7.
助けを呼ぶ声にクレアは跳び起きてひとまず剣と明かりを手に部屋を出る。すぐ横の部屋からはロサも飛び出て来て、視線をかち合わせて互いに一瞬睨み合っていたが、即座にそんな場合では無いと思い直し声のした方へと走り出した。
教会の入り口に来るとそこにはどこかで見覚えのある柄の悪そうな男が震えながら地面に転がっている。余程恐ろしい目に遭ったのか顔面蒼白で今にも泣きだしそうだ。
「確か、サンクトと一緒に居たな?」
ロサが彼の顔を見てそう言った。それを聞いてクレアもすぐに思い出す。この男はサンクト達に出会った時に真っ先にこちらに絡んで来た男だ。しかしながらあの時の威勢の良さは今や見る影もない。クレア個人としては態度の悪さに腹を立てたこともあり蹴飛ばして追い返しても良いぐらいだったが、まあ、そんなわけにもいかないのが彼の立場だ。
「何がありました?」
クレアが尋ねると男は震えながらも必死に言葉を紡ぎ始める。
「い、異常だ! 異常なんだ!」
「どのような?」
「最初は、く、熊みたいな、でかいやつが出て来て、俺達は逃げたんだ」
「逃げて、どうしました?」
「そしたら今度は蛇が! でかい蛇が出て来たんだ! あいつは木を薙ぎ倒して……、仲間がまだ山に!」
熊と、蛇。二人にはそのどちらにも心当たりがあった。故に思わず二の足を踏む。熊は住民が巨大な毛皮を作り演じているだけの偽物である可能性が高い、もしそうであれば現場を抑えられるならあらゆる手間を省くことが出来るのでそれは彼らの望むところだ。
しかし一方で蛇はまずい。大蛇はカルゴーネに来る途中に出会った本物の異常だ。少なくともたった今彼らが言ったようによく育った木をも薙ぎ倒すだけの力を持っている。クレアも多少は剣術の心得があるとはいえはっきり言って勝てるとはまるで思えない。
ただし彼らにはもう一つ理解していることがある。それはそんな大蛇をも撃退出来る戦力があるという事だ。そう、虐殺騎士ゼノであれば。二人はゼノが来るのはまだかと彼の部屋の方を見る。そこにいたのは。
「助けに行かなきゃ!」
カルゴーネの村娘、ミリィだ。二人がなぜここに、と問う間もなく彼女は走り出していた。
「待っ!」
咄嗟にクレアは止めようとしたが伸ばした手をするりと抜けて彼女は教会の外へ。一瞬、悩んだ後にクレアは彼女の後を追って走り出す。
夜の闇を駆け抜けるミリィはもしかするとこの暗闇の先を見通せているのだろうかと思う程に迷いなく走り、本来の運動能力では明らかに上回るはずのクレアに追い付かれる事無く炭鉱の方へと向かって行く。その背中を追いかけるクレアは明かりに火を点けるのに手間取り後れを取ったがやがて足元を照らすランタンが灯され本来の調子へと戻って行く。
従騎士の訓練の中には夜間の行軍も含まれていた。異常は昼夜を問わず発生する、夜の闇に慣れておくのも彼らのすべきことだろう。ミリィの背をどうにか見失わずに済んだのはその訓練の賜物だ。
「しかし……、速過ぎる……!」
おそらくは土地勘があるからこその速度なのだろう、周囲の僅かな情報だけでどこに何があるのかを頭の中で組み立てられるのだ。とはいえそれを信じ疑うことなく駆け抜けるのは鋼の心臓の持ち主と言わざるを得ない。すぐ傍には用水路を流れる水の音が聞こえているのだから。
とはいえやがてミリィの体力にも限界は来る。彼女は畑仕事を生業としているとはいえ体力は人並み、訓練を積んだ従騎士のようにはいかない。徐々に近付く背にクレアは手を伸ばした。
「止まってください!」
背中の布を掴みクレアが叫ぶ。しかしミリィが止まろうとする気配は無かった。仕方なくクレアはそのまま彼女の横を抜けて前に出る。
「止まれ!」
両腕を広げるとそのままぶつかって来るミリィを受け止めた。後ろ向きに倒れながらも彼女を抱きかかえるようにしてその動きを止める。
「怪我はありませんか?」
「何で止めるの!」
怪我の有無など彼女はまるで気にしていないようだ。即座に腕を振り解き立ち上がり走り出そうとしたがクレアもまたその前に立ちはだかる。感情的に怒りをぶつけられて少し困った表情でどうしたものかと考えながら。
