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第二十一話

 ……歩かねば。まだ試合は終わっていない。

 直史は俺より先に開始線に立っていた。

 

 道場の外で鳴き始めた蝉の声が俺の耳を詰まらせていく。

 冷たくなった汗が額をつたい、視界はとっくにぼやけていた。

 開始線に立ち中段に竹刀を構える。蹲踞の体勢から竹刀を納め、立ち上がって帯刀した。手から零れ落ちないように竹刀を握りしめ、足裏の感覚を確かめるように五歩下がる。

 試合終了の礼。俺は直史の顔を見た。


 ……あぁ、うっざ。

 俺は礼をし、一歩下がるとその場に崩れ落ちた。もう立てなかった。


「絆侍!!」


 兄貴の声がする。

 指一本すら動かすことができない俺を見て、兄貴は手早く面紐を解いて面を外した。そのまま額に手を当てると、胴紐も外し、剣道着の襟を緩めた。


「直史、絆侍を頼めるか。多分、熱中症だ。防具を外してやってくれ」

「はい、わかりました!!」


 熱中症……?またかよ。だらしねぇな。

 夏の道場の暑さなんて、こんなもんだろうが。

 いつもクソ暑い部屋にいるくせに、何で俺はこういう時にだけ……。


 兄貴は道場を飛び出すと、防具を外した直史が俺に駆け寄ってきた。


「絆侍、大丈夫?気持ち悪いとかない?」

「最悪の気分に決まってるだろうが……」

「軽口が叩けるなら大丈夫かな」

「うざ、吐く……」

「待って待って」


 直史は手早く俺の防具を全て外すと、回復体位で寝かせ、手でぱたぱたと扇ぎ始めた。弱い風が顔に当たる。


「ごめん、扇げるもの持ってなくて……お兄さんが来るまでもう少し待ってね」

「屈辱だな……」

「えっ」


 俺の言葉に直史が手を止めた。

 口の端がひくりと動く。


「俺を倒せて気分がいいだろ。随分嬉しそうだな?」


 頭は割れそうなほど痛かった。呼吸だってまともに酸素を取り込めていない。

 揺さぶられれば吐く自信だってある。

 それでも、お前の今までで一番気持ち悪いツラを見て黙っていられなかった。


「喜びたいなら素直に喜べよ。それが勝者に与えられた権利だろうが」

「僕は、喜ぶなんて、そんな……」

「そうやって本音を隠せないくせに、誤魔化す。いい加減やめろよ」

「……っ」


 道場が沈黙に包まれる。

 それを破ったのは兄貴だった。


「悪い、待たせた!!大丈夫か、絆侍!!」


 兄貴は俺の頭を氷枕に乗せ、脇にタオルで包んだ保冷剤を挟ませた。ゆっくりと俺を起こすと、スポーツドリンクを手渡された。熱で焼けた喉を潤すように流し込むと、胸が軽くなった。


「結構楽になった、ありがと」

「そうか、良かった……」


 兄貴が俺の汗をタオルで拭いながら、ほっと溜息を吐いた。

 俯いたまま言葉を発せない直史に、視線を向ける。兄貴が言葉をかけようとしたが、俺は首を振って止めた。


「で?本音は?勝負までしたんだ、ちゃんと話せよ」

「お前は少し大人しくしてろ、今は体を冷やせ」


 兄貴が俺の首や足の付け根に保冷剤を挟みながら、睨みつけた。

 この程度で黙ってたまるか。

 俺は、再び横になって直史の顔を覗き込んでやった。


「今言わないと、二度と喋らねぇだろ」


 俺の声を聞いて、顔を上げた直史の表情は形容しがたかった。

 涙を湛えた目は泣いているように見える。歪んだ口元は笑っているようだった。変な形をした眉の間にある皺だけが、対極にある感情を繋いでいた。


「……嬉しかったよ。僕だって、こんな気持ちになるなんて思っていなかった。僕が今の君に勝ったところで、誰も認めてくれないのに」


 直史は正座をしたまま、膝の上に置いた拳を握りしめる。

 コイツは昔から泣き虫だった。俺の記憶の中にいる直史は、嬉しい時も悲しい時も泣いていた。

 震える手の甲に雫が落ちる。直史は荒くなる呼吸を整えながら、静かに言葉を紡いだ。


「絆侍にずっと勝ちたかった……!!僕だってできるって証明したかった!!どれだけ頑張っても、ずっと君と比べられた。あの頃の僕を救いたかった」

「でも、俺は剣道を辞めた。お前は永遠に俺に勝つ機会を失った。今日だって、こんなのお遊びでしかない。それなのに、俺に勝ってお前は嬉しかったのか?自分が強くなったことを俺にぶつけて優越感に浸っているだけだろうが」


