第六話 王子の憂鬱
――翌日
「私はいない、私はいない、私はいない」
日が出たにもかかわらず未だにヴィルヘルムは毛布を被って震えていた。
ガタガタガタ――
その振動で部屋全体が震えていた。
「も、もう朝か。」
全霊の勇気を振り絞り毛布から目だけ出した一言であった。
「起きなければ、公務に支障が⋯⋯」
その時であった、ドアの外から軽快な足音が響いた。
全身の毛が一斉によだつ。
「ひぃ!ナスターシャ!?」
ヴィルヘルムの鼓動が一気に跳ね上がり、視界が歪む。
ドアがバンッと大きな音を立てながら開かれる。
「わ、悪かった!婚約破棄したことは謝る!だから命だけは、命だけは勘弁してくれ!」
破れかぶれであった、毛布は床に転がりシーツはよれよれ。
しかし⋯⋯
「どうしたんですか殿下?朝から大声を出して」
入ってきたのはヴィルヘルム直属の近衛兵、アルブレヒトであった。
「お、お前か。よかった。」
「隣国の王子の留学の件で陛下がお呼びですよ。急いでください。」
「隣国の王子?ああ、そんな予定も入っていたか。」
長年対立してきた隣国の王族が留学という、本来忘れるはずもない大事件。
しかし、彼のナスターシャへの恐怖はそれすらも忘却させていたのだ。
「すまないがナスターシャに狙われている身だ。しばらく待ってくれ。」
彼の言葉にアルブレヒトは一瞬顔をしかめたが、すぐに笑顔になった。
「全く殿下という人は……良いでしょう、陛下には伝えておきます。」
アルブレヒトは一礼して背を向け部屋から立ち去っていく。
「いつもわがままを聞いてもらってすまないな、アルブレヒト。」
やや小柄な背中の動きがほんの一瞬止まったような気がした。
その直後であった。
耳をつんざく轟音とともに部屋の前の廊下の石壁が崩れ落ちた。
「ヴィルヘルムー!会いに来ましたわよぉ!」
壁の向こう側にはブーケを持ったナスターシャがいた。
「ぎゃああああ!出たぁぁ!」
慌てたヴィルヘルムは尻もちをついていた。
「結婚しましょう?式場の準備も万端ですわ!」
じわじわとナスターシャがにじり寄ってくる。
「……だ、だめだ!腰が抜けて立てない!」
先ほど尻もちをついた拍子に彼の腰は抜けてしまっていた。
ナスターシャの透き通るようにしなやかな手が迫る。
(ああ、良い人生だったなあ。)
彼の心は悟りでも開いたかの穏やかになっていた。
「殿下!あきらめないでください!」
瞬間、ヴィルヘルムの体が持ち上げられる。
絶望の最中、それを破ったのはアルブレヒトであった。
彼は主たるヴィルヘルムの体を背負い窓へと駆ける。
「あ、アルブレヒトぉ……」
ヴィルヘルムの目には涙が溜まっていた。
「泣くのは後にしてください、城下町へ脱出しましょう!」
言うが早いか、彼はその身で窓を突き破り、ガラス片を気にすることもなく眼下の庭園へ飛び降りた。
その早業にさすがのナスターシャも呆気にとられるばかりであった。
しかし、彼女はすぐさまいつもの穏やかな笑顔に戻り――
「ああ、ヴィルヘルム、あんな素晴らしい部下がいるだなんて……」
逃げた2人を追ってゆったりと窓辺へ向かい。
「私、感激ですわ!」
その足は城壁に対して垂直に立っていた。
「なんだ!あの女、壁を歩いて!下っているぞ!」
「殿下を背負ったアルブレヒトさんと言い今日は一体どうなっているんだ!」
宮廷庭師たちの困惑する声がアルブレヒトの走り去った庭園に響いていた。
◇◇
数十分後、賑わいつつある大通りを2人は駆け抜けていた。
「ナスターシャが来てしまった今、どこに逃げると言うんだ!」
「知りませんが、逃げるしかないでしょう!」
言い争いをしながらもアルブレヒトはヴィルヘルムの手を引いていた。
「待って―!ヴィルヘルムー!」
その後ろからナスターシャの声が聞こえた。
「クソっ!あの化け物、もう追いついて来たのか!」
その動きは常軌を逸していた。
街の石壁を蹴り、屋根から屋根へ飛び移り、縦横無尽に迫ってきていた。
「奴め、なんて動きだ!殿下!このままでは追いつかれます!」