「何をしに行くつもりです」
「当然、助けに行くの!」
「あなたが行っても役に立ちませんよ」
クレアの言葉は一見、無慈悲だ。しかしその裏には彼なりの優しさが含まれている。
「あなたは特別な訓練を受けているわけでもない単なる一般人。異常を前に立ち向かったところで死体が一つ増えるだけです」
異常とは本当に簡単に人の命を奪ってしまうものだ。窮地に追いやられた誰かを助けようとするそれは美徳とすべきものだが、確実な死が待っているのであればそれは止められるべきものだ。少なくともクレアにはその程度の良識は残っている。
しかしミリィは聞く耳を持たない。
「クレア様はサンクトさん達が憎いの?」
「は?」
「異常を偽った人達なんか死んでもいいって事なんでしょ?」
クレアはその問いに僅かに悩んだ。非常に核心を突いた、心臓を抉るような問いだったのだ。確かに彼はサンクト達など死んでしまえばいいと思っている。異常の恐ろしさを知る者として、異常に故郷を滅ぼされ憎しみを持つ者として、彼らのやったことは許せない。もしも法が許すならば、彼らを殺す事に躊躇いは無いのだろう。
そんな迷いを突かれ怯んだ隙をミリィは見逃さなかった。手を振ったかと思うといつの間にか握られていた砂が放たれる。
「うわっ!」
それは不意を打たれたクレアの目に入り、彼を数秒足止めした。横を走り抜けていく音に彼は手を伸ばしたがすんでのところで避けられてしまう。
「あ~! くそっ!」
悪態をついたところで元を辿れば彼自身の油断が招いた失態だ。そしてこの場においての数秒の遅れは想像よりも大きい。
「まずい、山に入るぞ……」
既に木々のひしめく山が程近くに見えているのだ。クレアは急ぎミリィを追う。
山道に入れば見失う危険性がより高くなるのは火を見るよりも明らかだ。そして何よりも大蛇が山の中にはいるはずなのだ。そんなものがいると知っていれば普通は二の足を踏んでしまいそうなものだがミリィが躊躇いなく山の中へ足を踏み入れて行くのでクレアも行かざるを得ない。
「ミリィさん! この先は危険です! 戻ってください!」
一応声を掛けてみるも反応はない。クレアは微かに聞こえる足音を頼りに後を追う。奥深くへと足を踏み入れて行ってしまう。
「お願いですから止まってください! 彼らの言っていた大蛇は本当に危険なんです!」
言いながら彼はまるでそれは自分に改めてその事実を突き付けているようだと感じていた。これ以上は本当に危険だ、だから足を踏み入れるのをやめろと自分自身に言い聞かせているのだ。
ミリィが助けを求める声を聞いて駆け出したのを見た時、彼は馬鹿なのかと思う一方でどこか尊敬するような気持ちを持ったものだ。自身の危険も省みず、相手の立場を気にすることも無く、ただただ人を助けに走る。素晴らしい事だ。
しかし彼にはそれほど高尚な思いは無い。おそらく一人でいたならばこんなところに来ることは無く後処理だけをして終わっていたことだろう。
ならばなぜ今走っているのか?
それはクレア自身にも分からぬことだった。
そして、とうとう彼らは辿り着いてしまう。
ズウゥン。
地響きが鳴る。それは先程まで走り続けていたクレアやミリィが思わず足を止めてしまう程のものだ。地面から伝う振動をその身に受け、恐怖から、或いはそれを跳ね除けるべく奮い立ち拳が震えるのを感じる。
クレアは慎重に振動を感じた方へ向かって進んだ。その先にはミリィが何かを睨み付けるようにして立っているのが見える。自然と視線を彼女が見ているものの方へと向け。
「あっ」
そして、後悔した。
彼女が視線を向けている先は幾つもの明かりがばらまかれ不幸にもその場の状況が分かるほどの明るさを持ってしまっている。あるのは幾つかの死体。上半身の消えたものや四肢の欠けたもの、或いは全身を強く打ったのか潰れて内臓が飛び出しているものもある。見ただけで恐怖に震え何日も悪夢に眠れない日が訪れるかもしれない、そんな地獄絵図。
