第十一話
「そういえば、〇△高校に穂高先生がいるんだってな。昨年赴任したらしい」
穂高先生、というのは父の知り合いの高校教諭だった。剣道の指導の名手と呼ばれている。ちなみに、〇△高校は俺が進学予定の高校だ。
「へぇ、そうなんだ」
嫌な予感がした。俺はそれ以上話を掘り下げてほしくなくて、興味がないふりをした。俺にはもう関係のない話なのだから。
「昨年もインターハイ出場を果たしたらしい。穂高先生の指導を受けたくて、〇△高校を受験する生徒もいるらしいぞ」
「人気なんだね」
俺は父と目を合わせなかった。父と剣道以外の話で雑談した記憶などほとんどない。母のご馳走も、次第に味がしなくなっていく。
BGM程度に点けたままのテレビでは、天気予報が流れていた。今日の夕方から天気が崩れるらしい。
「お前の今後の活躍も楽しみだな。あの先生の下なら、更なる高みへ行けるだろう」
「……はぁ?」
俺は眼前の父を睨みつけた。俺の反応が予想外だったのか、父と母は目を丸くしていた。
「高校でも、剣道を続けろってことかよ」
「だって、勿体ないだろう。お前には立派な才がある。もっと広い世界へ行ける力がお前にはあるのに」
「広い世界?この狭苦しい世界に俺を閉じ込めておいて?」
竹刀を投げ捨てれば、どこへだって行けた。俺がずっと道場に閉じ込められ、白熱灯に晒され続けたのは剣道があったからだ。
父の言う、広い世界は剣道の域を出ない。結局、父も狭い世界で生きている。この家の誰もが、大海を知らない。
「やめるのか」
父の顔から表情が消える。
「やめちゃうの?お兄ちゃん」
「なんで?なんで?お兄ちゃんかっこいいのに」
隣で弟が俺の腕を掴んで揺すった。妹は不安そうに俺を覗き込んでいる。
両親の期待も、弟や妹の応援も理解している。それでも結局は他人だ。
……誰も、俺の心まではわからない。
「やめる。約束しただろ、中学で剣道を続けるときに。三年間だけにするって」
「でも、全中で優勝したのにここでやめてしまうのは勿体ないと思わない?」
「いいや、別に」
父の顔色を伺いながら、恐る恐る質問を投げかける母を一蹴した。
俺にとって剣道は、塾の模試みたいなものだった。良い点を取れば褒められる。悪ければ叱られる。それだけだ。
「剣道が好きだったんじゃないのか、昔からずっと」
父の言葉に耳を疑った。
……本気で言ってんのか。何年も俺を見ていたのに。
その言葉が俺の心を踏み荒らすには十分だった。
「……あ゛?」
一瞬で沸騰したようだった。俺は気づけば、身を乗り出して父の胸倉を掴んでいた。
「親に向かって……!」
父が俺の手首を掴んで振りほどくよりも早く、力任せに握った拳で父の頬を殴り飛ばした。父が隣の畳の間に横たわる様を眺めながら、右の拳がひりひりと痛んだ。殴り方なんて習ったことがなかった。存外、人間は固いらしい。
血相を変えて父親に駆け寄る母。俺の脚にしがみついて泣きじゃくる弟。部屋の隅で放心する妹。
温かい食卓が崩壊するのは一瞬だった。
まだ誰も手を付けていない料理が、皿から零れていた。
心臓が走った後のように速く、右手は小刻みに震えていた。耳の奥でごわごわと、行き場を失った感情が鼓膜を叩いている。
「何のため?俺に剣道を続けさせたのは、道場のためだろ!?俺はどうせ兄貴の代わりでしかないんだから……!!」
その時、ドアが開き、ずぶ濡れ姿の兄貴が姿を現した。
兄貴の視界にリビングの惨状が映る。微かに驚いていたが、兄貴は至って冷静にケーキの箱をテーブルに置いて俺に歩み寄ってきた。
「絆侍。少し、俺と二人で話そう」