「そんなこと言われてもこれが限界だ!」
ヴィルヘルムの息はあきらかに切れていた。
それを見たアルブレヒトは意を決した。
彼は突然立ち止まり、主を守るようにナスターシャに対峙した。
「先に行ってください殿下、私が時間を稼ぎます!」
その勇猛な声に道行く人々が振り返る。
「何を言っている!お前を置いていけるわけがないだろう!」
ヴィルヘルムの顎も足もガクガクと震えていた。
しかし、一国の王族として忠臣を犠牲にできるはずがなかった。
「覚えていますか?殿下。」
アルブレヒトの表情がふっとやわらかくなった。
「まだ兵士になる前、行き倒れていた私にあなたがパンを恵んでくださったこと。」
「アルブレヒト……」
その声色は大切な記憶を懐かしむ静けさを有していた。
「その時からです。」
アルブレヒトの頬を涙が伝う。
「あなたのためなら死んでも惜しくなくなったのは!」
彼は涙を拭い去り、再び剣を構える。
「迷わず行ってください!」
彼自身のその声に迷いはなかった。
「あなたはいずれ偉大な王になられる方!」
その瞳には一片の恐れもなかった。
「こんなところで散るべきではありません!」
「アルブレヒト……すまん。」
ヴィルヘルムの目からは涙が溢れ出ていた。
しかし、迷いなくアルブレヒトに背を向けた。
「すまん……すまん……」
今にも消え去りそうなかすれた声であった。
彼は息を吸い込み、全力で駆け出した。
全ては臣下の想いに報いるために。
「さあ来い化け物!」
主が走り去った後、アルブレヒトは勇気を込めて叫んだ。
「殿下には!指一本触れさせんぞ!」
剣をナスターシャに向けて振り下ろす。
しかし、ナスターシャはふっと微笑み、小指を勢いよく立てた。
たったそれだけ、たったそれだけの動き。
「な、なに!」
その動きはさながら竜巻のごとく凄まじい衝撃を巻き起こした。
剣はへし折れ、アルブレヒトの全身が切り刻まれる。
「ぐああああああああ!」
彼の悲鳴が町中に響き渡る。
その声は少し遠くのヴィルヘルムにも届いていた。
「アルブレヒト……アルブレヒトぉぉぉぉぉ!」
強烈な喪失感を胸に、叫びながらも彼は走り続ける。
数秒後、ナスターシャの前には傷だらけのアルブレヒトが倒れていた。
「ヴィルヘルムの忠臣さん。」
ナスターシャが語りかける。
その声には敵意はなく、あるのは親しみだけであった。
その時、アルブレヒトの腕が彼女の足を掴んだ。
「殿下を追いたければ私を殺すことだ。」
すでに満身創痍であるにかかわらず、その目から闘志は失われていない。
「殺す?ふふふ、あはははは!」
ナスターシャの口から鈴のように透き通った笑い声が漏れる。
その表情は美しい宝石を手に入れた乙女のそれであった。
「私はあなたたちの絆に感動しましたのよ?」
「殺すなんてそんな野暮なことはしませんわ。」
のたまいながら自らの足を掴んでいる手を優しく握った。
「だから、離して?私はヴィルヘルムを幸せにしたいだけ……」
「誰が!」
この時間が一生続くかに思われた、しかし――
「ようやく見つけた!僕の運命の悪役令嬢!」
突如として1人の青年がナスターシャの肩に手を置く。
「え?」
ナスターシャは驚いた様子で振り返る。
「ああ、顔も体型も完璧だね。」
「華奢な細い体、長くて柔らかい髪の毛、白くて透明でかわいい顔。」
「流石は僕の運命の相手だ。」
青年はそのままナスターシャを抱き寄せる。
妙に馴れ馴れしい態度。
ナスターシャの体がこわばる。
「あの、申し訳ありませんがあなたは?」
ナスターシャの言葉に青年はハッとした。
よく見れば身なりは美しく整っており、所作も優雅なものであった。
「失礼、僕はルイ・オルレアス。」
「この国の隣、フラレアス王国の王子です。」
隣国の王子、登場。
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次回は8月22日 朝8時10分に投稿予定です。