その中心には、それがいた。
「大蛇……!」
巨大な蛇は一本の木に巻き付いて高みから人々を見下ろしている。その尾の先は斬られており、間違いなくこの大蛇がカルゴーネへの道中に出会ったものと同一の個体であると示していた。
クレアは剣を抜きミリィの前に出る。蛇の頭は人間よりも巨大だ、剣を抜いたところで何が出来るのか。彼はそう思っていたが、それでもミリィを置いて逃げるわけにはいかない。異常を目の前にして善良な心の持ち主さえ見捨てるというのなら、自身がこれまでにやって来た事は何だったのか。それは彼自身が心に決めた在り方に強く反していた。
「ねぇ」
大蛇を前に脂汗を流す中でミリィが不意に声を上げる。
「何ですか?」
「あの蛇は何を見てるの?」
ふと、その問いを聞いてかれは大蛇が自分たちがいる方角以外にも気を払っている事に気付く。サンクト達の生き残りが近くにいるのか、或いは。
「……あれは!?」
クレアは大蛇の更に奥に巨大な何かが動くのを見た。彼は思い出す、助けを求めてやって来た男が言っていたことを。彼らは巨大な熊のような生物と遭遇し、それから大蛇に襲われたのだと。
「なぜ逃げない……!」
そして今、彼の目に映っているのは巨大な毛皮を被り移動する複数の人間の姿だ。おそらくはサンクト達がばらまいた明かりに照らされその事実が白日の下に晒されている。逃げたサンクト達を追ってここまで来たのか、或いは妙な地響きを聞いて状況を確認しに来たのか。いずれにせよ、すぐ傍にある本物の異常に向けて彼らは歩み寄る。
「私逃げろって伝えて来る!」
「なっ!?」
ミリィが走り出すが今更クレアにそれを止める事は出来ない。彼は今更もう大蛇から目を離す事など出来はしないのだ。
「……やるしかないのか」
彼にとってそれは甚だ不本意だ。なぜ自らの欲の為に異常を偽った連中を助けねばならない、それも自らの命を懸けてまで。全く以て理解は出来なかったが、それでも、大蛇がミリィと毛皮を被った者達の方へ向かった時、何を考えるまでも無く走り出していた。
死、それが間近で大蛇を見た時に浮かんだ言葉だ。それは間違いなく自分に死をもたらす存在だ、クレアはそう思った。しかしそれでも彼は彼自身の為に目の前の大蛇を切り伏せねばならぬ。
「喰らえっ!」
振り下ろされた剣は大蛇の胴体を四分の一ほどの所までどうにか食い込んだ。だがそれから先はまるで動かずそのまま振り抜くことも引き抜くことも出来ない。ゼノはあれほど簡単に尻尾を切り裂いていた、胴体だからかそれとも力の差なのか、その答えを知るよりも早く大蛇の瞳がクレアを捉えた。
「あ……」
その瞳に自分の姿が映っている、その事実にクレアはただ顔を引き攣らせ全身の力が入らなくなっていくのを感じていた。こうなるのは分かっていたはずだった、カルゴーネへの道中にこの大蛇に睨まれた時も同じだったのだから。まるで世界から切り離されたかのように自分を遠く感じる、恐怖は段々と薄れ目の前の景色はまるで他人事のように感じる。きっとこれは防衛反応だ。このままであれば、苦痛も何も無いままに終われるのだろうから。
「そんなのは現実逃避だ!」
大蛇が大口を開き目に映る全てを飲み込もうとしたその時、クレアは叫び横っ飛びに地面を蹴った。恐怖が彼の中に戻る。地面に強く擦れ、木の枝が刺さった腕は痛みを訴え、なぜこんな事をしたのかと恐怖を叫ぶ自らの声が心の内に木霊する。恐怖も苦しみも痛みも何も無いままに終われば幸せだったと。
「ふざけるな!」
しかし彼は自らを鼓舞するように叫ぶ。大声を上げる彼に周囲の目が集まっていたが今の彼はそんな事など気にもしない。剣を失おうと戦う事を諦める事は無い。
「異常の恐ろしさなど、とうに知っている」
彼は未だに夢を見る。自らの故郷が滅んだ時の夢を。自分が立ち向かおうとしているものの恐ろしさなど今更教えられるまでも無い。
「だからこそ、私は戦うんだ!」
彼は己の弱さを憎んでいた。もしも力があればあの時故郷を救えたのだろうか、ふとした拍子にそんな夢を、ありもしない妄想を思い浮かべてしまう。
