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第十八話

「始め」


 兄貴の声が落ちた瞬間、俺たちは同時に立ち上がった。


 最初の一太刀を制することができなければ話にならない。きっと、互いにそう思っていた。

 練習で剣を交わした時も、俺たちの試合の始まりはいつも同じだった。

 同時に踏み込んだ足音が道場の床を震わせる。俺は飛び出すように体を前方へ動かし、一点を狙った。


「「面ッ!!」」


 互いの竹刀が頭上を掠め、肩に当たる。首を傾げながら歩幅を詰め、肩がぶつかりそうな距離で鍔迫り合いが始まった。

 試合開始から今に至るまで、俺と直史は一度も視線を逸らさなかった。


「……っ」


 直史の竹刀に力がこもる。俺の目を見つめたまま、決して一歩も引く様子がない。

 俺はパワーでは直史に勝てない。コイツがその気になれば、俺の重心を崩して隙を作ることなど容易なはずなのに、それをしてこなかった。

 これは戦略ではない。


「……」


 面の奥から不安そうな瞳がこちらを覗いていた。

 直史の竹刀も押し切るほどの力ではない。

 ……ハイハイ、そういうことかよ。萎えるような真似してんじゃねーよ。


「……チッ」


 試合が始まっているのに確認をされたワケだ。

 本当に、逃げないで自分と戦ってくれるのか、と。

 この期に及んで背中を向ける剣士がどこにいる?舐めやがって。


 俺は直史を睨みつけながら、相手の竹刀を前方へと押し倒した。しっかりと足腰に力を入れ、直史の姿勢を崩しにかかる。

 ここにいる誰もが、俺の実力を測れない。俺自身も。

 ブランクのある人間が、強気な攻めに出るとは思わないはず。だからこそ、俺は押し続ける。自分の手元に隙が生まれぬよう、注意しながら直史の反応を窺った。

 

 俺の意思を受け止めたのか、応えるように直史は反発して竹刀を押し返してきた。直史の腕が少しずつ伸びてくる。俺は素早く後ろへ下がると、そのまま真下へ竹刀を振り下ろした。


 竹刀から軽い衝撃が伝わる。直史は俺の引き技の警戒を怠らず、俺の打突を弾いていた。体勢を崩さず後退する俺を逃がさぬよう、直史の竹刀が反対側から俺の小手を狙う。

 ……速いっ!!


「……!!」


 無駄に横へ竹刀を回らせず、真下へ振り下ろされる一太刀。三年間で直史は振りの速さを手に入れていた。

 すぐさま手首を捻り、寸前で竹刀を受ける。しかし、それだけで直史の攻撃は止まらず、俺の中心を捉えた竹刀が面に向かって振り下ろされた。

 一瞬、世界が止まるような錯覚の中で、俺はそれを視認できていた。

 後退しつつ太刀筋を逸らし、ようやく剣先が触れ合う距離まで戻ることができた。

 どうやって凌いだなんて、説明できなかった。体が勝手に動いていた。リプレイを見せてほしいくらいだ。


 技量で直史には敵わない。悔しいが、わかりきっていた。

 小手を狙えば読まれる。胴へ回れば、足で距離を潰される。鍔迫り合いに持ち込めば立て直せるが、引き際を狙われる。

 力勝負も分が悪い。

 今の俺に、長く付き合えるだけの余裕はない。


 あぁ、クソっ、腹が立つ。

 剣道を辞めていなければなんて、ふざけた考えがよぎった俺に腹が立つ。

 手放したのは俺の意思だ。

 それなのに、中途半端に残った意地とプライドと過去の栄光が、今日まで俺を支えてきた。

 その柱に、小さなヒビが入っていく。


 直史の竹刀が俺の正面を奪おうと、俺の竹刀を軽く弾く。交互に竹刀を交わらせながら、遠い間合いを保つ。俺も正面の線を奪われないように構えるが、直史はその間すら与えてはくれない。

 焦らすような膠着状態が続く。竹刀は何度もぶつかっているのに、互いに決定打までは届かない。

 あの直史とはいえど、インターハイ優勝まで辿り着いた強者だ。簡単な駆け引きに応じるはずがない。


 ……押されている。試合の主導権を完全に直史に握られている。

 焦りすら禁物だ。打突を警戒するあまり、手元が疎かになってしまう。

 勿論、直史は見逃さない。


「小手っ!!」


 直史の小手に対し、右手首を捻り、竹刀で受けた。衝撃が小手の内側まで響く。

 続けて面。太刀筋を何とか逸らし、半歩入って距離を潰す。

 俺たちの手元では、ぎしぎしと互いの鍔が迫り合っている。

 当人たちは至近距離で争っているのに、外から見れば静かなものだ。道場には何の音も響いていない。俺たちの耳にだけ、互いの呼吸が届いている。


 直史は息一つ切らしてはいなかった。

 お前が一番俺の戦い方を知っている。これは当然の戦略だ。

 だが、お前の筋書きに付き合ってやるほど、俺は優しくない。

 掌で転がされるなんてうんざりだ。


 再び直史から距離を取る。

 その時、俺は直史の視線を見逃さなかった。


 俺の小手を警戒する動き。そして、視線。

 当然のことだった。俺が、お前に届くのは容易ではないのだから。


 小手。胴。小手。

 遠い間合いを保ちながら、俺は攻める手を強めていく。

 狙う場所を散らしながら、俺の中心を捉えようとしている直史の竹刀を少しずつ逸らしていく。

 直史の手元はブレなかった。

 そして、この攻防の間に見ている場所も変わっていなかった。


 俺が僅かに距離を詰めた瞬間、直史の意識が手元に落ちた。

 瞬きの間にも満たない隙だった。


 ……今だ。


 直史の竹刀が中心から僅かに逸れる。


 届くはずがないなんて、フザけたこと思ってんじゃねぇよ……!!


 一つ。幼い頃から、人の努力を嗤う奴が嫌いだった。

 二つ。その努力を軽んじる奴も大嫌いだった。

 三つ。熱意も覚悟も度胸も、ないものとして笑う奴はもっと嫌いだった。


 俺は人より背が小さい。どいつもこいつも平気で俺を上から叩いてくる。

 身長差は間合いに影響を与える。俺が直史の面を狙う場合、最悪体ごと飛んでいかなければ届かないこともある。それだけ隙が大きい。


 遠い。届かない。そんなこと誰だって思う。

 それでも、小さな剣士は手首を伸ばし、腕を伸ばし、大きな一歩で飛び出すように面を打つ。俺だって、そうやってきた。


 だから、届かせる。俺が何年この戦い方をしてきたと思ってんだ。


 左足で床を蹴る。ブランクを感じさせないほど、俺は弾丸のように前方へ飛んだ。

 体が浮く。直史の目が見開かれ、反応が一瞬だけ遅れた。

 面の内側で、息が腹から声に変わる。


「面ッ!!」


 乾いた音と、俺の声が道場に響いた。


 打った勢いのまま、直史の横を抜ける。そのまま振り返り、竹刀を構え直した。

 ほんの一瞬だったのに、走った後のように心臓の鼓動がうるさかった。

 乱れた呼吸を整えつつ、剣先だけは下げなかった。


 直史は、ほんの一瞬だけ動けずにいた。

 面の奥の目が、俺を見ている。

 知らないものを見る目だった。


「面」


 兄貴の声が道場に落ちる。


 一本。

 俺は直史から、先に取った。

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