第十五話
「見えるものが違う、か」
結局、歌詞を考えないまま俺と依織は一時間ほど歌い続けた。夕飯の時間になる前に帰宅し、俺は食事をとりながらもぼんやり依織の言葉を考えていた。
俺と直史の対決の先に、見える世界がある。
俺はまだ、その先を見る覚悟ができていなかった。
今日も道場へ向かい、胴着に着替える。準備運動を済ませると、今日も数分後に兄貴が姿を現した。俺の顔を見るなり、兄貴は目を丸くした。
「今日は調子が良さそうだな」
「昼間、暑さで死にかけたんだけど」
「そうなのか?大丈夫か?」
「うん……まぁ、いけるわ」
互いに防具を身に着け、向かい合う。兄貴は礼をする前に、一つルールを決めた。
「今日は小手禁止」
「は?俺の攻め手を潰してどうすんだよ」
「潰されて困るような手なら、それはお前の逃げ道だ。潰すに決まっているだろ」
別に小手を禁止されたからと言って、戦えないわけじゃない。
わかっていても、多分俺は小手を打ちそうになる。
「身長差を気にして小手に逃げるなら、直史には届かないぞ」
「そんなことわかってるって……」
観察も、動きも、戦略も足りていない。
限られた稽古の中で感覚を取り戻さなければ。
礼をしてから蹲踞し、立ち上がって試合が始まる。兄貴から目を逸らさず、間合いを保ちながら攻めの機会を伺う。剣先を届かせたいのに、兄貴の面は遠い。俺が踏み込めば、兄貴はすかさず打ち返すだろう。
でも、試してみなければいつまでたっても届かない……!!
「面──っ」
「小手」
「くっそ」
兄貴は俺を制し、片手に持った竹刀を俺の中心へ向けた。
「お前は小さいんだから、無理に面を狙うな」
「小さいは余計だろうが」
「中心を取って、お前が相手を動かせ。試合を制しないと、お前の剣道は取り戻せないぞ」
こんな簡単なことも兄貴に言われないとできていない自分が嫌だった。
たった三年なのに、体は勝ち方の一部を忘れている。
「……もう一回」
剣先が触れる。
それだけで、兄貴の圧が手元に流れ込んでくる。
力めば手元が浮いて隙を突かれる。
それでも、押せば押し返されるし、引けば詰められてしまう。
正面の線さえ奪えれば、兄貴の竹刀より先に俺の剣は届く……はずなのに。
剣先が逸れ、兄貴の竹刀が小手を打った。小気味良く乾いた音が響く。
「迷いが見える」
「ちっ……」
「打てる瞬間を探すな、作れ」
……簡単に言いやがって。
アンタの隙を作るのがどれだけ難しいことか。
一歩、攻め入りながら竹刀の表をなぞる。
兄貴の竹刀を小さく払い、叩き、中心線をこじ開けていく。
……右手に力を入れすぎるな。軸がブレる。
探る、拾うだけじゃ勝てない。
俺が、この場を作り出す……!!
気取られぬように僅かに手元を上げる。勿論、兄貴はそれを見逃さなかった。
中心から放たれる面。
兄貴の竹刀を下からすくい上げるように弾き、軌道を逸らす。
「……っ!!」
兄貴の竹刀の向きが変わり、中心に隙が生まれた。すかさず、右斜め前へ体を開きつつ、俺は面を放った。
「面っ!!」
兄貴の横を抜け、すぐに振り返って次の一手に備える。
兄貴から面を取ったのは久しぶりだった。
その後も、俺は兄貴相手に一本を……なんて、甘いことはなく、徹底的に扱かれた。何もできずに終わっていた試合が長引いていく。頭の中に戦略が生まれ、意図せず体が動き、兄貴の技が少しずつ見えるようになってきた。
「今日は調子がいいな。前回と別人みたいだ」
「これだけやっても、一回も勝てねぇんだけど!!」
「そんなことないさ、俺に面を食らわせたのは中々だぞ」
ともに着替えを終えて、道場の床に座り込む。汗を拭きながら、水を飲んで体を休めていた。道場の外から、小さな虫の音が聞こえてくる。夏もゆっくりと終わりに近づいていた。
「何かあったのか」
「何って」
「様子が違ったから」
「……」
兄貴に依織の話をした。軽音部の大会のこと。
そして、今日二人で話したこと。
「この試合が終われば見えるものが違うって。俺を信じているって言われた」
信じられるものが自分だけだった。誰かを勇気づけるような言葉に振り回されるのは、馬鹿のやることだと思っていた。
でも、今の俺はまさにその馬鹿で、友人の言葉に背中を押されている。
アイツは、俺の過去なんか知らないのに。
「いい友達だな」
「どこがだよ。好きな歌詞で友達選ぶような変人だぜ?」
「でも、お前のことを見ている。今のお前を」
素直じゃないなぁ、昔から、と兄貴は乱暴に俺の頭を撫でた。
すぐに子ども扱いする、その大きな手が嫌いだ。
「なら、最後までやり遂げなきゃな」
「試合に関しては、俺に義務はないけど?」
「でも、断らなかった。理由はそれで十分じゃないか?」
「どいつもこいつも同じこと言いやがって……」
兄貴は立ち上がると、道具を持って振り返った。
俺とは違うものを、いくつも背負っていく背中だった。
「覚悟はできているだろう。なら、やるべきことは決まっている」
「当たり前だ。伊達に兄貴を見て育ってきてねぇよ」
「ははっ。それもそうだな」
今日は稽古が終わっても、前回ほど息は切れていなかった。
稽古内容的には、厳しかったのに、手も膝も震えていない。
奥に眠っていた感覚が少しずつ目を覚ましている気がした。
それと同時に、まだ俺の中から消えていなかったのかと思う自分がいた。
「また、明日な。遅れんなよ」
「遅れたことないわ!!」
無駄に広い背中にタオルを投げつけてやった。




