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異常正常  作者: 藤乃病


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5.

 異常の聞き込みを行った日から一夜明け、それぞれに思う所はありながらも新しい一日を迎える。牧師の計らいで今日も一堂に会して朝食を頂いているようだ。

「昨日の聞き込みでは何か成果は得られましたか?」

 牧師は昨日は結局畑仕事の手伝いを遅くまでしており教会に戻って来た時にはもう夜も遅く、食事の後はオルディア神へ祈りを捧げるなどしておりろくに話す時間も無かったのだ。彼はカルゴーネに暮らして長く、疑う余地なく心優しき人物だ。頻発する異常に関しては人一倍心配している事だろう。

「ええ、幾らかは話を聞くことが出来ましたよ。ある程度分かった事もあるので今日からは本格的に異常の解消に向けて動いて行こうと思います」

「そうですか。それは良かった」

 そんな牧師に対してまさかカルゴーネの住民や炭鉱を狙う人々が起こした偽の異常の可能性があるなど流石に口が裂けても言えない事だ。たとえそれに対して色々と思う所がある彼らでさえ、牧師が悲しむ姿を見たいと思う者はいないらしい。

 食事を終えて外に。いつもの聖騎士の鎧で身を固めるゼノ、それに比すれば身軽な鎧を着たクレア、様々な物が入ったコートを羽織るロサ、そして最後に村でよく見かける作業用の服を着たミリィ。その四人が集まったは良いのだが、ロサとクレアの視線がある一人に向けられる。

「……えっと、どうかしました?」

 その視線の先にいるのはミリィだ。二人が思う事は一つだ。

「別に、あなたがこれ以上付き合う必要は無いと思いますが」

 クレアの言葉、その半分はこれから先は危険を伴うものになると分かっているが故のミリィへの優しさだ。そして残り半分は、そもそもなぜ彼女は自分たちに付いて来ているのだろうという純粋な疑問になる。本来であればそもそも村の住民による案内は予定しておらず場所さえ教えてもらえればそれでよかったのだ。それが成り行きでミリィが案内することになったわけだが、流石に昨日の今日で忘れるはずも無く案内は既に不要となっている。

 つまり一言で言えば、ミリィが同行する理由はクレアから見て何も無いという事だ。

 しかし。

「私も行きます」

 彼女はただその言葉だけを発する。本来であれば異常の解消には多大な危険を伴う行為であり、自称異常研究者であるロサはともかく単なる村娘であるミリィを連れて行く事はクレアには非常に不本意な事であったが。

「……ゼノ様、どうしましょうか?」

「貴殿が決めていい。自分は皆を守り異常を退けるだけだ」

 肝心の聖騎士であるゼノはそう言って判断を拒み、ロサは我関せずの様子を貫く。そしてクレアはこの度の異常が人為的な偽物であるのなら想定よりも危険は少ないのかもしれない、そう判断し説得が通じなそうな相手に時間を取るよりはと考えた。

「わかりました。あなたがついて来ることを認めましょう」

「はい!」

「ですが! 勝手な行動は慎んでくださいね!」

「はい!」

 返事だけは元気なようで逆に不安になるクレアであったが、それならば初めから認めなければいいだけだったでは無いかと自分で自分にダメ出しを行う。異常がどれ程危険なものか、知っている者こそが皆を守らねばならないのだから。

 一度言った手前、今更言葉を翻す事はしないが、だからこそ彼女の安全には細心の注意を払わねばならないと気を引き締めるのだった。




 一行が向かったのは炭鉱だ。ただしその目的は誰かと会う事ではない。

「我々の目的はひとまず、異常と目されていたそれが人為的な何かであるという証拠を掴むことです」

 現状、人為的な可能性があるとされているの巨大な熊のような生物、突然鳴り響く音、空を飛ぶ火の玉の三つの異常だ。

「巨大な熊に関しては毛皮を探し出すのが一番ですかね。おそらくはあの洞穴の中で厳重に管理しているでしょうからそう簡単には行かないでしょうが」

「私が中に入って探そうか?」

 ミリィの申し出にクレアは僅かに悩む。

「……いえ、それは、あくまで最終手段としましょう」

「え~、別にいいのに」

「可能な限り穏便に行きたいですからね。例えば他の様々な証拠を突き付けて自ら毛皮を差し出させるようにした方が後腐れがありませんよ」

「そういうものなの?」

「そういうものです」

 クレアは確かにそういう面がある事も事実として考えているが、それ以上に恐れたのはミリィが毛皮を探し出したはいいがその現場を炭鉱の住民達によって取り押さえられる可能性だ。既に彼らは異常の偽るという罪の一線を越えている。何らかの口封じをされる可能性は考慮しなければならない。

「そして音に関してですが、気になるのはやはり箱ですね」

「サンクト達が口を滑らせたあれだな」

 ロサの言い分は彼らがこの異常を偽ったと断定しているが、疑っているのは間違いのない事でありクレアは面倒を嫌い口を挟むのをやめた。

「その箱の現物を抑える事が出来れば話が早いという訳ですが、どうやって探しましょうかね」

「それで言うと炭鉱の住民には話を聞いておきたいな」

「と言うと?」

「昨日サンクト達がここを持って上がっていた荷物がちゃんと交渉の場に現れていたか確認したい」

「……ああ、もしそれが無かった、或いは量が明らかに減っていたのなら、それがどこに行ったのかという問いの答えは絞られますね」

 こんな木々が生い茂る山の中に他に人がいるはずも無い。それにも関わらず荷物が減っているのならそれは、例えば山中に何かを隠した、という事なのかもしれない。

「それに減っていたなら昨日サンクト達に出会った場所よりも上を探すべき、って話になるだろう?」

「それもそうですね。ではそちらは視野に入れておきましょう。問題は……」

「火の玉か」

 クレアとロサがほぼ同時に頭を抱える。火の玉に関して、彼らは行商人のヤムクが犯人であると確信しているが、その一方でどのようにして異常を偽装したのかについてはいまいち掴めていない所だった。

