第二十五話
「楽しいって……いや、うーん……」
依織は俺の目の前でペンを回しながら回答を急かしてくる。ペンの動きは、ストローで氷を回していた光景を思い起こさせた。
「そういえば、試合内容聞いてなかったけど、どうだったの?全敗?」
「んなワケあるか、一本取ったわ」
「マジ!?インターハイ優勝者相手に!?」
「声デカい馬鹿っ」
周囲の客の視線が依織に集まる。俺は気まずくて窓の外に視線を向けたが、依織は一切気にしていないようだった。
「現役より動けてないとか言ってたのに、そんなことできるの?」
「普通に考えて無理だ。これは、俺と直史が互いの癖を知っていたからこそできた奇襲。一回きりの騙し討ちだ」
読み合いも勝負のうちとはいえ、一か八かの攻めだった。これに関しては直史から一本奪えたのが奇跡だ。
「騙し討ちでも簡単に成功しないでしょ。そんなに甘い世界じゃないって自分でもわかってると思うけど」
「三年の差を一週間で埋められねぇよ。まぐれだ」
「うーん……面倒だなぁ」
「あ?」
依織が口を尖らせた。下唇を押し上げるようにペンを当てながら、死んだような目でこちらを見ている。
「自分はできるって思い込んでたのに、いざできたら、直史はこんな俺が敵う相手じゃない、って思うんでしょ。もっと過去の自分と努力を信じればいいじゃん。絆侍の自信は三年の差を埋められないけど、ジャンプすれば手が掠りそうな距離に自分がいたかもしれないよ」
話しながら、依織は再びノートに落書きを描き始めた。ペンライトらしきものを持った俺が、鉢巻を巻いている。そもそも歌詞を書くためのノートじゃないのか、コレは。
「何、コレ」
「直史君担当強火オタクの絆侍」
「はぁ!?ふざけてんのか」
「ふざけてないよ。つーか、二人とも強火担みたいなところあるよね。似てるよ。俺の信じた直史は強い!!僕の信じた絆侍は強かった!!みたいな。試合の時思ったでしょ」
「まぁ……それは、思ったけど」
まさか過激派オタク扱いされるとは思っていなかった。
確かに、俺は直史の実力を評価しているが。
高校三年間、アイツのことを何も追っていないのに俺がオタク……?
「オタクってね、別に今流行りのジャンルを追いかけるだけじゃないんだよ。回顧厨とかもいるし。二人はそっち系じゃない?解散しちゃった昔のバンドを追いかけて。復活ライブ~みたいな剣道の試合してるじゃん」
「呪文をまくし立てるな、わかりやすく言え」
依織はバンドの関係のことになると、とにかく早口だった。俺はネットに疎いから、大半の言葉がわからない。
「要するに、現役バンドのライブに来て、昔のバンドに憧れてましたってアーティスト本人にぶつけちゃう痛いファンだよね、二人とも。どちらかといえば、絆侍はあまり言わないけど。態度には出てるかな」
「……つまり、互いの過去に対して強い思い入れがあって面倒くさいってことだな」
「そう!!自覚あるんじゃん。で、今日が久しぶりのセッションってこと」
「セッションって……音楽じゃあるまいし」
「いやいやいや、体が動くってことは心が乗ってた証拠だよ?鼓動も呼吸も、立派なリズムじゃん」
「リズム……」
試合中、直史と言葉を交わすことはなかった。
視線、呼吸、足音。そして、竹刀の音。俺たちに平等に与えられる情報はそれだけ。曲のテンポを維持するように、内側では心臓がビートを刻んでいた。
「ドラムを習った時のことを思い出してよ。手足でビートを刻むのも難しくって、練習していくうちにメンバーの様子を見れるようになっていくだろ?それが呼吸。絆侍が努力して、萩野君についていけたのは、BPMの高さに慣れ始めたから。鼓動が通じ合ったんだよ」
今はほとんど演奏することはないが、入部してまもない頃はドラムを演奏することがあった。
依織の例えはあながち間違いではない。ドラムの練習をするたびに剣道がチラつくことがあった。俺が手首の柔らかさに気を配っていたのが一番の要因だが、今の話はまるで依織が俺の試合を見ているようだった。