それが嫌だった。
「私は全ての異常を打ち滅ぼす、そして胸を張って、今ならばあの時も皆を救えたと叫んでやる!」
異常から人を守り、異常を打ち滅ぼし、いつか平穏が訪れた時。彼は胸を張って故郷に花を添える事が出来るのだろう。
ただ、今の彼にそれだけの力は無い。
「あっ!」
ミリィは大蛇がクレアの叫びなど気にすることも無くその尾を大きく振るわせたのを見た。クレアがどれほど虚勢を張ったところでそれに太刀打ちする術も無い。誰もが次の瞬間を見るに堪えず目を閉じた。
―――ドウゥン。
長い間の後、肉塊が地面に落ちるような音が響いた。それは誰もがあそこに立っていた騎士が尾の一撃に吹き飛ばされ二度と目を開ける事が無くなった音なのだ、そう思っていたのだが。
「……え?」
他でもないクレアが声を上げる。何が起こったのかわからず呆然としていたのだが、落下音の鳴った方を見るとそこには切り裂かれた蛇の尾が落ちている。そして自身のすぐ傍に立つ影の方を見た。
「あ……」
そこには返り血で汚れてはいたがオルディア教の紋章が刻印された鎧を着た男が、聖騎士ゼノが立っている。
「他の者を避難させてくれ」
彼はそう一言零し走り出した。
大蛇は更に短くなった尾を見て怒り狂う。一度ならず二度までも自らの肉体を切り裂いた聖騎士を怒りで赤く染まった瞳で捉えている。しかし、その巨大な異常を前にしても聖騎士は一歩たりとも引く様子はない。
クレアは他の比較的大蛇の近くにいる生存者の元へ向かいながらその戦いを見た。
大蛇が自らの巨体で目の前の聖騎士を引き潰そうとすれば、聖騎士はその鎧の重さを感じさせぬ跳躍力でそれを飛び乗りその剣を突き立てる。だが剣の一突きなどその巨大な体躯からすれば針で刺したようなものだ、間を置くことも無く大口を開けて聖騎士を丸呑みにしようとしたのだが。
聖騎士は或いは大蛇がそうするのを誘っていたのだろう。
「うあっ……!」
見ているだけで思わず口から声が漏れる程に壮絶な光景だ。
聖騎士は突き立てた剣を力任せに大きく振り抜き大蛇の上顎と下顎を完全に分断する。上下に分かれたそれらはしばらくは勢いのままに宙を舞い血飛沫を上げていたが、やがてそれも無くなり地面へと力無く落ちて行く。
地面を染めていく血溜まりがそれの死を確かに告げていた。
「お、おおおお!」
「すげえ! 流石は聖騎士様だ!」
生き残っていたサンクトの仲間たちがその光景に声を上げ始める。余程生き残った事が嬉しかったのだろう。クレアもひとまずミリィが生き残っているのを確認し安堵の溜息をつく。腕に刺さった木の枝を引き抜き痛みに悶えながら、これから始まるのは歓喜の雄叫びとは程遠い事なのだが、とぼんやり考えていた。
大蛇の死体の周りでひとしきり生き残った事への喜びに打ち震えた彼らは、時間と共に段々と目の前の状況を理解する冷静さを取り戻していた。それは例えば数多くの死体を見て思わず口を噤むことであったり、これ程に巨大な蛇をも一刀両断にしてしまった聖騎士への恐れであったり、或いは巨大な毛皮を被ってこんな場所へいる事がどれほどまずいのかようやく思い至ってみたりだ。
毛皮を被っている者達はそろりそろりとこの場を後にしようとしたのだが。
「この場を離れるとどういう事になるかは聖騎士様の姿を見てから考えてくださいね」
クレアの言葉が彼らにぐさりと刺さる。彼らは思わず見るだろう、言葉とは裏腹に返り血に塗れ赤く染まる邪悪さをも感じる聖騎士の姿を。もしも争いになれば全員でかかったとて鎧を彩る返り血が増えるだけなのは考えるまでもない。彼らは毛皮を脱ぎ捨てその場に置き、不貞腐れるように座り込んだ。
「あ、あっちの化け物は偽物だったのかよ!」
サンクトの手下の一人が叫ぶ。彼の声に合わせて視線は次々と毛皮を被っていた者達の方へと向けられていく。
「ランドさん、こちらへどうぞ」
クレアはその中にいたランドに手招きをした。彼はせめてもの抵抗なのかしばらくその場から動こうとはしなかったのだが。