「蝋燭を燃やして空を飛ばしたとか? 木の間に紐をかければいい感じに行けるかも」

 ミリィは無邪気に身振り手振りを交えながらそんなことを言うのだが、実の所その可能性は低い。

「ここは少々燃える物が多過ぎる」

 地面の上には燃えやすそうな枝葉が無数にある。

「あの気の弱そうな商人が少しの失敗で山火事が起こるような事をするとは思えませんよ」

「しかも炭鉱の中には石炭がある。あれが燃えたら」

「あ……」

 炭鉱は火気厳禁、昨日ロサが言っていた事であるが炭鉱内部に火が移れば石炭までの道は閉ざされその後どうなるかは分からない。少なくとも、その時にあるのは炭鉱の住民と交渉するよりも難儀な道のりであることは想像に難くなかった。

「つまりその火の玉が人為的な何かだとして、炎そのものである可能性は限りなく低いのですよ」

「しかしぱっと見た時に火の玉だと思えるようなものでなければならない」

「果たしてそんなものがあったかどうか……」

 考え込み立ち止まる二人を見てミリィは困ったようにゼノの方を見た。しかしゼノにも彼らをどうすることも出来ないのか微動だにすることなく立ち続けるだけ。ミリィはこのまま彼らに任せて大丈夫だろうかと僅かに不安に思うのだった。




 ひとまず、火の玉の事は考えるのをやめて一行は登山を開始する。向かう先は炭鉱の住民が住まう洞穴だ。

「あくまで今回はサンクト達の事を聞くだけですから。余計な事はしないでくださいよ」

「はい!」

 クレアは一応ミリィに釘を刺す。彼女は少々直情的なきらいがあるので何も無しに放っておくと勝手に洞穴に忍び込みかねないと思っての事だ。それで何かしらの証拠が見つかれば結果オーライと言えなくも無いのだが、少なくとも現段階では無意味に危ない橋を渡る必要は無いというのが彼の見解だ。

 それに、必要であればミリィになど頼らず自ら洞穴に忍び込む方が早いとすら考えている。誤魔化すだけの話術も持っているしいざとなれば剣を交えてでも逃げ出せると。

 要するに彼はミリィがついて来ることを認めてはいたが、彼女に何かしらの仕事を任せるつもりはないらしい。

 洞穴に辿り着くと入り口付近にいたランドが彼らに気付き歩いて来るのが見えた。

「聖騎士様方。どうかしましたか?」

「いえね、少しお尋ねしたいことがありまして。昨日サンクトさんにはお会いしました?」

「サンクト? ごほっごほっ……、ああ、あいつらなら来たけど……、それがどうかしたのか?」

 ここでいきなり交渉の為に持ち込まれた品々について話を聞いても良かったのだが、そこからサンクトが何か異常に関わっていると思われるのはクレアにとって本意では無い。余計な波風を立てれば誰が自分たちに文句を付けて来るか分からずそうなれば動きづらくなってしまう。少なくともここの異常が確実に人為的なものであった証拠が見つかるまでは余計な情報を与えたくはないのだ。

 故に今回は少し他の切り口から話を始める。

「いえいえ。実は昨日サンクトさん達からもお話を聞かせて貰ったんですが、音が鳴ったっていう異常があったでしょう?」

「ああ。それが?」

「彼らの中にその音を聞いた時に妙な箱を見たという人物が居まして。他にも誰かそれを見ていないかを改めて調べている所なんです」

「へえ、そうなのか。俺は見てないが……、ちょっと聞いてみるよ」

 ランドは話を聞くとそれを素直に受け止め洞穴にいる仲間の元へ向かう。ミリィはその後ろ姿をじっと睨んでいるが、

「頼むから変な事しないでくださいよ」

「……そんなに私って何かしそうですか?」

 どうやら今日は大人しくしているつもりのようだ。その言葉が真に迫っていたのに加えロサも彼女を見張っているようなので、クレアはひとまず彼女についての心配を止めて丁度話を聞いて戻って来たランドとの会話を再開する。

「どうでしたか?」

「ちょっと、俺達の中にはいなかったな。箱ってのはどんな感じなんだ?」

「話ではそう大きな物ではないようですよ」

 クレアが手振りで大きさを示すがそれを見てもランドはピンと来ていないようだ。

「やっぱり記憶に無いな。まあもしもそのぐらいの箱を見かけたらあんたらに知らせるよ」

「ありがとうございます」

 と、ここで会話が終わりの様相を呈するが、クレアはまだ本命の話を聞けていない。すかさず一歩前に出て少し小声で彼に尋ねる。

「ちなみに、これは好奇心から聞くのですが」

「ん? 何だ?」

「サンクトさんとの交渉は如何だったんです?」

 ランドはクレアのその姿を見てどう思ったのか、おそらくは聖騎士の中にもそういう下世話な話が好きな者もいるのか、などと思ったかもしれない。一瞬ぽかんとした様子で口を開けて、すぐに砕けた調子で鼻を鳴らした。

