055話 彼女が朝花春陽
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帰って、いの一番に脱衣所へ直行した。
全身から湧き出た汗が肌に残る感覚。
それを残したままゆっくりは出来ない。
勢い良く脱いだせいで裏返ったユニフォームのそのまま洗濯機へと投げ入れて、浴室へと急ぐ。
服を脱いだ時点で気持ち悪さも大分マシになったが、まだべたつきは残っている。
シャワーの蛇口を捻り、お湯を出す。
最初の水に当たらないよう、しばらくは排水溝へ向けておく。
まだか、まだかと待ち侘びること5秒。
意を消して、出ている水に触れる。
丁度良い温度なのを確認してから、頭へとシャワーヘッドを持って行った。
「ふぅー、気持ち良いぃーー」
女の子の声を使って、がなり声を出す元おっさん。
全身が浄化されて行く感覚が堪らなく気持ち良い。
一通り浴び終えると、名残惜しさもあるけどシャワーを止めた。
そして、いつも使っているちょっとお高いシャンプーに手を伸ばす。
最初はシャンプーなんて安くてお得だったらなんでも良いと思っていたけど、これを使ったが最後。
他のシャンプーなんて論外。
丁寧に角から角へと洗うとお湯で洗い流して、次はトリートメント。
5分ぐらい置くと良いと聞いて、トリートメントの付いた手を洗い落として、体を洗っておく。
こうすれば、時間短縮に繋がる。
その他、諸々のケアを済ませてようやく湯船へ。
「やっぱりお風呂は最高だよなー。ニートしてた頃は風呂キャン界隈だったけど、今思うと信じられないな俺って奴は」
「お姉ちゃーん! 着替え、置いとくからね!」
突如聞こえた妹の声に、湯船の中でも背筋が凍る。
浴室は音がよく響く。
大声で無かったとしても、さっきの独り言が聞かれてるなんて可能性も。
だけど、聞こえていたかと質問する勇気も出ない。
何も言わないのだから、何も聞いていない。
そう結論付けることにした。
「にしても、迂闊だったな。妹には一度聞かれてるし、大事にはならないと思うけど。自分で自分が心配になるな」
余計な事を口走らない為にも肩まで浸かって、1から100を丁寧に数えた。
最初は何、子供っぽいことしてんだろとって我に返りそうになったが、途中から楽しくなってきた。
数数えハイという奴だ。
キッカリ100を言い終えた達成感を胸に、勢い良く立ち上がろうとする。
ふらっと立ちくらみが押し寄せた。
ここで倒れるのは非常に危ない。
よく滑るし、頭をぶつけたら怪我では済まない箇所が多い。
パニックになり掛けている心を落ち着かせて、壁に手をつけながらゆっくりと……。
(あ……、ダメだ)
全身から力が抜けていく。
抗おうにも抗えない。
気付いた時には瞼が完全に閉じ切っていて、最後の記憶が覚えているのはそのまま湯船に倒れ込んだ感覚だった。
「カハッ! ゴホゴホッ! はぁ……はぁ……」
飲み込みすぎてしまった水を吐き出しながら目覚める。
「ここは一体どこなんだ」
ようやく呼吸が落ち着いてきた段階で、視界の情報が目に入る。
黒い空間。そう呼称するしかないくらい何もない。
この現象が停電でないとハッキリ理解できるのは、自分自身が体験しているゲーム転生のおかげだろう。
「やっほー、初めまして、……なんだけど、実際は初めましてなんて感じはしないだろうね」
背後から聞こえた声に敏感に反応する。
聞いた事のある声だったからだ。
いや、いつも聞いている声だったからだ。
「私は朝花 春陽。よろしくね、今の朝花 春陽ちゃん」
「君が本物の朝花 春陽……なのか」
ダークブラウンのボブ。ちょこんと生えたアホ毛。ムダ毛のない肌。
最初は見慣れなかったけど、今では当たり前になっていたこの顔を見間違えるはずがない。
どこにいるのかという疑問はどうでも良くなる。
なぜ目の前に現れたのか。
それだけが気になって仕方ない。
真っ先に思いつくのは、自分の体を取り戻す為。
自分の体で知らんおっさんが好き勝手しているのは気持ち悪いと思う。
たとえ、決してやましいことをしていなくても。
もし返して欲しいと言ったら、それは彼女にとって当然の権利で俺に拒否する権利はない。
無職の俺は十分に夢を見させてもらったのだから。
ようやく軌道に乗り始めた雅野のサッカー部の行く末を見届けられないのは、非常に残念だけど。
「最初に言っておくと別に体返してとかは言わないからね。というか、結構面白いものを見せてもらって満足してるくらいなんだから。このタイミングで体返されても荷が重いし、寧ろ困るよ」
「えっ……?」
考えていることをずばり当てられて、声が出る。
「顔に出てた?」
「そりゃーもう。ワンちゃんみたいに分かりやすくね」
「良い歳したおっさんが恥ずかしい限りだ」
顔が熱を帯びるのを感じる。
恥ずかしい。逃げ出したい。
だけど、どこにも行けないのがもどかしい。
「正直、なんで私がここにいるのか自分でも分からないんだよね。自分から望んでおじさんを呼んだ訳じゃないし。なんか気付いたらいたんだよね」
「自分で呼んだ訳じゃないのか。だとしたら、どうして俺は」
「本当、不思議だよね。不思議なことだらけだよ。自殺したはずなのに、気付いたら他人が勝手に私を動かし始めちゃうしさ」
今、この子なんて言った。
俺の聞き間違い。
そう結論付けることにして、問いただしてみる。
「今、自殺って……」
「うん、言ったよ。間違いなく言った。だって、本当のことだからね」
「本当のことだからって。どうして? そんなに若いのに自殺なんてすることないだろ」
「死にたいと思うことに年齢は関係ないよ。私が死のうと思った。それは誰が咎めようと間違った判断ではないと信じてる。あの時の私にはそれしかなかったんだと。でも、理由は……まだ言えないかな。気になると思うけどね。またこうやって出会うことがあれば、それはきっと何か切っても切れない運命にあるってことで、その時にまた教えてあげるね」
語る彼女の目。悲しそうだった。
彼女が選んだことを確かに否定はできない。
ただ喉に詰まった苦しみがゆっくりと心臓に降りて、どうしようもないほどキツく切なく締め付ける。
そんな思いの中でお別れを告げるように、またしても意識が薄れていく。
朝花 春陽。彼女に何があったのかを最後まで考えながら。
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