「ほら、行くよ」
「うわっ!?」
傍にいたミリィがその首根っこを掴んで引っ張り上げる。ランドはあからさまに嫌そうな表情を見せているが、事がここまで至れば今更だろう。彼は人々の厳しい視線に晒されながらクレアたちの元まで歩いて行った。
「ごほっ、ごほっ、ふぅ……。まるで罪でも犯したみたいだな」
「私はその通りだと思いますがね」
悪びれる風も無くそんな言葉を吐いたランドにクレアは即座に言葉を返す。ランドは自身へ向けられたあらゆる攻撃的な視線を遮るべく目を閉じて俯く。気分は裁判にでもかけられたようなものだろう。事実、クレアはここで彼を裁くつもりだ。
「我々が異常を解消しにやって来た事はご存じの通りでしょう」
「ああ、昨日説明されたからな」
「あなた方に昨日お話しいただいた異常にはどのようなものがありましたか?」
「こんな場所で改めて言う必要があるのか?」
「別に諸々の手続きは省略しても構いませんよ。お望みならばこの場であなた方皆を処断して終わりでも我々は構いません」
クレアの態度に下手な言い訳や時間稼ぎは無意味だと感じたランドは溜息と共に自らのやってきたことを告白し始める。
「確かに、見ての通り俺達はあの毛皮を使って異常を作り上げた」
その言葉に周囲がざわめく。ランドの傍にいたミリィは何かを堪えるように奥歯を噛み締めて俯いている。クレアはただ無表情のままにそれらをじっと見つめていた。
「なぜそんなことを?」
クレアが理由を問うたのはそれでも、もしかすれば、万が一、止むを得ない事情があったならば、そんな思いもあったのかもしれない。或いは彼はそうであって欲しいと願っていたのだろう。
しかし。
「俺達が見つけた炭鉱を守ろうとしただけだ。異常があれば人は寄り付かない。幸いここは異常がたくさん発生していたからな、一つ増えたってわかりゃしない、そう思っただけだ」
出て来たのは予想されていた通りの答えだ。彼らが炭鉱を守ろうとするその気持ちが理解できないわけではないが、その為に異常を持ち出した事が彼には許しがたい事だった。もしもこの場に二人きりだったならば、今頃ランドの首と胴は離れ離れになっていたのかもしれない。
今は怒りを耐え真実を追求すべき時だ、クレアは必死に自分を抑えようと努めるがその心を逆撫でするような事は続く。
「ランドの言う通りだ! 炭鉱は俺達が見つけたんだ、何で余所者に渡さなきゃならねえ! 俺達は自分たちのものを守ろうとしただけだろ!」
「そうだそうだ! 自分たちに出来る方法で守るべきものを守って何が悪い!」
後方に控えていた住民達が騒ぎ出す。無論、彼らの言う事にも一理無いわけではない。自分の物を誰かに奪われまいとするのは至極当然の事なのだから。
「何が守るだ! その為なら何したっていいのかよ!」
「そうだそうだ! 異常を偽るなんざ恥を知れ!」
サンクトの手下も彼らの言を聞いて騒ぎ出す。これもこれで一理ある話だ。自分の物を守る為に何をしても良いのなら村や町、国家のような共同体など作り上げる事は出来ず人々は血で血を洗う争いの中に身を置き続けるはずだ。
クレアの目には彼らがこの上なく醜く映り、ただただこの茶番を早く終わらせたいと願っていた。異常を解消する為に訪れたはずの場所でなぜこうも醜い人の争いを見なければならないのかと、こんな事の為に聖騎士を目指していたはずではないと、ただ嘆く。
ミリィは互いを罵り合う炭鉱の住民とサンクトの手下たちとの間で自らの力不足を嘆いていた。彼女にはなぜ彼らが争っているのかを理解できず、その事に涙さえした。無力で愚かで滑稽な自分自身を嘲っていたのかもしれない。
ゼノは事の趨勢をただ見守っている。それは彼らがどうなろうと関係ないという無関心の現れなのか、争いを止める術を持たず無力感に苛まれているのか、はたまた別の感情を持っているのか。外部から彼の中身を推し量る事は出来そうもない。
過熱する両者の罵り合い、やがてそれが殴り合いにまで発展しそうになったところで。
バアン!
