9.皇帝が訪れてきました
ローゼンツ渓谷は今の時期日が昇るのが早い。
早朝から薬草の手入れを始めるために、動きやすい服に着替えて外に出る。
朝露に濡れた薬草が陽光を受けて輝いていた。
「ユリアン様、早朝とはいえ今の季節は日射しが強いですよ」
エルマが帽子を持って後から駆け寄ってきた。
「エルマ、ありがとう」
帽子を受け取って目深に被る。
ハンスが育てていた薬草がいくつか収穫できそうなので、エルマに籠も持ってきてもらった。
「カモミールがいい香りね」
「そうですね。乾燥させるのであれば、今日のような日は最適です」
エルマとおしゃべりをしながら、薬草を摘んでいると、ふいに影が差す。
雲ひとつない天気のはずなのにおかしいなと空を見上げる。
ゴォォォという轟音とともに、黒い影が近づいてきた。
「ユリアン様! あれは!?」
エルマが青ざめて黒い影を指差す。
黒竜が大きな翼を広げ、空を飛翔していたのだ。
「え? あの竜はもしかして!?」
竜は何かを探すように一、二度旋回したかと思えば、森の奥に消えてしまった。
「今のは……見間違えではありませんよね?」
エルマが震える声で呟くので、頷いた。
「ええ」
先日、助けた黒竜だろうと推測できる。
妙に胸の奥がざわついた。
◇◇◇
乾燥させたハーブ類をブレンドして、エルマと午後のお茶の準備をしていた。
祖母が愛用していたティーセットをテーブルに並べ、焼き菓子を皿に盛りつける。菓子はダリアが焼いてくれたものだ。
「このカップはお祖母様のお気に入りだったわね」
白磁に青色で独特の文様が絵付けされている珍しい陶器だ。
「はい。遥か東の国で作られた物だとエリザベート様が仰っていました」
懐かしい昔話に花を咲かせていると、扉がノックされる。
「ユリアンお嬢様。皇都よりお客様がいらっしゃっております」
入室してきたダリアはどこか緊張しているように見える。いつも穏やかなのにどうしたのだろうと首を傾げた。
「皇都から?」
ライゼンシュタイン皇国に知り合いはいない。唯一思い当たるのは……。
「もしやオーベルシュタイン大公家の方ですか?」
私の考えを代弁するようにエルマが尋ねるが、ダリアは首を横に振った。
オーベルシュタイン大公家は祖母の実家だ。私が入国したことを聞いて訪れてきたのかと思ったが、違うようだ。
「ユリアンお嬢様、驚かないでくださいませ。あくまで非公式のご訪問ですので……」
ダリアの後ろから長身の男性が顔を覗かせる。
「突然の訪問を許していただきたい」
低いがよく響く声。漆黒の髪に黄金色の瞳をした端正な顔立ちの青年だ。二十代半ばくらいだと思うが、妙に威厳に満ちている。
「私はライゼンシュタイン皇国の皇帝でラインハルトと言う」
男性が名乗った後、私は息を呑む。
(ライゼンシュタイン皇国の皇帝ですって!? 皇帝がなぜ私に会いに来るの!?)
私は内心パニックになりながらも、最高の礼をとった。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。エルフェリア王国のアルディオン公爵家の娘でユリアンと申します。お会いできて光栄でございます」
皇帝陛下は柔らかく微笑んだが、私は心臓が爆発しそうである。
「そんなに畏まらなくても構わない」
(一国の皇帝を前にリラックスなんてできません!)
一応は高位貴族の娘なので、それなりの教育は受けている。前世では聖女として他国の王族にも会ったことがあるが、平静を保つのがやっとだ。
「今日は親族として訪ねてきたのだ」
「親族……ですか?」
祖母の生家オーベルシュタイン大公家は、皇家とは縁戚関係に当たるとは聞いている。
「もっとも、私はエリザベート殿とは直接お会いしたことはないが……」
祖母は嫁いできてから、生家へ帰ったことがないと言っていた。このローゼンツ渓谷の館以外には。
「私も祖母の生家の方とはお会いしたことがございません」
「そうか」
私がこの館を受け継いだことは祖母の生家に伝わっているはずだ。そのうち会う機会があるかもしれない。
皇帝陛下を立たせたままにするわけにはいかないので、ソファに座ることを勧める。
「せっかく訪ねてきてくださったのですから、お茶はいかがでしょうか?」
「いただこう」
なぜか嬉しそうに微笑むと、皇帝陛下はソファに座った。
まもなく、ダリアとエルマが先ほどブレンドしたハーブティーと焼き菓子を運んできてくれた。
「良い香りだ」
「祖母から教わった調合なのです」
皇帝陛下は香りを楽しむように目を閉じると、一口ハーブティーを飲む。
「優しい味だな」
表情を和らげると、ふっと微笑む。
「調合する人の優しさが茶に現れているようだ」
世辞なのかもしれないが私は照れくさくなって、ごまかすように笑う。
「まだまだ祖母には及びません」
「そんなことはない」
皇帝陛下は静かに首を振った。
「会ったことはないが、エリザベート殿もきっとユリアン嬢のように優しい人柄だったのだろうな」
ハーブティーを味わいながら飲む皇帝陛下を見ながら、こんなことを思った。
(一国の皇帝というのは、もっと厳格で冷酷なイメージだったけれど、この方はそんな風に見えない)
穏やかな物腰はどこか安心感を与えてくれる。
(とても優しい方なのね)
その後、しばらく皇帝陛下と他愛もない会話を楽しんだ。




