第十九話
直史は何も言わなかった。一本を取られた悔しさを顔に出すでもなく、俯くでもない。ただ静かに開始線へ戻る。
その背中を見た瞬間、嫌な予感がした。
直史は、折れていない。
それどころか、さっきよりもずっと静かだった。
二戦目。
開始線に立ち、試合開始の合図が落ちる。
視線が絡んだ瞬間、肌が粟立った。面の内側で、息が詰まる。
……来るッ!!
そう思った時には、直史の竹刀が振り下ろされていた。初動の手首の動きを見落とすほどの、無駄のない滑らかな動き。
「面ッ!!」
速い。さっきの面とは比べ物にならない。
俺は竹刀を斜めに構え、反射で避けた。乾いた衝撃が腕に走る。
体に染みついた動きは簡単に忘れられないらしい。
現役時代の感覚が、俺の奥で少しずつ呼び覚まされているようだった。
いちいち頭で理解していたら、この試合の速度に間に合わない。
交わった竹刀が離れるよりも早く、直史の剣先がもう一度、俺の喉元へ伸びた。
距離を取ろうと後退するが、直史の脚捌きは速く、すぐに距離を詰められてしまう。剣先を払うが、それでも直史の竹刀は眼前から離れない。
先取をしたのは俺なのに、直史は試合の流れを完全に断ち切っていた。
静かなはずの直史から、焼けつくような圧が立ち上っていた。
さっきまでの直史とは別人のようだった。
俺の記憶で、直史が攻めに寄った剣道をした覚えはない。
俺の考えすらも掻き消すような一太刀が容赦なく振り下ろされる。
「面ッ!!」
首を傾け、太刀筋を外す。
こんなのを何度も繰り返されれば、いずれ当たってしまう。
……随分と強気だな。
直史の竹刀が俺の肩に乗り、こちらの竹刀も逃げ場を失っていた。
直史は竹刀を下方へ引き抜くと同時に、踏み込んで鍔迫り合いとなった。
押し返そうとすれば手元が浮く。力を抜けば、間合いを潰される。
俺はお前が必死に食らいつくような相手でもないだろ。
今の俺なんて隙だらけだ。
技のキレだって落ちているし、脚捌きだって間に合っていない。
それなのに、直史の打突は全て俺に八つ当たりをしているようだった。力も速さも申し分ない。しかし、直史の実力を考えると、イマイチ精度が足りていないように感じた。
……何イライラしてんだよ、コイツ。
俺に取られた一本が悔しい?そんなワケがない。
あんな一本、お前はまぐれだと切り捨てるかもしれない。
直史はあの日からずっと、今の俺なんか見ていない。
お前が認めてほしかったのは、三年前の俺なんだろ。俺もお前も別の道を歩んでいるのに、お前は過去の俺を見続けている。
もう誰も俺とお前を比較しない。
いつまでも勝手に期待して勝手に失望してんじゃねぇよ……!!
面越しに直史と視線を合わせる。
試合開始の情けない顔はとっくに消えたようだ。
直史の性格上、何かにイラつくのはあまり見たことがなかった。そもそも穏やかを絵に描いたような奴だ。俺と違って攻撃的な言動をしない。
それは試合スタイルも同じだ。強気に出て揺さぶりをかけるのはわかるが、これは何かが違う。
お前は、俺に何をぶつけたいんだよ……。
俺は軽く息を吸い込み、腹の底から声を張り上げた。
直史が怯んだ瞬間を狙い、体当たりをして突き放した。
それでも、直史は俺の隙を見逃さない。体を引きつつ、直史の竹刀が上がった俺の小手を狙った。
竹刀が完全に離れる前に、近い間合いのまま相手の竹刀を押し込み、ぎりぎりの距離で外す。
ようやく遠い間合いへと逃げることができたが、呼吸を整える暇はない。
絶対に、この試合は長引かせたくない。
昔から、持久力は直史の方が上だった。体力テストのシャトルランだって、一度も直史に勝てたことがない。長距離走もだ。
俺が足を止めたくても、お前はずっと馬鹿みたいに後ろを走っていた。ある程度まで走れば、限界を突き詰めなくてもいいのに、お前は最後までずっと走っていた。
そのひたむきさが眩しくて、俺はずっと嫌いだった。
あと一歩で届くところまで踏み込んで、引く。
俺が追えば、打突の機会を待ち、俺が待てば詰めてくる。
近くにいるようで、届かない。
有効にならない打突を俺に何度も打たせてくる。
術中に嵌っているとわかっているのに、抜け出せなかった。
さながら、蟻地獄のようだ。逃げようと足掻くほど、直史の届く距離へ引きずり込まれていく。
呼吸が乱れる。竹刀を振る速度も、踏み込みも鈍くなっていく。
剣先が、ほんの少し落ちた。
俺の視界の正面を、直史の剣先が捉えた。
遠くに見える直史は、まるで俺を憐れんでいるかのようだった。
……やらせるかよ!!
俺は手首を傾けて、直史の打突に備えた。
眼前の剣先が上下に揺れる。
面に来る。そう読んだ。
けれど、振り上がった竹刀は途中で止まり、俺の手元へ落ちた。
なっ……。
「小手」
乾いた音が響いた。
兄貴の声を聞くまでもなかった。
一本。
打ち返そうとするより早く、直史は俺の横を抜けていた。
振り返った先で、すでに構え直している。
隙がない。
怒っているくせに、一本を取るための形だけは崩れていない。
そういうところがクソ腹立つんだよ。
誰が見ても文句のつけようがない。
手本みたいな小手だった。
そんな一本を取られたまま、終われるワケがなかった。