その両者の熱が一気に冷める音が鳴り響いた。その乾いた破裂音は異常として認識されていたものだ、炭鉱の住民はまた何か起こるのではないかと身震いし聖騎士たちに助けを求めるような目を向けた。
対してサンクトの手下達は少し反応が違う。確かにそこには恐れがあったがこの先に何が起こるのかを恐れているようには見えない。それはまるで自分のやらかした不始末が親に見つかるのを恐れる子供のような。
「皆さん、どうかしましたか?」
クレアはここぞとばかりにサンクトの手下達へ声を掛ける。彼らは何かを口ごもるようにして互いに視線を向け合うばかりだ。無駄な事を、クレアはそう思った。今の音が鳴り響いたという事は、何が起こっているのかは彼には想像がついている。なにせあの偉そうな異常研究者がまだここに現れていない。
「何だか静かになったみたいだね。私としてはもう一発ぐらい盛大な音を鳴らしたかったところなんだけど」
そう言いながら木々の向こうより姿を現したのはロサだ。彼女はその手に箱を携えにやにやといやらしい笑みを浮かべている。サンクトの手下たちはその箱を凝視し顔を青褪めさせていた。クレアとロサは二人で彼らのすぐ傍まで歩きその表情を愉しそうに歪める。
「おやおや、どうしました? 皆さん顔色が悪いですよ?」
「そうだなぁ。ああそうだ君達、その毛皮で彼らを温めてあげるといい。同じ穴のムジナ同士仲良くやれるだろう?」
突如指差された炭鉱の住民達はまるで話が分からず首を傾げる。サンクトの手下たちは皆一様に冷や汗を垂らし、まるで先程のランドのように自らの沙汰を待っているかのようだ。ロサはそんな彼らに手を伸ばす。
「な、何だ?」
「火」
「は?」
「火は? あるだろう? 導火線に付ける為の」
男は一瞬その言葉に従うのを渋ったがクレアが僅かに剣を抜き始めているのに気付くと諦めて懐から火打石と火打金を取り出し差し出した。それを見ながらクレアは先程の破裂音から察するに火種ぐらい持っているだろうに、と彼女の性格の悪さに内心で文句を付けている。
「では、とくと御覧じろ」
彼女は大仰にそう叫ぶと受け取った火打石を打って火花を散らす。それは箱の隅から出ていた導火線へと伝い、それを見た彼女は箱を誰もいない場所へと放った。導火線の火が箱の中へと消え、次の瞬間。
バアン!
それは先程も鳴った音だ。炭鉱の住民が異常と信じ恐れていた音だ。それを聞き呆然としていた彼らは、しかしすぐに冷静になりその意味に気付く。
「あれはお前らがっ!」
これもまた偽物の、人が人を脅かす為に作られた異常だったのだと。怒りに血が上った彼らは文句の一つでも言おうとしていたのだが。すぐにその傍にいるクレアが冷たい視線を向けているのに気付くだろう。
「ええ、あなた方と同じですね」
そして放たれた言葉に反論する声は無かった。ロサは言葉を失くす人々の前で大仰に拍手をしながら声を上げる。
「いやはや、異常の研究者としても中々物珍しい機会だったよ。人間というのは、本当に愚かで救えない。恐ろしい異常を前にしても自らの欲の為にこそ動く君達は非常に天晴れだ」
それが侮辱であり侮蔑であるのは分かり切っていたが誰も何も言う事は出来ない。事が明るみになってしまったからにはその言葉を受け入れる事しか出来ないのだと誰もが理解していたのだ。ミリィはこそこそとゼノの傍に移動しポツリと呟く。
「あの二人、息ぴったりだね」
おそらくはクレアとロサにとってそれは罵倒に近いものだったのだろうが、そんなこと知った事では無くゼノはただその言葉に頷くのだった。
図らずも炭鉱の住民達による巨大生物の異常偽造の現場を押さえ、サンクトの手下からは例の箱で音を鳴らしていたという言質も取れた。更には大蛇もゼノの手によって討伐されて、合わせて三つの異常の解消に成功したと言ってもいいだろう。ひとまずはそろそろ山を下りたいと思う頃だ。
その前にこれからの方針を決める必要があるとクレアは考えているようだが。
「サンクト本人への聴取をどうするかは問題ですね」
「貴殿に任せる」
「ゼノ様……、少しはこの辺りの話も混ざって頂けると助かるのですが」
クレアは相変わらず交渉事になるとまるで話に入って来ないゼノに対して呆れていたが、以前に比べれば多少はその点にも納得がいく部分があった。そもそもゼノが聖騎士になった方法というのは本人の言が正しいのならばかなり特殊な事例、あるべき姿とは全く異なっている。クレアは従騎士としての訓練の中で他者との交渉についても幾らか学んだが、ゼノはそんなものまるで学んでなどいないのだろう。それで言うと彼がオルディア教の聖典を諳んじれる程に覚えている事すら驚きである。