「はっ、断ってやったよ。この炭鉱は誰にも渡さねえ」

「しかし、彼らが持って来ていたお土産の品々は大したものでしたよ? 荷車にこんなにたくさん積んであったじゃないですか」

 クレアはこの時わざと大袈裟な身振りでその量を示した。それを見たランドは思わず苦笑いを浮かべながら。

「おいおい、精々このぐらいのもんだったろ」

 それとなく訂正する。そこで示した地面からの高さで見る量は、おおよそ胸の辺りだ。そしてそれは明らかにクレアたちが見た荷車に積んであった荷物よりも少ない。思わず、クレアは胸の内に怒りが溢れ舌打ちの一つも零れそうになったが、どうにか堪える。

「ははは、ですが。それでも大したものですよ。我々は聖騎士ですがそれでもそれほどの量の―――」

「――――――――」

「―――――」

「――――――――――」

 それからクレアはランドとどのような会話をしていたかあまり覚えていない。ただ分かるのはほとんど事前に考えていた通りの会話を流してその状況を乗り切ったという事だけだ。ようやく平静に戻った時には既にランドと別れて山を下り始めていた時。

「お~い、話を聞いてるのか?」

 ロサが彼の肩に手を置いてそう尋ねた時の事だった。少し驚きながら振り返りロサの顔を見つめた彼は必死にその場を取り繕おうと直前まで彼女が何を言っていたのか思い出していた。

 そしてサンクトが更に怪しくなったことと荷物の行方を探るべきだろうという提案をしていた事をどうにかぼんやりした記憶から見つけ出す。

「ああ、そうですね。ここからは山の中で例の箱を探し回る時間でしょう」

「やはりそうか。どうする? 手分けするか?」

「そうですね……」

 当然だが、目当ての物がどれだけの数あるのか分からないが山の中から目的の物を見つけ出すのは簡単では無いだろう。幸い四人もいるのだから手分けして探すのが最も効率よくはあるが、果たしてそれでいいのか。

 カルゴーネへの道中に現れた大蛇やクレア自身が遭遇した抜け出せない回廊に関しては今の所人為的なものであった気配すら感じられない。この付近で起こっている異常は全てが全て偽物とは限らない。だとすれば。

「……二手に、分かれましょうか。ゼノ様とミリィさん、私とロサさんの二組で山の上と下からこの付近を探しましょう」

「まあ、妥当な所かな? 聖騎士様とミリィはそれでいいかな?」

 ゼノとミリィもその提案に頷き早速それぞれ上下に分かれ山の中を探索し始める。クレアはこれで本当に良かったのかと悩みながらも、ひとまずは作業を邪魔する思考を投げ捨てて目の前の作業に没頭し始めるのだった。




 二手に分かれての捜索、クレアとロサは互いを見る事すらなく草木を分け入って例の箱を探し続ける。が、あまりにも何も起こらず時間だけが淡々と過ぎて行く。それに飽きたのか、或いはただ単に丁度いい機会だと思ったのか、クレアは一旦手を止めるとロサの方を見た。

「異常の研究というのは実際、どのような事をしているのです?」

 普通の世間話だ。適度に仲を深めようとする際に一般的に見られるような普通のもの。ロサもこれはそういう儀式のようなものだと察して普通に返事をする。

「基本的には現地調査か。と言っても異常が起こっている所もそうだが異常が解消された後も私にとっては現地の一つだ。実際にあったその事例をまとめて共通項を探しそれが本当に異常だったのかを考える」

「鉱山の咳病もその一つという事ですか?」

「他にも色々なものがある。巨大な蛇や熊みたいなのはしょっちゅうだし、光や音もよくある異常と言えばそうだ。この辺は従騎士である君にも分かっている事じゃないか?」

 ロサの言う通り、巨大生物に音や光というのは比較的よくある異常だ。どれにも共通しているのは原因がまるで分からないという事ぐらいで危険性の高いものやあまりに高頻度で起こるものに関しては聖騎士の派遣が行われている。

「他にも嘘か真か分からないようなものもあってね。例えば不死鳥や火の鳥の伝説なんてものがあるだろう?」

「民話集か何かで読んだような記憶はありますね」

「そうそう。色々な町を回っているとそれを見たという人と会う事も珍しくなくてね。以前に聞いた話だと火山の近くの町だったか、水を汲んで帰ろうとしているといつまで経っても町に辿り着かない。霧も出て来たしおかしいと思って近くの岩に腰かけて休んだんだと。そしたら火山が噴火するような爆発が起こった」

「それは恐ろしい」

「ああ、そうだな。しかし彼はその中に天へと昇って行く火の鳥の姿を見たという。噴火したと思ったが実際には溶岩が吹き出る事も無かったらしくてその爆発は火の鳥が起こしたんじゃないかと言っていたよ」

「あなたはそれを信じているので?」

「微妙な所かな。ただ離れた土地で同じような話を聞くこともあったからあり得ない話では無いだろう?」

 そう言われるとクレアとしても無理に否定するような理由は無い。今の彼にわかるのはロサは確かに多くの土地を巡り様々な話を見聞きして異常について調べているという事ぐらいだろう。

 故に、気になってしまう。

「ロサさんは」

 しゃがみ込んで地面の盛り上がっていた部分を軽く掘り返していたロサはその声に振り返り次の言葉を待った。クレアはよくもまあこんなつまらなくて地味な作業を真剣にやれるものだと感心しつつ、だからこそその熱意の源泉がどこにあるのかを知りたくなるのだろう。

