 豚骨の常識を覆すほどの濃厚さなのに、一滴残らず飲み干したくなる悪魔のスープじゃ!」
「麺もヤバいッス隊長! 極細麺にこのドロドロのスープが完璧に絡みついて……うおォォッ、チャーシューが口の中で溶けたァァッ!」
ズルズルズルズルッ!!
ズズゥゥゥゥッ!!
店内に、盛大な麺をすする音がオーケストラのように鳴り響く。
誰も一言も喋らない。ただひたすらに、目の前のどんぶりと本能のままに向き合い、一心不乱に麺とスープを胃袋へと流し込んでいる。
地球の過酷な戦場を知る男たちが、一杯のラーメンの前で子供のように目を輝かせ、至福の汗を流していた。
「……ふっ」
その光景を見つめながら、リアンはタオルで手を拭き、満足げに微笑んだ。
「これだよ、これ。魔王だのアメリカ軍だの、世界がどうのこうのなんて知ったことか。俺が欲しかったのは、自分が作った美味い飯を食って、馬鹿みたいに喜んでくれる客の顔を見る……この平穏な日常なんだよ」
リアンは、カウンターの奥に置かれた愛用の包丁――神殺しの『雷霆』を一瞥した。
この包丁も、今はただの調理器具として、見事なチャーシューの断面を切り出すために使われている。それでいいのだ。それが一番正しい使い方なのだから。
平和な午後。
完璧なスープ。
そして、客の最高の笑顔。
リアンの思い描く「最強のスローライフ」が、ポポロ村の定食屋に満ち溢れていた。
――カラン、カラン。
その時、店のドアベルが弱々しく鳴った。
「ん? いらっしゃい。悪いな、ラーメンのスープなら、今はちょうど――」
リアンが振り返りかけた、次の瞬間。
「あ、兄上……」
ドサァァァッ……!
暖簾をくぐってきた人物が、まるで糸が切れたマリオネットのように、カウンター席の端っこに倒れ込んだ。
「クラウス!?」
リアンが慌てて厨房から飛び出す。
倒れていたのは、弟であり、ルナミス帝国の公爵位を代行している帝国最強の雷光騎士、クラウス・クラインだった。
いつもは隙のない礼服をビシッと着こなしている彼だが、今の姿は見る影もない。目の下には酷いクマができ、頬はゲッソリとこけ、美しい金髪はボサボサに乱れている。
まるで、一週間一睡もせずに戦場を駆け回ってきたかのような、極限の疲労状態だ。
「おい、どうした! 誰かにやられたのか!?」
リアンが体を抱き起こすと、クラウスはうわ言のように、微かな声で呟いた。
「違う、のです……兄上……。領地の、仕事が……書類が、山のように……ッ」
「書類?」
「帝都の……ヴァレリウス侯爵派の貴族どもが……我がクライン領への食糧流通を意図的に止め……法外な関税を……。領民を救うための、対策と、陳情の、嵐で……」
クラウスはそこまで言うと、ガクッと首を落とした。
どうやら、戦闘で負傷したわけではない。「政治と嫌がらせによる完全な過労」である。
真面目で責任感の強い弟のことだ。領民が苦しんでいるとあらば、寝食を忘れて全て一人で抱え込んでしまったのだろう。
「あー……。クソ真面目な弟を持つと、兄貴は苦労するな」
リアンは大きなため息を吐き、クラウスを抱え上げて、店の奥の休憩用ベッドへと寝かせた。
定食屋の親父の顔から、一瞬だけ、冷たい暗殺者の光が瞳に過る。
ポポロ村の平和なスローライフを脅かし、可愛い弟を過労死寸前まで追い詰めた「帝国の腐敗貴族」。
「……影丸。ラーメンの仕込みは一旦中止だ。……極上の『スタミナ回復食』を作るぞ」
「……(ガッツポーズ)」
弟を戦場(政争)へ送り出すための、最高のバフ飯。
リアン・クラインの包丁が、再び静かな怒りを帯びて煌めき始めていた。