しかしながら今はゼノに力がある事を誰もが理解しているだけで十分であった。この場の誰もがあの大蛇を簡単に殺した相手を前にまさか逆らおうなどと言う気力は失せていたのである。クレアは今後自分たちがどうなるか想像し恐怖に青褪めている者達を尻目にひとまずゼノよりは建設的な意見を出しそうな者に意見を求める。
「ロサさん、この後はどうします? 何も無ければ彼らをそのまま村に連行して詳しく話を聞いた後に沙汰を決める予定ですが」
その問いに対してロサは少し考える素振りを見せた。クレアはこの女が彼とは違う行動原理を持っている事はなんとなく察しているが、少なくとも頭は回るし自分に無い発想を持っている事も認めていた。そんな彼女の提案は。
「もう一つの異常、火の玉について調べたいね」
やはりクレアの考えていた予想とはまるで違うものだった。
「それは今ですか?」
「これだけの人数が集まっている今だからさ。今なら誰も隠し事をしようとは思わない、情報を確実に引き出しやすい。火の玉に何かからくりがあるならそのからくりを探すだけの人員も用意出来てるわけだ」
「……成程」
少なくともロサの考えに特別反対すべき理由は彼には無い。強いて言えば周辺に死体が散乱していて不気味なのでさっさと離れたいというぐらいだ。合理性を欠いた理由故に今回は無視される事になるが。
「良いでしょう。ひとまず火の玉について少し調べる事にします」
ロサとクレアは改めて炭鉱の住民とサンクトの手下を集め話を始める。
「さて、罪人たるあなた方にも最低限その罪を償う機会というのは設けられるべきでしょう」
ざわめきが起こる。それは既に罪人と定められた事に対してか、それとも自分たちがどうにか助かるかもしれないという希望を持った故かはわからない。
「あなた方の中には空を舞う火の玉を見た者もいるでしょう。それに付いて情報を求めます。一人一人、可能な限り詳細な話をお願いします」
その言葉には拍子抜けしたのか彼らはぽかんとしていたが、これ幸いとばかりに次々と皆が自分の覚えている限りの事を話し出す。
その様子を尻目にミリィは一人大蛇に殺された人々の所を回っていた。両手を丹田の辺りで組み祈りを捧げる。それはオルディア教において死後の平穏を願う祈りだ。
「貴殿は彼らにも祈りを捧げるのだな」
ゼノがそんな彼女に声をかけた。
「オルディア様は誰もが平等であると仰りましたよね?」
「そうだ」
「でしたら彼らもそのはずです。たとえその手が何らかの罪で汚れていたとしても……、彼らも私と変わらないただの人だったはずなんです」
ミリィのその言葉は死んでいった彼らにかける言葉というよりは自分自身に投げかけた問いのようだった。彼女は今まさに自分の持つ信仰と現実に折り合いを付けている最中なのかもしれない。ゼノは黙ってその姿を見届けている。
そんな一幕とは関係なくクレアとロサの方では聞き取りが進んで行くのだが。
「あまり新しい情報は無さそうですね」
「どうやらそうらしい」
例の火の玉が人為的なものであると確信している彼らは色々な人から話を聞けばその中から何かしらそのからくりを紐解く鍵が見つかるかと考えていたのだが、残念ながら聞けたのは事前に聞いていた情報と変わりないものばかり。
「夜に空を舞う緑っぽい光ねぇ……。何かあるか?」
「そもそも緑の光というのは可能なので?」
「金属の中には炎の色を変える物もある。確か緑色にもなるはずだ」
「成程、色については説明がつくと」
「仮にそうだとしたら問題はどうやって空中を飛ばしたのかだ……。紐を木と木の間に通す事もできるが火事になるリスクを負ってまでやることか……?」
思考がドツボに嵌ったかの如く話がまるで進まない。いよいよ人海戦術で山中を探し回る事になるだろうかとクレアが危惧し始めた時、祈りを捧げ終えたミリィとその傍にいたゼノが戻って来る。
「これからどうするの?」
「ああ、それは……」
ミリィの問いにクレアは口ごもる。純粋にどうすべきか迷っているというのもあるし、横にいるロサが苦悩している様子を見ればわかるだろうと言いたかったのかもしれない。
「ロサさん、えっと、どうするの?」
彼の言いたいことを察したのかミリィはロサの方へ視線を向ける。苦悩に満ちた表情でぶつぶつと呟いていた彼女は、ぴたり、と止まり硬直した。その不気味な動きには誰もが息を呑み不安そうな表情で彼女を見つめた。やがてふっ、と糸の切れた人形のように彼女は地面へと崩れ落ちる。
「駄目だ、何も思い付かない」