「なぜ異常の研究者に?」

 異常の研究、それは常に危険と隣り合わせだ。時に町すら滅んでしまう程の恐ろしい現象である異常について調査が為されていない事などあるはずが無い。しかしそれが遅々として一向に進まない原因の一つが、その危険性にある事は間違いないだろう。

 クレアは自身の体験からその危険性については心に深く刻み込まれており、故に、彼女がそれほどの熱意を燃やすのには何か深い理由があるはずだと考えていた。

「なぜ、か」

 ロサはその問いに対して答えるのを渋るように押し黙り。

「純粋に人々の為、じゃ、駄目かな?」

 飛び出した答えはそこら中に転がっていそうな建前のようなものだ。無論、クレアはそれに納得などしない。

「異常の研究をしているというのならわかると思いますが、異常は危険なものですよ。関わるのは常に命懸けです。何の理由もなく研究者になって様々な事を調べるなんてあるとは思えませんね」

 ロサはそれを受けて黙り込む、が。やがて口を開いた時に飛び出したのは。

「それを言うなら君もだろう」

 売り言葉に買い言葉、逆にクレアを問い詰めるような言葉だ。

「君は異常が危険で命懸けだと言うけれど、従騎士の君が目指すのは聖騎士なのだろう? 異常を解消する為に自ら最前線に身を置く職じゃないか。私なんぞよりも遥かに危険だと思うけどね」

 それを言われるとクレアにも言葉は無い。互いが互いを睨み合い、やがて示し合わせたようにそっぽを向いて箱の捜索に戻る。

 この二人、どうやらあまり馬が合わないようだ。




 ゼノ、ミリィのチームは二人固まって地面を漁り箱を探している。その最中、ミリィはちらちらと兜の向こうの表情を見ようとしているかのように何度も視線を向けている。

「聖騎士様は普段はどのような事をしているのですか?」

 やがて彼女はそんな事を尋ねた。彼女はもしかしたら聖騎士様の普段の生活を探ろうとするのは不敬に当たるかもしれないと思っていたのだが、ゼノは全く気にする風もなく口を開く。

「……そうだな。基本的には任務であちこちを走り回っている」

 オルディア教における聖騎士の仕事は生半可なものではない。異常はあらゆる地域で起こっており、その解消の為に様々な場所へと派遣される。彼らに休みというものは存在せず、強いて言えばそこへ向かう道中の移動時間が僅かな安息の時間なのかもしれない。

 そしてゼノは聖騎士の中でも類稀なその実力故に危険な任務を言い渡される事が多い。カルゴーネに来る道中に出会った大蛇も、本来なら聖騎士が数人がかりで立ち向かうべき相手だ。一人で撃退できるような力を持つ者はそう多くない。故に彼は危地から危地へ命を省みず飛び回る狂気の騎士とすら言えるのかもしれない。

「私はカルゴーネから出たことが無いのでわかりませんが、他の町はどういった感じなんですか?」

「どういった感じ、とは?」

「行商人の人やあのサンクトはここは遅れた田舎だと言っていました。町に行けばもっと最先端の物がたくさんあって、こんな場所よりもずっと便利で優れていると」

「少なくとも、便利な物がたくさんあるのは事実だ」

 カルゴーネで行われている人の営みは農耕や狩猟などはっきり言って前時代的な物が多い。無論、生きて行くには食料が必要でその最低限を満たす為にはそれらが必要なのだが、町の方へ行けばそれらはより効率的な形へと進化しているものだ。

「……そう、ですよね」

 ミリィは曇った表情を見せる。彼女は作業の手を止めて立ち上がると、今にも泣きだしそうにしながら口を開いた。

「聖騎士様。私は、カルゴーネの未来を邪魔していると思いますか?」

 その問いの意味はゼノには理解できなかった。

「何が不安だ?」

 故に彼はただそれだけを尋ねる。

「昨日、聖騎士様はオルディア様が目の前の相手に慈悲を示すように教えていると仰いました」

「そうだな」

「それで、一晩、考えたんです。私が与えるべき慈悲とは何なのか」

 慈悲、とは何なのか。時に優しく相手の意に沿うように行動することが慈悲を与える事になる時もあれば、敢えて厳しく律する事こそが慈悲を与える事もある。ミリィは彼女が守りたいと思うもの、カルゴーネに対して彼女が与うべき慈悲について考え続けていた。

「カルゴーネが遅れていて、そのせいで人々が苦しい生活を送る事になっているのであれば、私のしている事はそれを助長するだけではないでしょうか? 炭鉱を守ろうとするランド達の方が、寧ろ町の為に動いているのではないでしょうか?」

 炭鉱が生み出す金銭はどのような経緯を辿るにしろいずれカルゴーネを豊かにすることだろう。それがカルゴーネの住民の手によって運営されるなら猶更だ。

 しかしミリィはこれまでそんなものは捨てて元の生活に戻るべきだと主張して来た。彼女、一人だけが。

「牧師様も、今も畑仕事を続ける人達も、ランド達の事を悪く言う人はいないんです。彼らの好きにやらせてあげればいいというだけで、決して反対するようなことは無かったんです」

 彼女はこれまでその事にも腹を立てていたはずだが、今は、どうにも、自分が正しいのかどうかわからなくなっていた。

「本当はみんな気付いていたんじゃないかと、思って。炭鉱は、結果的にはこの場所を豊かにするものだって、畑仕事をする人が居なくなって苦しい思いをしていても、彼らは町の為を思ってやっているってわかっていたんだって。私、一人だけが、我が儘を言っていたんじゃないかって」

