第二十三話
もはや頭痛の原因が、熱中症か泣きすぎかわからなくなってきた。
情けない姿を兄貴に目撃された挙句、動けない俺は自室へ連行された。俺がこの家にいる限り、目と耳に入るものは全て剣道、剣道、剣道!!負けて最悪な気分なのに、傷口に塩を塗るように、至る所に剣道が存在している。
……余計に具合悪くなるわ。
扇風機の強風を浴び、氷枕で横になること二時間弱。ようやく頭痛も引き、胸が楽になった。それでも額と首の後ろに汗が溜まっている。
ピンで前髪を留めるか、ゴムで髪を束ねるか。
そんなことを考えた時、ふと、全てがどうでもよくなった。
「母さん、ちょっと髪切ってくる」
「アンタこの前ちょっとだけ切ったばかりでしょ……って、どうしたの、その青白い顔」
「……熱中症になってただけ」
母親に金を渡され、商店街の床屋で髪を切った。
中学まで通っていた店で、三年ぶりに訪れた俺を見て店主は驚いていた。現役時代は、髪を伸ばすことが許されなかった。その反動で、剣道を辞めてからは髪を伸ばすようになった。ウルフ、ってやつらしい。
襟足は全て切り落として刈り上げた。重たい前髪も取っ払った。邪魔なもみ上げも切った。すっかり軽くなった頭は、夏の暑さを和らげるのに最適だった。
「やっぱ、短いのが楽だな」
格好良くて気に入ってた。でも、意地で伸ばしていたのも事実だ。
あーあ、俺ってホント馬鹿みてぇ。
直史のこと散々馬鹿って罵ったけど、俺も大概だな。
一人の道場で、ガキみたいに泣いた。
久しぶりに大声をあげて泣いた。あそこまで泣ける自分にびっくりした。
おかげで目は真っ赤だし、まだ腫れている。でも、スッキリした。
悔しくないワケじゃない。今でも思い出したら、何かに当たりそうなくらい悔しい。勝ち目が薄い勝負でも、負けは負けだ。それも、あの直史に初めての敗北を突きつけられたんだ。綺麗な剣道で。
気持ちの整理?つくか、そんなもの。今だって保留してる。
泣いて地団駄を踏むのは、子供のやることだ。俺はもうそんな歳じゃない。
携帯の通話ボタンを押すと、数コールも鳴らないうちに繋がった。
「あれ?明日のつもりだったんだけど、もう大丈夫なの?」
「何が大丈夫だ、負けた前提で話しかけてくんな」
電話の相手は依織だった。とぼけた様子なのが少し腹立たしい。
「今日は、空いてるか?」
「うん。基本、暇だからね。今どこ?」
「商店街」
「じゃあ、駅前のファミレスにしよう。先に行って待っててよ。多分、十五分くらいで着くから」
「わかった」
依織とのコミュニケーションは楽だった。アイツは俺の考えを汲み取るのが妙に上手くて、いつも俺より一歩先にいる。今日みたいに予定を立てるのも簡潔に話してくれるのが最高だ。いつでもいい、だの、そっちに任せるだの言ってくる奴は好きじゃない。
俺は床屋から歩いて数分のファミレスへ向かい、先に席に座っていた。適当にソフトドリンクを注文して飲んでいると、間もなく依織が現れた。
「お待たせ……って、あはは!!ひっどい顔!!」
依織は俺の顔を見るなり、指を指して笑い始めた。ヒーヒー声を上げながら、座ってちゃっかりタッチパネルで自分のドリンクを頼んでいる。注文を送信し終えると、俺の顔を見て震えている。
「……水ぶっかけるぞ」
「よくそんな顔で外に出てきたねっていうか、ツッコミどころが多くて追いつかないんだけど、ねぇねぇ」
依織は携帯を俺に向けると、写真を撮っていた。必要もないのに連写の音が聞こえてくる。
「撮るな」
「いいじゃん、侍みたいだよ。ついに世捨て人になる時に髪切るんだっけ?」
「だから、何で俺が負けた前提なんだ」
依織はテーブルに出されたジュースをストローで飲みながら、呑気にしている。
「絆侍が健闘するって信じてたけど、勝てる保証はどこにもないだろ?仮に勝っていたとしたら、今日俺に連絡しないでしょ」
「うっ……」
依織との約束の日は明日だ。そんなことわかっている。
それでも、誰かと話したくて仕方がなかった。
「珍しいね。君は人に自分の弱さを見せない人だと思っていたけど。それだけ俺が信頼されてるって受け取ってもいい?今の君の顔を見たら女子たちひっくり返るぜ」
「あんま調子に乗んな」
俺と出会ってから依織はずっとにやけている。今の俺は最高の玩具なのだろう。
からかわれることを承知の上で声をかけた。
プライドをかなぐり捨ててでも、手を借りたかったから。
「……ただ、少し、話をしたかった。気持ちの整理のために」
ストローでコップの中の氷をかき混ぜる。向きも大きさもバラバラの溶けかかった氷が、俺の頭の中で積みあがっている悩みのようだった。摩擦をかければいたずらに溶けていく、放置すれば跡形もなく消えていく。俺が捉えたいのは、今積みあがっている形だ。溶け切った思考じゃない。
俺は人に相談するのが苦手だ。そもそも相談する必要がなかった。気持ちの寄り添いなんて何の解決にもならないし、大体のことは自分が頑張れば解決できる。周りにも助けなんて要らないと思われていただろう。
「いいよ。俺の時間も言葉も心も、いくらでもあげる。今の絆侍にはそれだけの価値がある」
依織はノートを取り出すと、テーブルの上に広げた。慣れた手つきで小指に引っ掛けたペンを回し、他の指を大きく飛び越えて定位置へと納まった。年中気だるそうにしている死んだ目が、今日だけは活き活きしていた。
「さぁ、教えてよ絆侍。君の見た景色を」