その表情は恐怖と恍惚の狭間で揺れている。ミリィは一人、ロサが語った事を思い返していた。異常を恐れるが故に異常を神格化し決して人の身にはどうにもならない何かであって欲しいと願う彼女の姿を。この謎が解けないことは彼女にとって幸せなのだろうか、そんな疑問が頭の中で渦巻く。
「これは、もう、山中を引っ繰り返して探すしか無いだろうね」
ロサは狂気的な笑みを浮かべながらそう言った。
クレアはその言葉に思わず頬を噛む。できればそれは避けたかった展開だ。それは炭鉱の住民やサンクトの手下を信用していないとかいう話では無く、単にこの暗い夜闇の中で見つかるかどうかも分からない物を探すのが嫌だっただけだ。
しかしロサの表情を見ればもはや彼女が止まる事は無いと誰もが理解するだろう。クレアもその一人だ。
「何を探します?」
「おそらくは、紐? 木と木の間に渡してあるんじゃないか? 黒く塗ってあるかもしれない。それと火に繋がる何か、緑色は確か銅だったかな? 銅の塊とかがあれば、それも証拠になるかもしれないね」
それを聞いたクレアは本当にただただ面倒そうにこめかみを抑えながら溜息をついた。幸いにもゼノに怯えている連中は逃げ出す事が無いだろうし多少はましか、と思うものの何もこんな夜中にやらずともとも思う。兜に顔を覆われたゼノはともかくミリィは同じような表情をしているだろう、そう思い視線を彼女に向けたのだが。
どうも少し違う。
ミリィはぽかんとした表情で何度も瞬きをしている。
「……ミリィさん、どうかしました?」
クレアが尋ねると彼女はゆっくりと口を開き、
「火の玉って緑色なの?」
そう、尋ねた。
「緑だなんて言ってたっけ? え、言った?」
「昨日一緒に話を聞いてなかったのかって言われても、私ランド達には色々と文句言っててサンクトさん達の方はゼノさんの後ろで隠れてたから」
「ヤムクさん? 何してたっけ……、あ! トナ村長と一緒にお茶を汲んでたからその間かも?」
「火の玉を見た事? 無いよ。畑仕事で忙しいのにわざわざこんな山の方に来ないもん」
「気付いてたらとっくに言ってます! しょうがないじゃん!」
ミリィは皆を案内する最中そんな風に言い訳を並べ立てていた。尤も、彼女が何かしてしまったというわけではない。結局のところ、彼女のような村娘が何か役に立つとは思えないというクレアとロサの思い上がりが招いた事態なのだろう。
つまり、そう、ミリィには緑色の光を放つ物体に心当たりがあったのだ。
彼女が火の玉は緑色なのかと尋ねた直後の事。
「昔村長の旦那さんが言ってたけど、確か水源を上がって行くと小さな横穴があって、その中は緑色の光で満ちているって。その光じゃない?」
ミリィはそんなことを言ったのだ。彼女自身その場所に行った事があるわけでは無いようだが、確かにそれを聞いたのだと言う。
「なんだそりゃ? 聞いたこと無いぞ?」
しかし同じ村人のランドはそんな風に言い他の者達もそんなことは知らないと口を揃える。皆の疑いの視線にミリィが委縮し始めるが、クレアは牧師とゼノが話していたことを思い出す。村長の旦那さんが村の伝承をミリィに話していたというようなことを確かに言っていたのだ。
「……私は確認に行っても良いと思いますが、ロサさんはどう思いますか?」
ロサは思わずぎょっとするような愛憎入り混じった瞳でミリィを見つめていたが、やがてただ頷く。
「そうだな。確認には行くべきだ、今、すぐに」
そして一行は山を登る。水源を辿り上へ、上へ。険しく誰も通らぬような場所が続きそれでも必死に歩き続け、とうとう彼らはその場所に辿り着く。
「ここが水源かな?」
ぱっと見その周囲に横穴らしきものは無かったがよくよく見ればすぐに気付くだろう。一部、埋めたような跡が見られることを。一応危険がある事も考えゼノが代表してそこを掘り返す。
「あ!」
そしてすぐに皆の目に光が見えた。薄ぼんやりした淡い緑色の光が。誰もがその光の正体を確かめようとそれまでの疲れも忘れて身を乗り出す。ゼノのすぐ横にいたクレアは顔と同じぐらいの大きさの穴を覗き込み、その光が何から放たれているのかを見た。
「これは……、苔?」
「ヒカリゴケ……、珍しいものだ」
ロサはそう言って奥に手を突っ込むと中にある苔の一部を手に取った。それは淡く綺麗な緑色の光を放っており、その美しさに誰もが息を呑む。
「確かにそんな光だったかも……」
後ろで誰かが呟くと次々に俺も俺もとその言葉に賛同する。
「もしこれをランタンに詰めて木の間に吊るしたロープを走らせれば、空を駆ける火の玉に見えるだろうな」
彼女はそれを空にかざし、ひゅー、と走らせる。悩んでいた答えを見つけたとは思えないその寂しそうな瞳にどんな思いが込められているのか、クレアには知る由もなかった。




