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第十六話

 怒涛の一週間だった。一日のタイムスケジュールの空きがない。一分一秒でも時間があれば、勉強をし、歌やギターの練習をし、筋トレをしていた。

 直史との試合なんて、兄貴が勝手に決めたもので、公式試合ですらない。誰にも期待されていない。観客もいない。得られる成果もないのに、いつの間にか必死になっている自分がいた。


「バッカじゃねぇの……」


 机の端に置いた歌詞カードは白紙。言葉だけは浮かんでこなかった。


 試合の前日。軽音部は休みだった。

 俺の予定では、午前中は勉強し、午後から鍛錬をしようと考えていたのだが、その予定を崩すように枕元に置いてある携帯が鳴った。

 朝五時である。


『近所の公園に集合』

『何で?』

『(いーからいーからと書かれたスタンプ)』


 少しでも休みたい俺を叩き起こしたのは依織だった。

 朝が弱い男で、しかも部活は休みだ。

 俺は依織の意図を汲み取れないまま、渋々とベッドから脱出し、適当な服を着た。朝の五時に起きるなんて、父親に叩き起こされて朝稽古をしていた時以来かもしれない。


 夏休み。日曜日の早朝。雲一つない青空。

 車の走っている音もほとんど聞こえない。空気が澄んでいるようだった。

 やがて到着した公園には、子供からお年寄りまで複数人が集まっていた。うちの近所の町内会は比較的活発で、日曜日でもラジオ体操をしているらしい。

 まぁ、この人数を見れば元気なのは明らかだ。

 集団から少し離れた位置に立っていると、後ろから声をかけられた。


「おはよ、絆侍。来てくれなかったら、俺一人で人生初の町内会ラジオ体操に参加するところだったよ」


 寝ぐせのついた頭で半目開きの依織が姿を現した。ジャージを着ているが、公園にいる他の参加者と比較しても、何故か不健康に見える。極めつけはその猫背だろうか。


「……これが目的だったのか?」

「うん。夏休み。朝。公園といえば、ラジオ体操じゃん?だって、絆侍もジャージ着てるし」

「これは適当に着てきたんだよ」

「そうなの?まぁ、いいや……ふわぁ、そろそろ始まるよ」


 依織は俺の袖を引っ張って公園の中心へ向かい、二人で並んで立った。

 中学生はちらほら見かけるが、高校生は全くいない。少し恥ずかしかった。


「何でラジオ体操なんだよ」


 小声で依織へ文句を告げる。聞こえているのか寝ぼけているのかよくわからない。

 ワンテンポ遅れて、気の抜けた声が返ってきた。


「リラックスのためだよ、肩に力が入ってるどっかの誰かさんのね」

「はぁ!?」


 声を少し荒げてしまい、周囲の何人かの視線が俺たちに集まる。俺は小さく頭を下げながら、依織を睨みつけるとアイツは呑気に笑っていた。


「朝からカリカリしたらダメだって。ほら、深呼吸から始まるよ」


 聴き馴染みのあるラジオ体操の音楽が流れる。

 どうせ午後から体を動かすのだから、先にストレッチをしておいて損はない。俺はしっかりと手足を伸ばして、大きく息を吸い込んだ。腕を回し、ふと、隣の依織を見た。


「ふっ」


 伸びきらない腕。変に前へ突き出た頭。前屈もほとんど屈めていなければ、地面に手も届いていない。俺を誘った依織がここにいる誰よりもラジオ体操が下手だった。

 ラジオ体操第一が終わり、すぐに第二が始まった。


「えっ」


 依織は驚いて俺の顔を見た。学校でもラジオ体操第一で終わることが多い。俺も小学生の頃に町内会のラジオ体操で初めて知った。

 俺のほうをずっと見ながら、少し遅れて動く依織。その姿がぎこちないマリオネットのようで、俺はずっと笑いを押し殺しながら体操を続けた。

 体操を終えた頃、全然動けていなかった依織の顔は真っ赤だった。


「……誤算だった。まさか、第二までやるなんて」

「すげぇ昔は第三もあったらしいけど」

「そんなにあるの!?」


 二人でベンチに座りながら、スタンプカードを押してもらう子供たちを見た。ランニングへ向かう者、軽めのストレッチを続ける老人、談笑をする保護者。くたびれた高校生は俺たちだけだった。


「肩の力、抜けたでしょ」

「誰かさんの間抜けな姿のお陰でな」

「弄るのやめてってば」


 依織がジャージのジッパーを口元まで上げて、俺の肩を軽く叩いた。


「剣道って声出すんだよね。これで、声も出るんじゃない?」

「声の大きさ争う競技じゃねぇけど」

「わかってるってば!!」


 顔を見合わせて笑うと、依織は真剣な表情で俺に語りかけてきた。


「いよいよ明日だね」

「……俺が勝つ」

「いいよ、勝敗なんて」

「よくねぇ。勝負したことない奴がそう言うんだよ」

「んー……まぁ、そうかも」

「勝つか負けるかで見える世界は変わる」


 俺に必要な景色も、そのどちらかにある。


「絆侍が見たい景色はどっち?」

「そんなの勝った景色に決まってるだろうが」

「……本当に?」

「うざ。負けるつもりで戦いに挑む奴なんかいねぇよ」

「それもそうか~」


 これが真剣の斬り合いなら、負けは死を意味する。そんな戦いに、弱気でいられない。俺は直史を倒す。俺が負けていないと証明する。

 でも、その先の景色を俺は想像できていない。


 依織は立ち上がると、俺に向かって拳を突き出した。


「歌詞の締め切りは明後日。泣いても喚いても変えないからな」

「当然。約束は守る」


 依織と拳を突き合わせる。

 拳が離れると、依織は大きな欠伸をした。


「うん、信じてる。じゃあ、眠いから帰るわ」


 自分で呼び出しておいて、眠いが理由で帰るとか……勝手か?

 とぼとぼと遠ざかっていく背中を見て、俺は声をかけた。


「依織」


 依織が足を止める。


「ありがとう!!」


 馬鹿みたいにでかい声を背中にぶつけてやると、依織の肩が跳ねた。その後、しばらく肩を震わせると、振り返らないままひらひらと手を振って去っていった。

 突然大声を出した変人になってしまった俺も足早に帰宅した。


 リビングには、兄貴と俺の賞状やトロフィーが飾られている。それ以外にも、写真がある。俺は埃の被った写真立てを手に取ると、表面を手で拭き取った。

 中学最後の大会。顧問が撮った、俺と直史のツーショット。ようやく剣道から解放された喜びを隠せない俺と、俺の優勝を心から喜んでいる笑顔の直史。


「直史……」


 俺の全てをぶつける。

 何もかもを断ち切って、その先を見てやる。


 翌朝。道場の白熱灯が、まだ薄暗い床を照らしていた。


 俺は道場の中央に正座し、膝の横に竹刀を置いた。

 背筋は勝手に伸びる。

 こういう時だけ、体に染みついた礼法が顔を出すのが腹立たしかった。

 それでも、膝は崩さなかった。


 逃げる場所はない。逃げるつもりもない。


 ただ、直史を待っていた。

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