 言葉の途中で、喉が詰まった。胃の奥がせり上がる。

 それでも黙れなかった。


 コイツの感情は歪んでいる。

 俺が幼少期の頃から抱えていた違和感だ。


「自分自身を助けたかった?それはインターハイ優勝の実績で解決するだろ。誰もお前の結果を疑わない。それでもお前は満足しなかった。わざわざ、俺の前に現れた」

「だって、絆侍に報告したかったから……」

「何で?」


 優勝報告を聞かされた時も俺は同じ答えを返した。

 喜びを共有したいのは、ただの建前。

 少なくとも今の俺には、そうとしか思えなかった。

 全ては優越感に浸りたいだけ。承認欲求だ。


「それ、は……」

「いい加減認めろよ。自慢したい気持ちも、認められたい気持ちも当たり前だ。ただ、お前はそれを別の感情を言い訳にして誤魔化すのが気持ち悪いんだよ!!」

「絆侍!!」


 兄貴が制止するより先に、俺は息を吸った。

 吸った空気が熱くて、頭の奥が揺れる。

 それでも、今言わなければ二度と言えない気がした。


「俺はあの日、お前は高校でも一人でやっていけると信じていたから何も言わなかった。俺は剣道が嫌いだ。お前の気持ちに付き合えなかった。そして、俺のせいでお前の実力を正当に評価しない奴がいるのもうざかった」

「何だよ、それ……」


 直史の目が見開かれる。ようやく口から零れた声は震えていた。


「俺はお前に裏切者と言われる前から、ずっと憎まれていると思っていた。俺が直史の立場なら、消えてほしいとすら思う。だから、何も言わないのが最善だと思った」

「ふざけんなよ!!」


 直史は膝をついたまま身を乗り出し、俺の胸倉を掴んだ。

 顔を真っ赤にしながら声を荒げる。


「憎かったさ!!君のせいで僕は嫌な思いをたくさんした!!楽しくて好きになった剣道を、何度も嫌いになりかけた!!でも、そう思っていたなら僕に言ってくれれば良かったのに……僕は、君に認めてもらえれば良かったのに……」


 俺は直史の手首を力強く掴んだ。爪が食い込むほど力を込める。


「でもお前は、俺を逃げ道にした。自分が評価されなくても、俺がいたから仕方ないって言えるように。いつ傷ついてもいいように、俺という存在を保険にした」


 直史の手が震える。首を否定するように首を横に振りながら、目に涙を浮かべている。


「逃げ道にしたかったわけじゃない。君がいたから、頑張れたんだ。……それまで逃げ道だって言われたら、僕は何を信じればよかったんだよ!!」


 ……綺麗ごとは大嫌いだ。反吐が出る。

 俺がいたから頑張れた?俺の気持ちも知らないで、何もかもを押し付けただけのくせに?


「お前はただ、自分を信じれば良かった。自信がないから、俺を裏切者にして、自分が傷ついた理由にした」


 裏切者。三年間、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった言葉。

 俺の喉を焼き続ける呪いの言葉。


「……裏切者を自分の手で斬った気分を聞かせてくれよ、なぁ!?」


 どうにでもなれと思った。

 もう俺に過去の栄光はない。ただの惨めな敗北者だ。

 ならば、最後まで意地汚く、もがいてやろうと思った。

 こんな屈辱を味わったんだ、俺の全てを残さずぶつけてやる。

 くだらない仲良しごっこは、終わりにするべきだ。


 直史は俯いたまま、しばらく言葉を発さなかった。

 沈黙の中、直史との日々が脳裏を駆け巡る。

 幼馴染と呼ぶには互いを知らず、友達と呼ぶにはぎこちなく、ライバルと呼べる頃、俺たちは同じ場所に立っていなかった。


「ごめん、上手く、言えないや……」

「だろうな。これは俺の八つ当たり。仕返しだから許せ」


 俺は直史の手を解いて、再び横になった。

 大声を出したせいで、頭が痛すぎる。いよいよ本当に吐く。


「マジで具合悪いから、もう無理」

「わ、わかった。僕、帰るよ」


 直史は急いで荷物をまとめる。いつもよりせわしない音が、動揺を隠せずにいた。

 兄貴は口を出さなかった。兄貴が帰り支度を済ませた直史を玄関へ送ろうとしている時、俺は直史の背中に声をかけた。


「夏休み明け」

「えっ?」

「お前に今の俺を見せてやるから、待ってろ、ボケ」


 力強く指を指し、その後手を払ってさっさと帰るよう促した。

 「すぐ戻る」と言い残して、兄貴が道場の戸を閉める。

 二人の足音が完全に聞こえなくなるまで、俺は耳を澄ませていた。


「うっ……あぁ、あああああああ…………!!」


 怒りで蓋をしていた感情が一斉に溢れ出す。

 何かになりたいと願った俺の手には何も残らなかった。

 くだらない自尊心、何の役にも立たない栄光。


 初めての敗北も、試合中に感じた楽しさも、もう剣道では二度と手に入らない。

 敗者は勝者よりも多くを学ぶ。


 俺は、何も知らない愚か者だった。

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