 彼女はカルゴーネを出たことが無い。だからこそここの生活しか知らず、それ以上を求める気持ちなど、彼らが持っている不満など理解できない。

「聖騎士様、教えてください。私はどうするべきなのでしょうか?」

 ミリィは今、初めてこの村を取り巻く問題と向き合っていた。

 ゼノは彼女の問いを受けて、その真摯な瞳を見つめ、少し悩んだ。悩み、そして。右手を、彼女に差し出す。

「……えっと、これは?」

「握手だ」

 その行動の意図が分からずミリィは困惑していたが、ひとまずはゼノの言葉に従って彼女も右手を差し出し手と手をがっちり組み。

「痛っ!」

 思わず叫び声を上げた。

「痛、痛い痛い痛い痛いっですって!!!」

 ゼノが手を握る力は凄まじく手の骨が折れてしまうかと思う程のもので、彼女が力の限り叫び声を上げたところでようやくその手が離される。そして痛みに耐えながら若干距離を取りつつ聖騎士を睨み付ける。

「今のは、何のつもりですか?」

 まあ当然の反応だろう。まさか握手を求められたと思ったら手を破壊するつもりかと思う勢いで握り潰して来るとは思わない。彼女の怒りは至極、当然のものだ。

 しかしゼノはまるで動じる様子もなく、ただ、一言。

「自分は人の痛みが分からない」

 ミリィにはその言葉がどういった意味の言葉なのか、理解できなかった。

「それは、どういう?」

 故に聞き返す。しかし彼にはまともに答える気など無いのだろう。詳細な説明などありはしない。ただ。

「貴殿にはそれが分かるのだろう?」

 ミリィにはその言葉が何らかの真理を突いた言葉なのか、それともただ適当に言葉を続けたものなのか区別もつかない。それでも。

「ならばきっと彼らの想いを理解することも出来るはずだ」

 それでも、ゼノのその言葉は、寂しそうに呟かれたその言葉だけは、本物なのだと信じたい。そう、思った。




 そんな会話があったところで本来の目的は全く別の所にある。あくまでも彼らが今やっているのはサンクト達がこの山のどこかに隠したと目される爆発音を出す箱を探し出す事だ。時に仲良く話しながら、時に作業に集中し視線すら合わさず、時には互いを探るように不躾な質問をしてみたり、時間が過ぎて行く。

 山の中では景色も然程変わらない、進んでいるのか停滞の中にいるのかもわからないそんな時間の中で彼らは疲れ果て何の成果も得られずに帰る事になるのだろうか。

 そう思った矢先に、

「あ」

 ミリィが思わず声を上げる。すぐ傍にいたゼノはすかさず彼女の元へ行き、その指差す物を見た。

「これ……」

 そこにある小さな箱は何の飾りもされずにただ置かれていて、その下からは小さな導火線が見えている。ゼノが箱を手に取ると微かに火薬の匂いがしていた。

「おそらくはこれだろう」

「やりましたね!」

 嬉々として笑みを浮かべるミリィは両手を挙げてハイタッチなどしている。その姿はさながらこのまるで色の無い山に咲いた一輪の華のようだ。きっと皆もこのように喜んでくれるだろう、ミリィはそう信じてゼノと二人、クレアとロサの所に向かう。




 箱を発見した報告を受けたクレアは実物を軽く確認すると一旦山を下りる事を進言し彼らは即座に下山を始めた。ミリィはもっと喜んでくれてもいいのにと拗ねていたが、彼としてはただただ渋い表情になるだけの出来事だ。

「異常を偽る者がいるなんて……」

 皆の後ろ、少し離れたところで彼は一人呟く。彼は十年程前の、幼い頃の事を思い出していた。




 一人の人間の人生が異常によって狂ってしまう事は大して珍しい事ではない。クレアもまたそうした人間だ。彼は元々大して珍しくもない中流階級の両親の元で生まれ、商売で生計を立てている彼らの手伝いをしながら暮らしていた。物覚えが良く計算も早い彼はいずれは両親の仕事を継ぎ店を大きくするのが夢という、本当に普通の少年だったのだ。

「あんたんとこの坊ちゃんはよう仕事をしとるな。うちの子にも爪の垢を煎じて飲ませてやりたいね」

「ははは、まああの子は出来が良いからな。俺達の自慢の息子だ」

 両親や常連客が自分の事を褒めてくれるのが誇らしく彼は日々手伝いに励み毎日を過ごしていた。ずっとその普通が続いて行くのだと疑う事も無く彼は日々を過ごしていたのだ。

 人を絶望へと追いやる暗き闇がどのようにして這い寄って来るのか、彼はまだ知らなかったのだ。

 それは本当に突然に起こった。

「……? なんだか静かだ」

 クレアがある日目覚めると、太陽の柔らかな日差しが差し込み彼の身体を照らしていた。いつもならばもう外では多くの人が活動を始め両親も店の準備に大忙しの時間。そんな時間に不思議と静寂を感じる奇妙な日だった。彼はそんなこともあるかと思い部屋を出る。或いは両親が寝坊しているのかもしれないと彼らを起こしに行ったのだ。

「父さん、母さん、まだ寝てるの?」

 寝室、そこには誰もいなかった。ベッドはもぬけの殻でさっきまで人がいたような気配も無い。ではどこへ行ったのかと家と店が一体化している我が家を探し回る事に。

 しかし、そこには誰もいない。

「おかしいな。どこ行ったんだろう」

 そう思って彼は何気なく外を見た。静寂に包まれていた外を。そして彼は異常をその目にする。

 人が波になっている。多くの人が風や振動に身を任せ一つの生物のように動きを統一しまるでさざめく波のように揺れている。そこにあるのは自らの意志で動く人間ではなく、まるで波そのもの、或いはそれに揺蕩う植物のようでもある。

