第二十話
俺たちと審判の兄貴しかいない道場。
一本取ろうが、どれだけ攻め込もうが、称える声も拍手も存在しない。
それでも、聞こえる気がした。
直史の打突を称賛する声が。
当時の俺が気にも留めなかった、観衆の声が。
俺と直史は、静かに開始線に着いた。
ただ、相手を倒すのみ。
俺たちは互いの目を見つめながら、最後の確認をした。
「始め」
試合開始の声が落ちる。
三本目の始まりは静かだった。
間合いを保ちながら、睨み合う。相手の正面を奪い合うように、触れ合わない距離で剣先が揺れる。
互いの覇気をぶつけ合いながら、一進一退の攻防が続いていた。
この程度で怯んで堪るかよ……っ。
竹刀が交差する。
俺が踏み込むと、直史の竹刀と激しくぶつかり合う。払われては、打ち込むことの繰り返し。直史の剣先が上がった瞬間、大きく踏み込んで、直史の小手を狙った。
「……っ」
当てるつもりで狙っている。しかし、当たるとは微塵も思っていない。
直史は俺の姿勢を見て、竹刀をわずかに開いた。俺の小手打ちは受け流され、その反動で直史の竹刀が跳ね上がる。
次に狙われる場所は、俺の面だった。
面。
俺は左足を引きながら、寸前のところで直史の面打ちを抜いた。躱すことはできたが、俺が思っているより剣先は近かった。俺が届かない間合いを、直史は打ってくる。それが本当に戦いづらい。
俺はすかさず、直史に面を打ち込むが、踏み込みが甘く届かなかった。体勢を整えるために素早く離れる。
あそこから防げんのかよ……いや、できるだろうけど。
手首の柔らかさが桁違いだった。この三年間で相当鍛えたはずだ。あの当時の直史なら今のは防げない。
剣道が嫌いすぎて、高校三年間は一切の情報を入れないようにしていた。直史ほどの実力者ともなれば、動画サイトに載せられていることもある。それでも俺は一切検索しなかったし、戦績すら知らない。
直史が強いことなんて昔から知ってる。だから、今のお前を知る必要もなかった。
それでも、今はお前が先にいることが悔しい。
……俺にはもう関係がないというのに。
心の迷いは姿勢や太刀筋に現れる。
普段の直史は俺の気持ちも汲み取れないほど、愚鈍なくせに、剣道においては察しが良かった。
よく見てるよお前は本当に……っ!!
直史の変化に気づき、動きを合わせる。
鍔迫り合いには持ち込みたくない。体力や力以外に、コイツは打ち込まれるのに慣れている。引き技の技量で俺が負ける。
ならば、俺の突破口はどこにある?
一足一刀の間合い。互いの正面を奪おうと、竹刀を打ち合っては払い続ける。最低限の足音と、微かな竹刀の音だけが道場に響いている。
極限の集中状態で、しかけたのは直史だった。
俺は直史がより深く踏み込んだのを見逃さなかった。
小手だ。
俺は体の真ん中で竹刀を振り下ろし、手首を使って直史の小手打ちを真下へ打ち落とした。タイミングは完璧だった。しかし、俺の構えが甘かった。
……俺の精度がゴミすぎて、構えの中心に拳が戻ってねぇ。
すぐに打突の構えが取れず、体当たりをしてきた直史と鍔迫り合いになってしまった。
このデカブツが……。
最悪だ。これだけは避けたかったというのに。
いや、あれだけ俺が遠い間合いを維持していたんだ。近づきたくないことくらい馬鹿でもわかる。
もうこっちは踏ん張るのだってしんどいのに、目の前の直史は息すらほとんど切れていない。
だっせぇな……もう未練なんて捨てたと思っていたのに。
悔しい。もう負ける未来が見えている。
現役の時は一度も考えたことがなかったのに。
でも、まだ負けたくない。直史だけには負けたくない。
死に物狂いで勝ち取った栄光だ。
嫌いだろうが、高みを目指して手に入れた実力だ。
それが俺の中で風化していくとしても、過去の俺を否定するような諦めは必要ねぇ……!!
逃げたくせに、諦めたら格好悪いだろうが。
お前は俺を見てたんだろ、直史。
全身の力を振り絞って、直史を押し返す。
直史の手元がほんの一瞬だけ緩んだ気がした。
どいつもこいつもふざけやがって。
現役の時は俺のことをいいように使って期待を押し付けきたくせに。
勝手に理想を押し付けて、はた迷惑な夢を見て。
足に力を込める。直史が引き技に出ないよう、プレッシャーを与え続けた。
公式試合でもないのに、必死になって馬鹿みたいだ。
でも、今までのどんな試合より心が乗っている気がした。
心が乗っている?
……なんだそれ、どっかの音楽馬鹿の歌詞かよ。
馬鹿馬鹿しい。
でも、その馬鹿馬鹿しさが、今の俺を立たせていた。
勝ちたい。
過去の俺を、俺自身が見捨てたくない。
全身で押し込んでいた力を一気に抜き、後ろへ跳ぶ。引き際、直史の小手を狙って竹刀を落とした。
だが、手応えはない。
俺が離れる瞬間を最初から待っていたかのように、直史の竹刀があった。
捌かれるのなんて想定内だ。
こっちは全部捌かれるつもりで打ち続けてんだよ。
止まるな、攻めろ。止まったら終わる。
すぐに剣先で正面を奪いに行く。
小手。胴。面。狙いを散らしながら、直史の足を止めようとする。
しかし、直史は一歩も引かない。
受ける。払う。半身を逸らし、ほんの半歩だけずれる。
無駄のない動きだけで、俺の打突は有効打から遠ざかっていく。
体は完全に温まっていた。
直史との技の応酬も、最初の一本とは比較にならないほどだ。
息が熱い。面の内側にこもった熱が、喉を焼くようだ。
腕も足もとうに限界を超えていた。
それでも、俺の意地だけが剣先を保っていた。
……まだ、まだ俺はやれる。
試合の中、極限状態でふと景色が止まるような錯覚が訪れる。
この時、直史の剣先が、ほんの一瞬だけ正面から逸れた。
それは俺にとって都合の良い幻だったのかもしれない。
それでも、踏み出した足を止めることはできなかった。
……届けッ!!
「面ッ!!」
床を蹴り、飛ぶように前へ飛び出した。
正面を捉えた竹刀が、直史の面へと向かう。
この時の俺は、直史が踏み出した右足に気づいていなかった。
直史が俺の正面から外れる。
俺の面が空を打った。
直史は右斜め前へ踏み込み、俺の竹刀の道から外れていた。そのまま小さく竹刀を振りかぶる。
ガラ空きの俺の胴。何もかもが取り残されていた。
直史はしっかりと俺の目を見ていた。
「胴ッ!!」
乾いた音が、俺の体の横で鳴る。
一際大きい直史の声が場を制していた。
打たれたと理解した時には、直史は俺の横をすり抜けていた。
振り返った直史は、静かに構え直していた。
その姿に、隙はなかった。
「勝負あり」
戦いの終わりを告げる声が、真夏の道場に落ちた。
それは、初めての敗北だった。