「君たちは昔の曲を再現しながら、最終的に萩野君が新曲を作り上げた。昔の君と今の君の違いに気づいたんじゃないかな。同じ曲は二度と演奏できない、ってね」
「……今更だけど、音楽を例えに出した理由は?」
依織は詩的な言葉を口にするが、意味のないことは言わない。しかし、その全てを俺は汲み取れない。
楽しさは認めたくない。でも、あの試合の中に高揚感は存在していた。
その理由に納得できない限り、俺はこの感情を受け止められない。
「ミュージシャンだから……なんて、理由は納得しないよね。うん、わかってるからそんなに怖い顔で睨まないでよ」
「結論」
「ハイハイ。絆侍はね、俺がベースで練習と違うアレンジを入れたりした時、声の伸びやギターのキレが一際良くなるんだよ。だって、うちで一番の負けず嫌いだぜ?萩野君の試合なら、尚更熱くなるに決まってんじゃん」
その自覚はあった。俺は楽器の初心者だった。
依織はどの楽器も安定して演奏できるのが羨ましかった。俺がまだ、ギターが弾けずマイクの前で突っ立っていた頃、一日でも早くあいつの隣に立ちたかった。一緒に楽器をかき鳴らしたかった。アイツがテクニックを披露するたびに、俺も背伸びしたい気持ちに駆られた。
今日の試合もそうだ。直史に技を捌かれるたびに、夢中になる自分がいた。必死に食らいつこうとしていた。昔の試合の感情ではない、今の俺が抱いた感情だ。
「言っただろ?俺は勝敗なんかどうでもいい。絆侍が頑張ることだけを信じてた。だって、お前が何事も真剣に取り組める熱い男だって、俺がずっと隣で見てたんだから」
「何それ、言ってて恥ずかしくねぇのかよ」
「恥ずかしくないね、俺の自慢の相棒さ!!みんなに見せびらかしたいくらいだよ、うちの絆侍はより素晴らしいパフォーマンスができるってね!!」
いつだろうか。敗者は勝者よりも、多くの学びを得る。当時はその言葉を鼻で笑っていた。敗北よりも先に自力で身に着ければ、学ぶ必要はない、と。
軽音部で、音楽の天才である依織に才能の差を見せつけられた。ゼロからのスタートで、俺は幼少期の頃の心に近い情熱を胸に宿らせて自覚できていなかった。ここは、戦いではなく表現の世界なのに、自分をさらけ出せていなかった。
そして、直史との戦い。どれだけブランクがあろうと、俺は最後まで諦めなかった。
今日までの経験がなければ、俺はこの心を自覚できなかった。
誰にも負けたくない。最大限の力を出したい。その熱を、俺だけの中で腐らせたくない。誰かにぶつけたい。伝えたい。
灰色の世界に光が差す。俺がつまらないと吐き捨てたものは、色彩に溢れていた。
「目が、覚めた気がする。ずっと、長い夢から」
「……うん。長い航海だったね。…ねぇ、楽しかった?」
無関心なふりをしながら、俺はどこへ辿り着くかもわからない船の上で、直史が登っているかもわからない高い山をずっと眺めていたわけだ。そこに俺と同じく漂流している依織と巡り合った。俺たちは船に積んだ楽器を演奏して言葉を交わした。その時間が何よりも楽しかった。それでも、俺は視界に入る山を忘れることができなかった。傍らにずっと登山道具を置いていた。直史がずっと羨ましかったから。
もっと自由に楽しんでいいんだ。
何者にだってなれると信じていたあの馬鹿みたいな万能感を、今度はちゃんと自分の足で使えばいい。
俺の答えを待つように、依織がじっとこちらを見つめていた。
俺は椅子の背もたれに背中をつけて鼻で笑うと、窓の外を見て呟いた。
「……楽しかったよ、クソが」
「よーし、じゃあ、準備は整ったね」
依織は俺に向かってテーブルの上でペンを転がすと、落書きまみれのノートを指さした。
「さぁ、作詞家デビューだぜ、絆侍。お前の熱意を言葉にしてよ、俺が音で飾ってやるからさ」