 不気味な光景だ、ありうべからざる光景だ、悪夢のような光景だ。しかし、これは現実だ。

 クレアがそれを見た時の感情を一言で言い表す事は難しい。しかしこれだけは言える。その現実離れした光景を前に彼は恐怖と戦う事すら出来ずその場に膝をついたという事を。

 数日後、その街には大勢の聖騎士がやって来て異常の解消へ向けて動き出す。クレアはその際に家の前に停まったオルディア教の馬車を覚えている。そこから降りて来た聖騎士の姿を、差し出してくれた手の事を覚えている。その経験があったからこそ聖騎士を目指す事になったのだった。

 そして彼はこの幼少時代の記憶故に一つの頑なな意志を持つこととなった。

 異常とは、この世にあってはならないものなのだ、と。




 今、クレアのすぐ近くに異常を自らの手で作り上げようとした者達がいる。その事実は彼にとって耐え難い憎しみを抱かせるには十分なものだ。

「全員殺してやりたいな」

 クレアは思う。或いは、虐殺騎士も同じ気持ちだったのだろうかと。




 箱の実物を手に教会へと集まった一行はたまたま戻って来ていた牧師と共にその箱の見分を始める。

「僕はこの手の物に精通しているわけではありませんのでロサさんお願いします」

「私もそこまで詳しいわけじゃないが……」

 ロサは言いながら周囲の顔ぶれを見る。何を考えているのかわからない聖騎士、田舎を出たことの無い村娘、ただただ敬虔な牧師。彼ら三人は見れば見る程にこういった技術とは無縁の存在のように思えて来る。

「まあ、私がやるとしようか」

 彼女は仕方なく、といった表情を見せながらもその箱を手に取りどこから開けるべきか回したり引っ繰り返したりしながら確かめる。時折首元から提げているレンズで覗き込み精査しているようだが、やがてその結果が出る。

「どうやらネジで締めてあるらしい。少々開けるのは難儀しそうだね」

「ネジ?」

「物を留めるのに使われる物で、ここについている」

 箱の横に付けられたそれはがっちりと留まっていてどうやら再び開ける事は想定されていないようだ。

「工具があれば楽に開けられるけどこれなら破壊した方が楽かもしれない……。とは言うけれど火薬が入っているのならあまり大きな刺激は与えたくないかな」

 火薬の威力というのは既に人々の間に広く知れ渡っている。戦争においては火薬を用いた大砲の数で勝負を分けると言われるほどに重要視されているもので、兵役の経験がある人々の中にはそれらが長年に渡り築き上げた砦や城を破壊して行くのを見て来た者もいるだろう。

 この箱の中に詰まっている火薬の量はそれらとは比べるまでも無く少ないのだろうが、だからと言って馬鹿に出来るようなものでもない。どうにか穏便な開け方を考えていたが。

「貸してくれ」

 不意にゼノが声を上げる。特に反対する理由も思い浮かばなかったロサは素直にその手に持っていた箱を彼に渡し、直後。

 バキッ。

「あ?」

「え?」

「何の音ですか?」

 箱が開く。ネジで止められていた部分が力任せに引き千切られ破壊されて。

「この程度なら工具も何も必要ない」

 そう言って強引に開けられた箱がロサの元へと返される。彼女は内心、目の前のデカブツの無神経さに呆れを覚えていたが、ひとまずは、中身の確認を優先することにした。

「……やはり火薬だね。外に出ていた導火線に繋がっている」

「つまりサンクト達は導火線を伝って遠距離からこの箱を起爆していたと?」

「おそらくは。暗い夜の山の中、導火線の先を持って箱の近く、例えば木の上などに陣取っていたとしよう。誰かが近付く音が聞こえたらすかさず手に持った導火線に火を点ける。それが箱まで達するとこの火薬に引火して爆発、大きな音が鳴るってところかな。箱は爆発で飛び散って残らず、正にサンクト達の証言の通りになるだろうね」

 ロサはそう言って箱を閉じる。

「つまりこれは本物の異常ではない。いやぁ、良かった良かった」

 ミリィはそう呟いたロサの表情にどこか違和感を覚えていたが、それについて考える前に隣で席を立つ音が聞こえそちらに視線を向ける。

 クレアが一人、立っている。

「……どうかしたかい?」

 少し驚いた表情でロサが尋ねる。それも無理は無いだろう。彼の表情は明らかに普通ではない。怒りに満ちていて、もしもその対象が目の前にいたならば今にも暴力的な衝動に身を任せるのではないか、そう思える程だ。

「……少し、外に出ます」

 彼はそう言ってその場を離れる。ミリィは心配そうにその背を見つめていたが、ロサは呆れたように溜息をついた。

「あの従騎士は大丈夫なのかい?」

 彼女の問いはゼノに向けられたものだ。自然、その場の注意は彼に向けられる。

「何があったか知らないがあの調子で聖騎士の任務の邪魔にならないのかな? あんなに感情的になってさ、あれが何かしでかすんじゃないかと心配だよ」

 ロサの心配は尤もな部分もあるのだろう。今、突然席を立ったクレアは明らかに冷静さを欠いており感情的になった人間が何をするか分からないのは誰もが承知の通りだ。人々の思惑が複雑に絡み合うこのカルゴーネの一件においてそのような人間はいつ爆発するか分からない不発弾を抱えているようなものだ。

 おそらく、クレア自身すらそれは承知の事だろう。彼はミリィに常に注意を払っていつ爆発するのかを恐れていたのだ。今は自分がその立場に置かれている事を理解していないはずが無い。

 故にロサは、彼はこの場に相応しいのかと、彼の上役であるはずのゼノに問うているのだ。 

「確かに、理解できないな」

「そうだろう?」

 そしてゼノは別にクレアの味方というわけではない。そもそも彼との付き合いはロサと比べても長いわけではなく任務の直前に始めて出会った間柄に過ぎないのだから。聖騎士であるゼノにとっては今回の異常を解消する事以上に重要な事は無く、従騎士が居ようが居まいが関係は無い。

 つまり。

「だったら」

「だがそれは重要な事か?」

 ゼノにとってはクレアが何を考えているのかなどどうでもいい事だ。

「今ここで起こったのは異常が一つ消えたという事だけだろう。この件に関してはサンクトを問い詰め事情を吐かせればそれで終わりだ。違うか?」

「いや、まあ、そうだが」

「クレアがなぜ出て行ったのかは知らないが、それは今後の動きに関係あるのか?」

 絶句。その表現がこの場に置いて最も似合う言葉だろう。

 ロサもミリィも唖然とし、牧師でさえ苦笑いを浮かべる。誰も何も言葉を発する事が出来なかったのだ。それはもう、或いは聖騎士というものに一種の幻想を抱いていたのかもしれないと思わせる程に、まるで人の心を理解していない言葉だった。




 ロサは一人、寝室へ戻る。彼女はふらふらとした足取りでベッドへ向かうとそのままバタン、と音を立てて倒れ込んだ。長い髪が彼女の顔を覆ってその表情を隠す。

「やっぱり、あの音は異常では無かった、な」

 その呟きは、誰に聞かせるつもりでもないその呟きは、ただただ悲嘆に暮れてそれが彼女の望みでは無かった事を告げている。明かりの無い薄暗い部屋で彼女は自身の心が疲弊し動く事も出来ず、まるで死に向かっているようにすら感じていた。

「どんな者にもどうすることも出来ない、本物の異常は……」

 彼女の瞳は暗闇の中に刺す一筋の光を探しているかのようにゆらゆらと動いている。しかしこの場に届く光などありはしないはずだ。

 誰かが蝋燭など持って来でもしない限りは。

「暗い所にいると気が滅入っちゃいますよ」

 扉を開けて入って来たのはミリィだった。ロサは彼女の来訪を心の底から鬱陶しいと思い、舌打ちの音すら響かせる。しかしそれに動じることなく彼女は中へ歩みを進めロサのすぐ傍に腰を下ろした。

「邪魔だよ」

 言葉を飾る気力すら無いのか彼女は率直な言葉でミリィをどこかへ遠ざけようとしていた。しかしそれは死にかけの猫が必死に自らの牙を見せつけようとしているのと大差ない。ミリィはベッドの傍の燭台に蝋燭を置いてロサの方に視線を向けぬまま話し出す。

「ちょっと気になった事があって、聞きに来ました」

「私は疲れた。今度にしてくれ」

「嫌です」

 たかが村娘が鬱陶しい、それを口に出さなかったのはロサの中にもまだ理性と良識が残っていた証だろう。しかし直後、彼女はそれを口に出さなかったことを後悔する。

「どうしてあれが本物の異常じゃなかったってわかった時に残念そうにしてたんですか?」

 その問いに思わずロサはミリィの方を見た。しかしその問いをぶつけて来た彼女は未だ部屋の反対側を見つめたままでロサの方を見ようとはしていない。こちらを見ていないというのなら不意を打ってその事に気付いた彼女を殺してしまおうか、そんな発想まで思い浮かぶ程に動揺し、しかしそんなことをする度胸など自身には無いと知っている事だった。

 ロサはこの場に彼女自身の罪を裁こうとする何かがいるのだろうかと、奇妙な恐れを感じ始めていた。それは単なる村娘と侮っていたミリィが彼女の本心を見抜いた事に対する動揺の所為であると理性は叫んでいるのだが、或いは本当にオルディア教の神が嘘を並べ立てる自分の事を裁こうとしているのかもしれないと怯える。

「何を、まさか」

「声が震えてますよ」

 嘘は即座に見抜かれる。なぜこんなただの村娘がこれほどに恐ろしいのか、ロサには分からない。自分の理解の及ばない者が目の前にいるという事だけは分かっている。自分の理解の及ばない者が、確かに目の前にいる。

 ロサはその事実を噛み締め、ふっ、と息を吐いた。それまでの怯えを見せていた様子が嘘のように、どこか安心したように。

「どうしたんですか?」

「いや、少し、昔の事を思い出してね」

 ミリィはただただ首を傾げる。

「さっきの問いには、答えよう」

「本当ですか?」

「ああ、だが……、少し待ってくれ。どう説明したものか、考えるから」

 そう言って彼女は過去に思いを馳せる。自身がまだ子供だった頃、首元のネックレスの先にあるレンズを貰った頃に。

「このレンズは、誕生日のプレゼントだったんだ」

 彼女の話はその言葉から始まった。




 現在より十年程前。ロサは小さな町の一角に暮らしていた。両親は工房を営んでいて金属やガラスなどの加工を行って生計を立てていた。

「ロサ、面白い物を作ったぞ!」

 その日、彼女の父親は様々な文献を紐解き人々との技術交換の末に世界に一つしか無いその小さなレンズを作り上げた。

「これを通して見るとな、物が大きく見えるんだ! どうだ、凄いだろ!?」

「凄い凄い! どうしてこうなるの!?」

「知らねぇ! だが形を工夫するとこういう物が作れるんだ! まあこれほど精巧な逸品を作れるのは俺ぐらいのもんだろうがな! わーっはっはっは!」

 父親の笑い声が工房内に響き渡る。彼女は父の笑い声が好きだった。自信家のお調子者でくだらない事に一喜一憂する人物ではあったが、その笑い声を聞いていると不思議と何でも上手く行くような気がしたものだ。

 今ではもう、どんな声だったのか思い出す事も出来ないが。

 彼女が住んでいた町は既に消えてしまった。そこは様々な技術の集約地であったが、そこは一夜にして滅びを迎えたのだ。

 ある日、不審な物音を聞いて彼女は夜遅くに目が覚める。外はまだ暗く星の明かりが町を照らしている。そんな時間にも関わらず、外には多くの人がいるのが見える。

「何してるんだろ」

 彼女は気になってその様子をじっと見つめていた。そしてどうも奇妙だと感じ始める。そこにいる人々は何をしているわけでもなく、まるで風を感じただ揺れているかのように見える。人が出歩いているのではなく、そういう形の木々が風で揺れているかのようだ。

 不審に思った彼女は父に話を聞いてみようと寝室へ向かったがそこは既にもぬけの空だ。

「……どこ行ったんだろ」

 その時点で彼女に嫌な予感がしていなかったと言えば嘘になるだろう。既に鼓動は早鐘を打ち一歩一歩が重く、まるで泥濘に沈んでいるかのような錯覚さえ感じていた。それでも彼女は父を探す。あの笑い声を聞ければ何もかも大丈夫だと思えるはずだから。

 外へと通ずる扉は普段よりもずっと重たく感じられ、それはまるで扉を開くなと何者かが警告をしているかのようだった。しかし彼女は自らの力を振り絞りその扉を開ける。開けてしまう。

 彼女の目の前に広がる光景は、まるで絶望そのものだ。星明かりの元で人々はダンスを踊る。それが自らの意志では無く風に揺られているだけだとは思えぬ程、整然と寸分の狂いもなく揃った動きをし続ける。

 恐怖を前に人は儚く脆い、後ずさりしそのまま尻もちをついた彼女は、皆と共に狂ったダンスを踊り続ける父の姿を見ている事しか出来なかった。




 そこまで話し終えたところでロサは一息つく。顔色は悪く、思い出したくなどない出来事であったことは想像に難くない。ミリィはいつの間に持って来ていたのか水を差し出しゆっくりと飲むように勧めた。

「……悪いね。どうにも、あの時の事を思い出すと……」

「いえ……、すみません」

「いいんだ。君の問いには答えなければいけないと思ったからそうしているだけだから」

 ロサにとってこれは忘れたい過去であり、それでいて忘れ難い過去だ。もはや彼女という存在の一部と化したそれは不可分なものでありこの先もそれを思い出しては苦しみ続ける事だろう。背中をさするミリィの手の温かみを感じながら彼女はゆっくりと呼吸を整える。

「ありがとう、もういい」

 ミリィはまだ心配そうにしていたが辛そうな中にも気を遣うような笑みを見て、これ以上は逆に余計な心労を与えるかもしれないとロサの正面に向き直る。

「えっと、それで、その……」

「ああ、今のは、私の過去の話でしかない。君の問いには答えていないね」

 ミリィが尋ねたのは、なぜ異常が偽物であるとわかり残念そうな表情をしたのか、である。ロサの過去が悲劇的なものであるかどうかは直接的には関係ない話だ。

 しかし。

「前提知識として知っていて欲しかったのさ。それがあったとて納得できるかは分からないけれど」

 彼女の過去の話を抜きにしてミリィの問いに答える事は出来ないのである。

「幸いにも町から救い出された私は異常の研究を始める事にしたんだ」

「それは、町を襲った異常の事を知る為に?」

「いや、違う」

 ミリィは困惑の表情を見せる。ロサがそういう表情をするだろうと想像していた通りに。彼女にはきっと、私のような後ろ向きな考えなど理解は出来ないだろうと思っていた通りに。

「私はあの異常を前に立ち向かう事も出来なかった」

「それは……、子供ですから仕方ないことなのでは?」

「あの優しかった父が異常の中にいる事も分かっていたのにその場から動く事すら出来ずただ恐怖のままに逃げたんだ」

 彼女はその事を強く後悔している。たとえそのおかげで彼女の命が助かったのだとしても、その後悔は彼女の心に大きな消えない傷を残した。

「私が異常を研究しているのは、あの時の私が間違いじゃなかったと証明する為だ」

 それはミリィにはまるで理解できない理由だ。まるで感情の無い表情でロサは呟く。

「人の進歩と共に異常は解明され、異常で無くなる。それでも、人の手にはどうにもならない何かが、残り続けるのなら。……私が遭ったのはそういう何かなのだと思えるじゃないか。父を助ける事が出来なかったのは、仕方なかったと」

 それは難しい単語を使っているというわけではない、ただ、なぜそれがそこに繋がるのかがまるで理解できない。ミリィは目の前にいるのが同じ人間であると思う事すら出来そうもなかった。それほどに彼女たちの中身はまるで違うのだから。





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